二、会津若松城の総攻撃

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 八月十一日参謀よりの御達として、「御藩、館林、忍御人数白川表ヘ転陣候様於白川表御軍議相成候段被相達右ニ付諸隊ヘ明十二日当地発軍ノ旨相達」の書状を受け取った。そこで翌十二日発、館林、忍藩と共に軍を白河にかえす。そして、その夜は須賀川に泊って翌十三日白河に着いたのである。黒羽藩の白川への転陣は、かねてから軍監瀬谷角之進が、黒羽藩兵をもって領内三斗小屋口より会津進撃の謀を進言したことが用いられたからである。さらに八月二十日、白川参謀より左の御達があった。
     白川在陣 黒羽藩隊長中
  館林人数ト合併シ急速三斗小屋ヨリ会津ヘ進撃可有之旨 御沙汰候事
    辰八月廿日 白川口総督 参謀
この御達を受けた館林および黒羽藩は二十二日、三小隊、大砲二門、館林藩三小隊、合わせて六小隊砲二門、そのうち四小隊は北の湯に、他の二小隊は大沢村に至った。そして、別に新たに出兵の一小隊(小島村にあった)と合して、那須岳口に向かった。このあたりは険しい山道で糧食弾薬の運搬が困難な上に賊兵がしきりに覗くと聞いたので、諸兵は餅をついて糧食とし、弾薬は各々六十発をもって山路にかかった。
 二十三日、北の湯に向かった四小隊は二手に分かれ、一つは大丸を越えて不意に賊の背後をつき、一つは那須湯本の賊を一掃し、那須岳を越えて三斗小屋に至る。時に賊兵険峻によって頑強に抵抗す。わが軍大小砲をもって必至に応戦したがまさに弾丸が尽きようとした。この時幸いに大丸越えの兵が来て賊の背後をついたので、賊兵は大砲輜重(しちょう)を捨て山を越えて退散した。
 一方大沢村にあった三小隊のうち二小隊(館林一小隊、黒羽藩一小隊)、大砲二門を率いて小谷村に至る。その時賊兵約一小隊民家に隠れいると聞き、小隊長益子四郎一民家の前に立つや、賊の一人にわかに銃をとって発砲す。銃丸胸部を貫通してついに立たず、享年二十二歳。小谷村には、故黒羽藩小隊長益子戦死碑という大山巌題額の碑が立っており、その文の中に、「八月廿三日撃敵於小谷村敵必死力拒君先衆進銃丸貫其右肩洞左腋猶不屈突然又中一九遂死時二十二君資性豪爽臨戦意気奮揚傍若無人皆服其勇」とある。益子四郎小隊長を失った黒羽藩兵及び館林兵は、さらに板室村の残賊を掃蕩し、途中山中に野営をして、翌二十四日三斗小屋に至る。この日益子四郎戦死につき一番隊長として安藤小太郎到着す。
 同二十六日、館林二小隊半、黒羽藩三小隊半を合併して野際村へと進んだ。ところが大峠を越え中峠の険峻にかかると、ここに賊五十余人が牆壁(しょうへき)を構えて守っていた。激戦の後これを破り、さらに進んで駒返坂に至る。ここには賊兵約二百人、大砲を構えて我を迎え打つ。ようやくにしてこれを撃退したが、味方の兵は少なく、ことに疲労がはなはだしいので、いったん三斗小屋に帰陣することにした。ちょうどその時土州藩から左の来書が着いたのである。
  黒羽藩、館林藩、隊長御中
一筆致啓上候愈御安全御奉職可被成奉拝賀候然者去ル廿三日総軍若松着不日攻城ニ取掛リ最早賊徒釜中ノ魚ト相成申候仍テハ聊カニ而モ多勢有之度奉存候間何卒片時モ御人数御繰入相成様致度固ヨリ御途中残賊路ヲ支候儀モ可有之候得共一応御打払ニ相成候得ハ必ズシモ後ヲ不顧御進軍被成度様奉存候此段不取敢御掛合仕度如斯御座候恐惶謹言
  八月廿八日 参謀土州藩 谷守部
        片岡健吉  伴権太夫
  五月女三左衛門様

この書面はおそらく若松城の西南日光口の方面は、官軍手不足のため賊軍しばしば打ち出で官軍の進入を妨害するので、三斗小屋口の軍勢をまわしてもらいたいというのである。
 九月朔日、館林藩兵三小隊臼砲一門、および黒羽藩兵四小隊砲二門を率いて三斗小屋を発し、会津領内音金村に至る。同二日音金村を発し大内村に着く。ここで日光口より進撃してきた薩の一小隊と会う。昨日大内峠を攻撃した芸、肥前中津、人吉、今治、宇都宮、大田原の連合軍は、賊の頑強な抵抗に会ってついに抜けなかったという。黒羽藩兵は薩藩の軍監中村半次郎の率いる薩藩兵とともに諸藩にさきがけて突撃してこれを破り、さらに追撃して関山を抜き本郷村に至る。
 九月五日未明、黒羽藩兵は本郷村を発して大川の河岸に達するに、暁霧もうもうとして視界をさまたげ、ついに敵影を見ることができなかった。そこでまず大砲を発して敵状を探ったが一向反応がなかったので、黒羽藩の先鋒一斉に川を渡って中州に達した。するとたちまち対岸より盛んに発砲してきたので、黒羽藩兵もこれに応じ、交戦数刻の後これを破って飯寺村に進んだ。賊は同村に火を放って逃れたが、黒羽藩兵これを急追してついに若松城下河原町に迫った。
 十四日、総攻撃の命が全軍に降り、黒羽藩は河原町口より進んで城下に迫り門外に戦ったが、この戦に一番小隊長高橋亘理敵弾に斃れた。しかし勇士など少しもこれに屈せず進んで二の丸に至ったが、小銃の応戦実に烈しく、また大砲臼砲火を放って天守をめがけてさくれつす。まことに凄惨の窮みであった。しかしさすがは会津武士、城中糧食弾薬すでに尽きんとするも一歩も退かず、死闘まさに四昼夜に及んだ。しかも若松城はついに落ちた。煙燄(えん)天をこがす中に名城鶴ケ城の天守閣の崩れ落ちていく時敵も味方も涙をのんだことであろう。
 若松城攻撃戦において黒羽藩も数人の戦死者並びに負傷者を出している。左に掲げる。
    城下河原町にて
   一、戦死  二番小隊兵士    鮎瀬文蔵
   一、戦死  三番小隊兵士    平山文之丞
   一、同   四番小隊兵士    井上金太郎
   一、同   五月女三左衛門家来 高野忠兵衛
   一、手負  二番小隊兵士    笠井健平
   一、同   三番小隊兵士    稲沢寅蔵
   一、同   砲手        渡辺銀五郎
   一、同   同         黒木仁右衛門
   一、同   益子四郎家来    永井三代次郎
    飯寺村にて
   一、手負  二番小隊兵士    吉成松次郎
    関山村にて
   一、戦死  二番小隊属長    佐藤熊太郎
   一、同   四番小隊兵士    渡辺啓治
   一、手負  同         大野勇蔵
   一、同   同         松本道之助
   一、同   砲手        阿久津千代之助
    若松城総攻撃にて
   一、戦死  一番小隊長     高橋亘理
   一、同   三番小隊兵士    渡辺治三郎
  掃蕩戦
 若松城が陥ちたその翌九月十五日、黒羽から三田恒介が早駕籠で陣地に着いた。すなわち、賊徒再び三斗小屋に現われ放火、また会津領田島村付近にも、賊徒二千余人屯集し、ややもすれば黒羽辺にも打ち出すやも知れずと。そこで直ちに大沼渉が、故高橋亘理の一番小隊を率いて若松表を出発した。そして二十日、全軍若松を発して二十一日夕刻白川に到着、二十一日逃室村に至ってここに本営を置くこととした。越えて二十五日夜、田島街道に当たって数百の炬火あがるとの急報があったので、直ちに斥候を出して探らせたところ、賊徒約八百、百村に入って雑穀野菜を掠めて屯集すと。
 二十六日払暁、黒羽藩兵四ケ小隊は百村に進軍、うち二ケ小隊を越堀に止めて、腹背から賊をはさみ討たんとの計略だったが、前夜半賊は百村を発して大田原方面へ立ち去った。そこで直ちに越堀に止め置いた一隊を差し向け追って大田原に至ると、たまたま大田原に宿っていた阿州、彦根の兵と出合い、聞けば賊徒は今夜石上村に宿るらしいという。しかし賊は夜半すでに石上村を出発していたので、二十七日未明、阿州、彦根、大田原の藩兵はこれを追って片府田村に至った。黒羽藩兵も同じく二十七日未明大田原を発し、片府田村へ直行、蛭田村から佐良土光丸山の北背に出て賊の動静をうかがう。時まさに午前五時、賊徒総勢六百余人佐良土村に現われたので、黒羽藩は一ケ小隊を山上に備えて援軍とし、二ケ小隊を蛭田、佐良土間に、三ケ小隊を光丸山の東那珂川岸に、そして一ケ小隊を大砲護衛にあてて時の熟するを待った。戦は一発の大砲を合図に始まった。賊は先きに水戸を脱出した市川三左衛門摩下の兵だけあって勇壮防戦につとめたが、諸藩の三面からの合撃によってたまらず潰走し、箒川を渡って小川村方面へ退却した。
 この戦はかなりの激戦で彼我の死傷も多く記録によれば次の通りである。
   一、賊兵討取拾壱人
   一、小銃分捕拾挺
   一、戦死  二番小隊兵士    新江新吉
   一、同   同         小室末蔵
   一、同   三番小隊兵士    佐川久次郎
   一、手負  砲手        渡辺銀五郎
   一、同   同         奥沢登一郎