三、論功行賞

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 戊辰の役に奥州征討の軍に加わった黒羽藩兵は、慶応四年閏(うるう)五月二十四日旗宿の戦に始まり、明治元年九月二十七日佐良土掃蕩戦まで、約半年の長期間にわたり、歴戦二十回、従軍の兵士(夫卒をふくむ)四百十七人、戦死者三十五名、手負若干を記録している。
 黒羽藩出征兵士の特徴は、従軍兵士四百十七人のうちその約半数はいわゆる農兵であった。農兵とは先君増裕が、慶応二年三月、領内農、工、商の子弟十六歳以上五十歳以下の者を徴し、練兵をさせる制度を作り、郭内近傍の者(百十名)は藩士の練兵場で毎月二回ないし三回の訓練をし、また須賀川館(五十三名)、峰岸館(五十八名)、寺子館(八十二名)、逃室館(五十二名)、松子館(五十七名)などは、その他に練兵場を設けて訓練を施すという仕組であった。
 戊辰の役奥羽征討軍に加わった農兵について一例を挙げてその状況を察することとする。那須郡芦野町(現在の那須町)大字峰岸に峰岸館兵従軍之碑というのがある。撰文はときの軍監大沼渉である。文に曰く、
明治戊辰官軍之征奥羽也下毛黒羽城主大関増勤君 奉朝命出兵有功増勤君之父増裕君英邁果断文久中以全藩之士卒編成西式銃隊後欲増加之慶応丙寅更下令募農兵設六館於封内峰岸館其一也峰岸板屋高瀬寄居白井簑沢諸村皆属之其服兵役者五十二名毎歳四季派教員訓練之兵備漸充実焉丁卯冬増裕君卒増勤君襲封矣明年五月本藩使執政五月女益詮率歩兵四小隊砲二門従官軍次旗宿戦中野守白坂尋破棚倉援浅川克本宮二本松従軍又踰那須岳三斗小屋連破塁壁而進遂入会津与諸軍囲其城転而追撃賊於佐良土実九月廿七日也大小二十餘戦衆皆莫不奮励致力峰岸館従軍者三十六名而死傷者十有一名………以下略

藩士とともに農兵奮戦の状況を知るに足るものである。
 戦は終わった。しかも小藩よく薩、長、土等の大藩に伍して少しも遜色(そんしょく)なく、勇戦敢闘まことに偉なるものがあった。十月十二日、軍監大沼渉、福島滞陣の白川口総督に招かれ次の感状並びに御酒肴料を受く。
     御感状
此度会津追討ニ付孤兵ヲ以テ日光並三斗小屋口ヨリ数十里ノ嶮地数所之賊塁攻破遂ニ其巣窟ニ討入連日烈戦之故巨賊以下及降服候次第希有之功労存候仍感状如件

     明治元戊辰十月
        白川口総督 正親町中将花押
        黒羽藩   隊長中
     一、酒九斗料金拾弐両
     一、鯣三百五十枚料金五両
(五月女恕助所蔵)

 また明治二年六月二日、行政官より左の通り御沙汰があった。
        大関美作守
小藩ヲ以テ賊域ニ介在シ断然方嚮ヲ決シ各所奮励毎戦奏功藩屏ノ任ヲ逐ケ候段叡感不浅仍テ為其賞高壱万五千石下賜候事

     明治二己巳六月  行政官
     一、高壱万五千石依戦
      功永世下賜候事
      明治二己巳六月 太政官
 藩主大関増勤賞典録拝戴に伴い、出兵隊長以下功労者全員に対し応分の賞与を下付することになった。ここでは隊長以下二三の重臣のみを記して他は略することとする。
 
            五月女三左衛門
戊辰五月隊長之命ヲ奉シ白川口出張毎戦指揮其宜ヲ得竟ニ賊巣ヲ破リ成功ヲ奉シ干城ノ任ヲ尽シ候段不堪感嘆候依之為其賞百五拾石令加増刀一腰差遣者也

        従五位 大関増勤花押
 
            大沼渉
戊辰五月軍監ノ命ヲ奉シ白川口出張日夜軍務ニ鞅掌シ其後小隊長ニ転シ竟ニ賊巣ヲ破リ干城ノ任ヲ尽シ候段不堪感嘆候依之為其賞百二十石令加増刀一腰差遣者也

 
            安藤小太郎
戊辰五月軍監ノ命ヲ奉シ白川口出張日夜軍務ニ鞅掌シ其後小隊長ニ転シ竟ニ賊巣ヲ破リ干城ノ任ヲ尽シ候段不堪感嘆候依之為其賞百二十石令加増刀一腰差遣者也

 そのころすでに函館五稜閣の戦争も終わりを告げ、天皇のもと新政府が生まれていろいろな改革が行なわれた。そして、黒羽藩に於ても士卒に対する恩賞が行なわれて一応平静にもどったが、いわゆる明治の変革期に当たっていたので、朝令暮改、政令が目まぐるしく変わり、また財政面の困窮もあって、いつまでも旧態を維持することができなくなった。明治四年辛未七月十四日、廃藩置県によって大関増勤は藩知事を免ぜられ、十月某日、旧藩主増動の名をもって左の御達があった。
去ル戊辰役諸士卒ノ奮励ニ依テ巨多ノ恩賞ヲ拝戴ス増勤自ラ戦地ニ臨マス素ヨリ旧一藩ノ力ナリ然ルニ其功労ヲ賞スルヤ旧慣ニ依リ士族卒家禄時勢適宜ニ改革スヘキノ命ニヨリ内外ヲ斟酌シ旧高百四十石以上ノ禄ハ切捨其餘モ亦是ニ准ス其方法名有スル処ノ家禄ナリ今ヤ旧封ノ県ヲ廃セラルルニ至リ大蔵省ヨリ世録ト賞典トヲ引分クノ命ニヨリ最前賞スル処ノ文意ニ照シ賞典ト家録トヲ分別シ更ニ令充行候遠隔ノ辞令不任意旧藩ノ大参事ヘ依頼シ今施行候条此旨相達候也

     辛未十月     大関増勤
 
 この達を受けて藩士の動揺は激しく、不平不満を訴える者も多かったが、大勢の赴くところいかんともなしがたく、藩士の生活、前途にますます暗い影を落としたのである。しかし、日本のあけぼのはようやくさしはじめたのであった。