第一章 大田原宿

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 江戸時代における主要な陸上の交通路には、江戸を枢軸とする五街道があった。その一つの奥州街道は奥州道中とも呼ばれ、白沢より白河までの十宿であった。すなわち白沢 氏家 喜連川 佐久山 大田原 鍋掛 越堀 芦野 白坂 白河であり、そのうち途中最大の宿場が大田原であった。
 今参考迄に児玉幸多編「近世交通資料」中「奥州道中宿村大概帳」の一部を引用させて戴くと、
   大田原宿
         大田原飛騨守領分 下野国那須郡
一、合高貮千百拾壱石四斗八升八合 大田原宿
     江戸江    三拾八里六町三拾七間
     佐久山宿江  壱里半七町四拾壱間
     鍋掛宿江  三里壱町五拾七間
     日光道 沢村江   式里三拾三間
     中居村
           入会境より中田原村境迄
     八木沢村
 宿往還長壱里拾五町拾弐間
一、宿内町並南北拾五町余
     但、除地寺社地先共
 天保十四年(一八四三)卯年改
                男 六百七拾弐人
一、宿内人別千四百弐拾八人 内
                女 七百五拾六人
 同
一、宿内惣家数弐百四拾五軒
     内
     本陣   凡建坪百七拾五坪 門構、玄関附  字中町 壱軒
     同    凡建坪百拾四坪 門構、玄関附   字上町 壱軒
     脇本陣  凡建坪九拾弐坪 門構、玄関附   字中町 壱軒
     旅籠屋  四拾弐軒
      内   大 九軒  中 拾四軒  小 拾九軒
 なお本文中大田原の本陣二軒については聊か疑問もあり、時代によっては二軒の本陣があったのではなかろうかとの説を為すものもあり、また古老の話によると半年毎に交替で本陣を務めたものがあやまり伝えられたのではなかろうかとの説をなす者もあり、今後の研究を期待したいと思うが、益子孝治氏は「大田原宿本陣について」の中で概略次のように述べている。
 本陣は、江戸時代、街道を通行する諸候の休泊のために、宿場町、宿駅に設けられた指定旅館を指して呼んだものである。その起原は貞治二年、(北朝)正平十八年(一三六三)足利義詮が上洛のとき、その旅舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まる。 (日本歴史大辞典)
 特に江戸時代の参勤交代制度の実施によって、交通制度として整備された。
 奥州道中における本陣の経営を開始した記録は、白坂本陣が天和元年(一六八一、白坂文書)にはじまり、宇都宮本陣の上野家は、後れて文化十一年(一八一四、上野文書宇都宮)大田原本陣の印南家は、元禄初年(一六八八―九〇頃、印南文書)に本陣の経営を開始した。とある。
 今大田原市印南家文書について、その規模を調査してみると、表間口二十三間(四二・五米)奥行三十七間(六七・五米)屋敷総て九百七十九坪(三、二三〇平方米)南、西側の二面に巾三尺(約一米)の堀を回らしている。建坪百七十五坪(五七七・五平方米)印南家は問屋をも兼ねていたので、問屋場、土蔵などを含めると建坪三百八十一坪(一、二六〇平方米)と奥州道中最大を誇ったようである。
 参勤交代の時期に、諸候の往来がはげしくなると、本陣だけでは収容しきれない場合や、かつ本陣に支障のあるような場合には、本陣の補助に備えるために設けられたものに、脇本陣がある。脇本陣は本陣の補助的性質の備えをもった副本陣であり、特に大行列の通行の際には、本陣が不足するので、仮本陣、相本陣、控本陣などと称する臨時の本陣を設けることもあった。
 印南家に伝わる「御大名様日記控」によると、諸候の宿泊状況を知ることができるが、その大略を示すと次の通りである。
 文政三年(一八三〇) 二三回
 嘉永六年(一八五三) 一七回
 安政三年(一八五六) 二五回
 万延二年(一八六一) 一九回
万延元年にはロシヤ人、コンシェル、コビキビノ外国奉行同格位一行五名が宿泊している。
 なお、「児玉幸多著、近世交通資料中、奥州道中宿村大概帳」によれば、天保十四卯年改(一八四三)大田原宿に本陣二軒と記されているが、このことについて疑があるので記してみたい(前掲)

大田原宿町並之圖

第一、 正徳三年己正月(一七一三)奥州海道大田原町、問屋十郎右衛門、年寄覚左衛門、同彦兵衛等が、海道奉行松平石見守、大久保大隅守に提出した大田原宿絵図面(印南文書)によれば「仲町に高札場、本陣問屋場」と表示されている。

第二、享和三年正月改(一八〇三)の大田原城下絵図面(大田原市教育委員会保管写真)には「仲町に本陣問屋」とだけ表示されている。

第三、安政五年(一八五八)戊午初冬発行の五街道中細見記には「旅篭屋大玉子屋のみが大田原宿仲町」に記されている。

第四、昭和十三年(一九三八)寅夏、大塩学人が大田原城景図(大田原小学校蔵)解説のなかで、「本陣 側本陣中町 上町に一軒づつ、駅伝、代官、公旅篭屋を営む」とある。

第五、栃木県史巻十六(田代善吉著)

明治天皇御聖蹟の中で、明治九年六月及び明治十四年八月と十月の三回、明治天皇、益子甚四郎宅御小休所に充てらる。「益子家は脇本陣の家柄なりしも」云々、

第六、大島延次郎、「史料採訪本陣表」奥州街道の部で

     下野大田原 印南 印南定次郎
     下野大田原 益子 益子正作 脇本陣
       〃   戸村 戸村輝吉 脇本陣大玉子屋
 
 右を昭和十年頃調査したと記してある。
以上の資料によって考えても本陣二軒説には疑問があり、この疑を解くために、旧本陣問屋であった印南啓二郎氏(大田原市福祉事務所長、現大田原市新富町二丁目)方を訪問古文書により次のことを解明することができた。
 嘉永四亥(一八五一)年三月、奥州道中大田原宿、問屋、年寄、本陣、重郎右衛門が幕府役人飯田又右衛門、萩野寛一に提出した控文書「本陣由緒書上帳」の中で、脇本陣甚右衛門と天保九戌年(一八三八)より嘉永三年(一八五〇)の十二年間本陣を半年宛交互に勤めたとある。即ち、
私儀(甚右衛門)先年(嘉永三年)ヨリ脇本陣仕候処去ル天保九戌年中ヨリ本陣、去ル半年中ヨリ名主役相勤候。云々、とあって前記「奥州道中宿村大概帳」にある二軒は明らかに誤記であるように思うのである。

大田原宿 本陣問屋 平面図

 さらに、大田原宿年寄津久井新助が、御用役人に提出した「奥州道中大田原宿御分間御絵図御用宿方明細書上帳」(津久井文書、市史編集室保管)控文書によれば、次のように記載されている。
 本陣建坪百四拾壱坪   字中町 本陣問屋兼帯年寄役上町角左衛門
 門構玄関附ニ御座候
 
 脇本陣建坪九十八坪   字中町
 門構玄関附ニ御座候
 
 同 建坪百弐坪     字上町
 同 門玄関構ニ御座候
とあるが、年代が明記されていない。「大田原山城守領分(光清)」とあり、前後の文書からみて、文化元年(一八〇四)から文政四年(一八二一)代のものと思われる。これらによってみても本陣が二軒あったとは思われないのである。
 
一、地子免許三万六千三百三拾三坪
但、地子免之儀前ニより差免有之、右高弐千百拾壱石四斗八升八合享保十八年(一七三三)検地高有

一、問屋給米無之、
一、継飛脚給米無之、
一、宿高札場壱ケ所  字中町建有
右高札文言左之通、墨入之儀ハ領主ニテ取扱来、外高札文言佐久山宿同断ニ付略

 
    定
一、大田原より之駄賃人足賃銭
   佐久山迄
    荷物壱駄   六拾八文
    乗掛荷人共  同断
    軽尻馬壱疋  四拾六文
     附
あふつけハから尻におなし、夫より重き荷物ハ本駄賃銭におなしかるへし、夜通し急に通る輩ハ、軽尻に乗る共本駄賃銭と同前たるへし、

    人足壱人   三拾五文
   日光道 沢村迄
    荷物壱駄   七拾八文
    乗掛荷人共  同断
    軽尻馬壱疋  五拾文
    人足壱人   四拾文
   鍋掛迄
    荷物壱駄   百弐拾弐文
    乗掛荷人共  同断
    軽尻馬壱疋  七拾六文
    人足壱人   五拾九文
   泊ニ而木賃銭
    主人壱人   三拾五文
    召仕壱人   拾七文
    馬壱疋    三拾五文
 右之通可之、若於相背ハ可曲事もの也
  正徳元年(一七一一)五月 日
               奉行
   定
 来寅正月より来ル午十二月迄五ケ年之間駄賃并人足賃銭壱割五分増之上江三割増、都合四割五分増
  (次に四割五分増の賃銭が記されているが省略する。)
  なお、これは五年の後も引続いた。
一、人馬継問屋場壱ケ所  字中町
          問屋  壱人
          年寄  三人
          帳付  弐人
          馬指  弐人
 
   右問屋場江問屋并年寄、帳付、馬指夫〻割合日ニ相詰、重き通行之節ハ宿役人一同罷出取扱来、
一、宿建人馬弐拾五人、弐拾五疋
     五人
   内     囲人馬
     五疋
一、御朱印、御証文并御用往来、諸家通行共、前後宿方并日光道沢村より継送り候分継立、其外御用之次第ニ寄在〻江も継立来、

一、江戸并奥州、箱館其外より御証文附御状箱、御用物等宿内問屋場ニ而継立、御定人足之内ニ而御定箱持当置、問屋年寄其外宿役人一同罷出取扱来、

 一、宿内郷蔵、囲籾等無
 一、宿内往還江出る除地
   除地      別当地蔵院 愛宕社
     但、右社往還より弐拾弐間程引込有
   同       時宗 不退寺
    但、右寺往還より壱町程引込有之、宿方差支候節ハ可也ニ休泊請候儀も有之候由、
   同       禅宗 光真寺
    但、右寺往還より弐町余引込有之、手広にハ候得共、宿方差支候節も休泊請候儀ハ無
 右のような要領で十二ケ寺ばかりが書いてある。
一、此宿より鍋掛宿迄之間往還通掃除町場
但、宿内掃除之儀ハ其所限之町場も有之、又ハ他村より入会之町場も有之、間之村〻右同断、且重き通行之節ハ領主より相解来

 大田原宿往還長千七百拾壱間 宿方町場
              私領 下野国那須郡
 同百五拾間             下石上村
                    町場江壱里半
 など、各村への距離・宿の長さなどが記されている。この外掛道の道筋にあたる所は傍示杭がどこにあり、橋は土橋、石橋、板橋の別及び縦、横の長さ迄詳細に記録されており、例えば、蛇尾川の堤防などは、
 蛇尾川通、
一、堤長百四間  高四尺 馬踏 四尺  敷 弐間三尺
   是ハ天明四辰年(一七八四)国役御普請有之候由、
 などである。
 次に市野沢村にある橋を一、二紹介したいと思う。
 字東川
一、並木橋  長三間半  横弐間
 字清水川
一、並木橋  長四間半  横弐間
右弐ケ所前〻より御普請ニ而明和二酉年(一七六五)御代官小林孫四郎掛りニ而御普請有之、其後寛政十午年(一七九九)菅谷嘉平次、山口鉄五郎立会支配之節御普請有之、近来も御普請有之、

 字用水堀
一、石橋   長壱間 横弐間、五ケ所
  右ハ前〻より御普請ニ而元禄十二未年(一六九九)御代官下嶋甚右衛門懸りニ而御普請有之、
   其後享保十八丑年(一七三三)伊沢孫惣兵衛懸りニ而御普請有之候由、
 次に当時の大田原宿の様子を知る上の面白い史料であると思うので雑之部を紹介する。
   大田原宿雑之部
一、此宿傍示抗無
一、此宿両側家並ニ而、裏ハ藪、畑也、
一、呑水ハ堀井を用ゆ、
一、此宿皆畑にて用水ハ深川并字水神林より引取、流末ハ隣村小川江落る、
一、農業之外旅籠屋ハ旅人の休泊を請、又ハ食物を商ふ茶店有之、其外諸商人多し、
一、此宿男ハ往還稼、商ひ等いたし、女は糸を取、機をおる、其外仕馴たる手業なし。
一、五穀の外時〻の野菜を作る
一、此宿毎月二、七之日市立有
一、米の津出し、阿久津河岸江七里余、夫より久保田河岸江拾四里、夫より江戸迄川路三拾里程。
一、竹木の類船積、筏下ケなし、
一、字蛇尾川有、幅大概平生五間程、出水之節ハ九拾弐間程ニ相成、橋渡り也、此川水元ハ野州塩谷郡山〻并那須郡今泉村辺より追〻流水来、流末ハ箒川江落る、

一、右川出水川留明有之節ハ宿継を以道中奉行江注進いたし来、尤右川出水之節御状箱、御用物等宿方江留置、川明次第早〻継立来、

一、右川出水之節川越ニ而通路仕来候処、其以来領主より水浅深見分之上左之通渡船賃請取、尤川高札、川会所無

   壱番川
  人壱人    賃銭 六拾六文
  本馬壱疋   同  七拾弐文
  軽尻壱疋   同  四拾八文
   弐番川
  人壱人    賃銭 弐拾四文
  本馬壱疋   賃銭 四拾八文
  軽尻壱疋   同  三拾六文
 右弐番川より減水渡船難相成節、橋出来迄歩行越賃銭左之通、
  人壱人    賃銭 拾文
  本馬壱疋   同  三拾弐文
  軽尻壱疋   同  三拾弐文
           以下略
  大田原宿より鍋掛宿迄往還通間之村〻雑之部
一、右村〻之内中田原村、田より畑少し、用水ハ字上深田用水路有之、流末は隣村小川江落る、小滝村、田より畑少し、用水ハ近村〻用水路より流水来、流末は隣村用水と成、堀込村、寺形(方)村、皆畑にて、用水は市野沢村後小川より流水来、流末は隣村用水となる、市野沢村、田より畑多し、用水は寺方村地内より流水来、流末はいつれも近村〻小川江落る、練貫村、久保村、野間村、皆畑にて、用水無之、桶沢村、田より畑多し、用水ハ村内溜井を用ゆ、

一、呑水は堀井を用ゆ、
一、農業之間男ハ往還稼をいたし、女は糸を取、機をおる、其外仕馴たる手業なし、
一、五穀之外煙草、油荏を作る、
一、米の津出し、市野沢村、練貫村、阿久津河岸江九里半、夫より下総国久保田河岸江拾四里、夫より江戸迄川路三拾里程、其外村〻津出し無

一、竹木の類船積、筏下ケなし、
一、市野沢村傍示杭村前後境に有之、建替之節ハ支配より差図を請村入用ニ而取扱来、練貫村傍示杭市野沢境有之、建替之節ハ前村同断、野間村傍示杭厚崎村道之方建有之、建替之節ハ領主ニ而取扱来、其外村〻傍示杭無之、

一、市野沢村地内清水有、幅大概三間半程、橋渡り也、此川水元は野州寺方村より流れ来、流末ハ黒羽根より中川江落る、

一、市野沢村、練貫村諸家之廻米取扱候者両人有
一、中田原村内山猟師両人、小滝村内壱人、野間村内三人有之、
一、右村〻一躰平地にて、山坂無之、見渡し山〻有之、且右村〻より隣村又ハ田畑耕地江出る小道有之共重立候脇道なし、

                以下略
 以上が児玉幸多編「近世交通」資料中の「奥州道中宿村大概帳」よりの抜粋であるが、これについては前にも一寸ふれておいた「宿方明細書上帳」なる一資料がある。本資料は町年寄津久井新助の書き残したものであるが、冒頭に、大田原山城守領分とあるだけでその年代を知ることのできないことは大変残念に思うのである、しかし文中にでてくるいろいろな年代から考えると、文化元年(一八〇四)から文政四年(一八二一)までの間の頃ではないかと思う。すなわち、大田原山城守は大田原家系譜によれば二十四代光清であり、安永五丙申年(一七七六)五月朔日出生、寛政六甲寅年(一七九四)十一月十五日家斉公に御目見、文政四辛巳年(一八二一)正月二十五日死去、四十六歳となっている。
 次に文中の、一宿内惣家数〆百六十九軒の前に、文化元子年(一八〇四)改の文字がみえ、したがってこの書類の書上はそれ以後でなければならず大田原山城守代のものとすれば、文政四年(一八二一)まででなければならないように思うのである。なお本書上は末尾に、
 右者日光道中 奥州道中 水戸佐倉道筋御分見其外御絵図為御用御尋之趣書上候通相違無御座候以上
                     奥州道中 大田原宿
                        名主 利兵衛
                        同  文助
                        同  治助
                        年寄見習 瀬左衛門
                        年寄 助左衛門
                        同  五郎三郎
                     同  同  角左衛門
 御分見御絵図
  御用
  御役人中様
 そして裏表紙に大田原宿年寄津久井新助と記されている。これによってみると以前に名主及び町年寄が提出した書類の写を津久井氏が写しとっておいたもので、大田原宿を知る上で、また今後の研究のためにはまことに好資料であると思うので左に全文を掲げることゝした。
 
 下野国那須郡 広郷県 相方兼候
        大田原山城守領分(光清)
              大田原宿
 
  江戸江道法   三十七里
  先之鍋掛宿江  三里壱丁五拾七間
  跡之佐久山宿ヘ 壱里弐拾五丁四拾壱間
  日光之方沢村江 弐里八丁
 右三宿之儀は御定之継場
 外ニ横道継場
  同国同郡佐良戸村江
   道法三里弐十五丁五拾壱間
  同黒羽江
   道法弐里弐拾壱丁三十弐間
  同波立村
   道法三里九丁
  同武〻井村江
   道法三里
  同国塩谷郡関谷村江
   道法三里拾五丁五十壱間
  隣村国郡違等無御座候
 
 大田原飛弾守扶清享保十八癸丑年検地(一七三三)
一、宿高合弐千百拾壱石四斗八升八合
    但不残畑方
 地子免許
 一、坪数三万六千三百三十三坪
   加宿枝郷無御座候
   地子代無御座候
 問屋給米等無御座候商人荷物口銭蔵敷所務口仕候
 継飛脚無御座候
 年寄三人壱人ニ付為役料米五俵ツツ領主より被下候
 文化元子年改(一八〇四)
一、宿内惣家数 弐百六十九軒
    内      字中町
 本陣建坪百四拾壱坪 本陣問屋兼帯年寄役内構玄関附ニ御座候 上町角左衛門
  但し新家作家根替之儀ハ領主ニ而仕候修覆之儀ハ手前ニ而仕候
 脇本陣建坪 九十八坪 字中町
 内構玄関附ニ御座候 吉郎兵衛
  但し自普請ニ御座候
  建坪百弐坪 字上町
             甚右衛門
  同門玄関構ニ御座候
  但し自普請ニ御座候
 
   旅篭屋四十弐軒
     内
      大 拾三軒  中 拾軒  小 拾九軒
 
 一、宿内人別 千弐百五拾弐人
     内
      男 六百五人  女 六百四拾五人  蛭子社人 弐人
 
        弐拾五人
 一、御定人馬
        弐拾五疋
  右は急御用五人五疋囲置其余ハ町人馬ヲ以日々相勤申候事
 
 一、問屋場壱ケ所  字中町問屋壱人
       江戸の方より右側
              年寄三人  名主三人  帳附壱人  馬指弐人  月行司六人
 
一、右は問屋持切年寄名主見廻り相勤帳付馬指定詰罷在月行司壱人宛添勤日々繾立方御用向相勤罷在候
一、御米印御證文御用箱館御用物御状箱之儀ハ御太(ママ)切之儀ニ奉存壱人持之御品々里(ママ)共弐人宛宿人足ヲ以御継立仕候其外諸御通行之儀は御先触ニ従人馬触当置問屋場へ揚置其外御触無之御往来人馬之儀は日々□手宛仕置御継立仕候
 一、貫目御改□所無御座候
               字中町
    江戸ノ方より右
 一、御高札場壱ケ所   高サ壱丈三尺
             長サ弐間三尺
             横 五尺五寸
 一、一(ママ)親子兄弟夫婦    壱枚
 一、毒薬札            壱枚
 一、火附札            壱枚
 一、切支丹御制禁         壱枚
 一、在々鉋炮札          壱枚
 一、駄賃并人足荷物之次第     壱枚
 一、何事によらす         壱枚
 一、大田原より御定之駄賃     壱枚
 一、壱割五分増札         壱枚
 一、唐物抜荷物札         弐枚
 右賃銭御高札写別紙ニ差上申候右御高札墨入普請方ニ領主ニ而仕来申候
 
  江戸の方八木沢境より中田原村境村迄
                 道中沖
一、宿地内  五拾壱丁十弐間 平坪四間
    御朱印地無御座候
     除地先
    江戸より左
 一、三十六間     吉祥院
    同
 一、六間       明照寺
    同
 一、九間五尺     地蔵院
    同
 一、四間       照明院
 宿内町並南北江長サ拾五丁八間
 江戸方入口
  新田町 下町 中町 上町 寺町 大久保町
 江戸方より右
一、道九ケ所
   内
  壱ケ所 同国同郡荻野目村道凡拾丁程
  壱ケ所 野道
  壱ケ所 同国同郡宇田川村道凡壱里程
  壱ケ所 作場道  但木戸際
  壱ケ所 宿内組町江之道
  壱ケ所 組町江之道
  壱ケ所 城内江之道 字大久保町
  壱ケ所 当所〓寺江之道 字河原凡八丁程
    水戸様御城下常陸
      水戸      弐十里
    大関美作守様御〓下下野那須郡
      黒羽      弐里廿壱丁
     下野那須郡    道
  壱ケ所 八溝山     凡十里程
     同国同郡
      佐良土     三里廿五丁
 
  江戸之方より左
一、道拾弐ケ所
     内
  壱ケ所       野道
  壱ケ所       同
  壱ケ所  同郡三斗内村凡壱り
  壱ケ所       野道
  壱ケ所      作場道
  壱ケ所  宿内日光道 凡拾三り
          別紙帳面奉差上候
  壱ケ所      作場道
  壱ケ所  同国郡郁須湯本道 横町字荒町凡八リ
  壱ケ所  近在江之道并光真寺道
  壱ケ所  光真寺裏道
  壱ケ所  作場道
一、宿地内 五拾壱丁拾弐間之内 掃除丁場
    左之通
    内
  弐拾八丁三拾壱間 宿内ニ而家別ニ罷出掃除仕候
  残
   同領同国同郡  道法
    大和久村    凡三拾丁
    苅切村     同
  四拾間
   荻野目村   凡拾丁
   赤瀬村    凡三拾弐丁
     同領国同郡
  百五十間         凡壱り半
        下石上村
       同領同国塩谷郡
  百三十間         凡弐里
        上石上村
       同同
  百九間          凡弐り十丁
        下大貫村
       同同
  百八十間         凡弐り半
        上大貫村
       同同
  弐拾八間         凡三里
        高阿津村
       同同
  百八拾間         凡三り七丁
        宇津野村
       同同
  百八十間         凡三里半
        金沢村
       同領同国那須郡
  五拾四間         凡弐里半
        両遅沢村
       同同
  六拾間          凡弐里十丁
        上井口村
       同同
  三拾間          凡弐里八丁
        下井口村
       同同
  五拾七間         凡弐里
        槻沢村
        両関根村   凡壱り拾丁
       同同
  弐拾六間
        高柳村
               凡弐里
        富山村
       同同
  弐拾間          凡弐里廿丁
        笹沼村
       同領同国塩谷郡
  四拾間          凡弐里八丁
        接骨村
       同同
  三拾七間          凡五里
        引沼村
        上横林村   凡弐里半
       同領同国那須郡
  四拾間
        石林村
                凡弐拾丁
        南小屋村
  右平日は勿論重キ御通有之候節は宿村方ニ而掃除仕候
 
  佐久山より大田原江之間
一、宿地内並木長サ四丁拾四間両側杉
一、宿傍示杭前々より無御座候
一、当宿より奥州之方鍋掛宿迄壱里塚
         中田原村之内字小林
  壱ケ所 左右塚有 但桧有
         練貫村中程
  壱ケ所 左右塚有 但木なし
         鍋掛宿入口
  壱ケ所 左右塚有 但木なし
一、当宿より奥州之方鍋掛宿迄立場弐ケ所
    駕篭立場
  壱ケ所 字上深田村 江戸の方大田原宿へ三十丁 奥州の方鍋掛宿江弐り四丁五十四間
  壱ケ所 練貫村   江戸の方大田原宿へ壱り三十丁 奥州之方鍋掛宿江壱り七丁五十七間
一、宿内名物無御座候
一、名産 那須絹織出申候
一、宿内 御林無御座候
一、最寄御林無御座候
一、名所古跡古城跡無御座候
  江戸方より左
一、愛宕堂 壱宇 但横三尺三寸 立四尺  除地
  右往還より弐拾弐間引込候  本山修験 別当  地蔵院
  領地より除地
一、高五石         吉祥院
     畑方ニ而当宿之内
  江戸方より左
 但境内 南北江七拾五間三尺 東西江三拾六間  除地
 一、薬師堂 壱宇 五間四面
 一、稲荷宮   小社
 一、弁天宮   同
 一、水神宮   同
 一、銅仏地蔵壱躰 高サ五尺
 一、宝篋印塔   壱
 一、石之塔 弐ツ 但シ高サ壱丈七尺 三尺四方
 一、庫裏     六間三間半
 一、仁王門    三間半ニ弐間
 一、門前無御座候
 一、往還役無御座候
 一、名木名水無御座候
 右往還より仁王門迄六間引込候御大名様之御休泊御宿仕候義無座候尤小寺ニ而此末御宿相勤兼候
                           相川鎌倉郡藤沢宿
                            清浄光寺末
 一、高五石                      時宗 不退寺
      畑方ニ而当宿内
  江戸ノ方より右
   境内 南北五十五間 東西弐十間  除地
  一、本堂   七間ニ六間
  一、庫裏   拾壱間ニ五間半
  一、地蔵堂  三間四面
  一、熊野宮  小社
  一、天神宮  同
  一、門前無御座候
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
  一、大門但 門前ニ石地蔵有外ニ溜中ニ弁天之小社有
右往還より六拾間隔組之内四拾四間行大門有尤御大名様御休泊之御宿仕候義無御座候此末宿方差支之節ハ仮成ニも御宿相勤可申候
  一、 天王宮 字中町用水堀之上ニ有後ニ〓有
      但 巾五尺 横三尺五寸  別当 真言宗明照寺
  一、蛭児宮 字中町   別当 蛭児社人
      但 巾三尺 横三尺五寸  両覆八尺四方
右社地間口弐間裏行三十壱間往還より六間別込右宮道御年貢地
  江戸之方左
  一、無除地  甲州身延山久遠寺末
           法花宗   正法寺
     江戸之方より左
          南北 弐十九間半
      境内
          東西 十九間
  一、七面堂   四間ニ弐間半
  一、天神宮   小社
  一、稲荷宮   同
  一、庫裏    三間ニ六間
      但し客殿之儀ハ焼失後末出来不申候
  一、門前無御座候
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
  一、大門
右往還より大門迄四拾八間引込候尤御大名様之御休泊御宿仕候儀無御座候
一、庵地 長サ弐十七間下野国芳賀郡大沢村
     横弐十三間円通寺末字荒町
    内
             浄土宗
               善性庵
  一、天神宮   小社
  一、庵   六間ニ七間半 九尺ニ三間  御許附
右は往還より引込候得共通りより見江候場所御座候
             当所光真寺末
一、高弐十三石      禅宗 洞泉院
       内拾石田方ニ中田原村高之内
    但し
       内十三石畑方ニ而当宿高之内
   江戸之方より左
       東より北江五十八間
    境内            除地
       西より南江四十二間
   内
  一、白山宮
  一、庫裏   五間ニ拾壱間
      但本堂四ケ年已(ママ)前焼失
  一、門前     三軒
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
  一、大門
右往還より弐十四間引込木戸有其より三拾三間引込大門尢御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候
 
 領主より寺領 同国塩谷郡川崎村長光寺末
一、高五百石        禅宗 光真寺
      畑三百石 当宿高之内
    但
      田弐百石 下石上高之内
   江戸之方左
       南北江 八拾六間
    境内           内田畑少々有
       東西江 六拾九間
  一、大門  四間ニ弐間
  一、山門  四間ニ弐間
  一、廻廊  弐拾七間折返し
  一、十王堂 弐間ニ四間
  一、執寮  五間ニ九間
  一、座禅堂 五間ニ四間
  一、本堂  拾四間ニ拾間
      内九尺四方鞁(ママ)楼有
  一、廻廊  弐拾七間折返し
  一、鐘楼  弐間四方
  一、台所  五間ニ拾間
  一、庫裏  九間ニ五間
  一、書院  七間ニ三間
  一、庫裏より本堂江廊下拾三間ニ弐間半
  一、寮   壱軒
  一、白山宮 壱社
  一、地神宮 壱社
  一、熊野宮 壱社
  一、板蔵  壱ケ所
  一、車屋  壱ケ所
  一、裏門  壱ツ
  一、溜井  立五拾間 横二十間
  一、門前  十三軒
  一、後通境内山林有
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
右は往還より裏町ニ而大門迄百弐拾九間引込尤御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候尤手広ニ御座候
 
  領主より寺領  当所竜泉寺末
一、高五石      真言宗 慈眼院
     田方ニ而四石中田原村高之内
    但
     畑方ニ而壱石同村高之内
       東西江拾八間
    境内           除地
       南北江六十六間
  一、本堂  五間ニ七間
  一、庫裏  四間ニ四間半
  一、観音堂 弐間四面
  一、稲荷宮 小社
  一、土蔵  三ツ
       此処貸地
  一、大門
  一、門前無御座候
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
右大門往還地先橋有尤御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候尤手狭ニ御座候
 
一、高五石        上性院
     田方ニ而四石中田原村高之内
    但               除地
     畑方ニ而壱石当宿高之内
  一、本堂  四間ニ六間
  一、庫裏  弐間半ニ三間
  一、虚空蔵堂弐間ニ四間
  一、稲荷宮 小社
  一、天神宮 同
  一、宝篋印塔 壱
  一、門前無御座候
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
  一、水車 但貸地壱ツ
  一、大門
右大門往還地先橋有尤御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候尤手狭ニ御座候
 
  領主より寺領  当所竜泉寺末
一、高弐拾五石      真言宗 明照寺
     畑方ニ而弐拾三石中田原村高之内
    但
     田方ニ而弐石同村高之内
      東より西江五十八間
   境内             除地
      北より南江四十間
  一、山王社  弐間ニ弐間半
  一、天神宮  小社
  一、大般若経蔵 壱
  一、本堂庫裏共ニ七間半ニ四間
  一、宝篋印塔  壱
  一、大門
  一、門前無御座候
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
右大門往還地先神六間其より弐拾五間引込有之候尤御大名様御休泊御宿仕候義無御座候尤手狭ニ御座候
          聖護院末
一、無除地      本山修験 地蔵院
      間口九間五尺
   境内         除地
      裏行拾四間
  一、不動堂  弐間四面
  一、石鳥居  高サ壱丈
  一、院宅   九間ニ六間
      玄関付
  町家並
  一、門前   壱軒
  境内山之内
  一、愛宕堂  弐間四面
      但 御許附
  一、末社   小宮拾弐社
  一、往還役無御座候
  一、名木名水無御座候
右は往還地先ニ木戸有其より引込石地蔵有尤御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候宿方差支之節は仮成ニも御宿可相成候
 
       水戸黒沢村慈雲寺末
一、高弐拾石       真言宗 照明院
     田方ニ而拾弐石中田原村高之内
    但
     畑方ニ而八石同村高之村
   境内 三拾三間四方 除地
  一、門前無御座候
  一、往還役御座候
  一、名木名水無御座候
右往還より弐間引込木戸有其より折廻シ境内ニ御座候尤御大名様御休泊御宿仕候儀無御座候
 
一、宿内往還道橋左之通
  江戸方より当宿地内八木沢村境入口
一、板橋 壱ケ所 長サ八尺 巾八尺  手摺付
 同字道竹橋下石上村掃除丁場
一、板橋 壱ケ所 長サ三間二尺 巾八尺
一、宿内橋  五ケ所
    内
  江戸方より新田口入口
一、壱ケ所 板橋 長サ壱間 巾五尺
  同
一、壱ケ所 板橋 長サ壱丈壱尺 巾四尺
  同新田町中程
一、壱ケ所 板橋 長サ七尺 巾五尺
  同新田町往還中
一、壱ケ所 板橋 長サ二間一尺 巾壱間五尺
  同町入口往還左側
一、壱ケ所 板橋 長サ壱間 巾九尺
右五ケ所共ニ用水之儀は町方裏通五丁程西方深川と申沢より出水宿内江流候
一、宿内橋 九ケ所
    内
  字上町往還左側
一、壱ケ所 石橋 長サ四尺 巾壱丈壱尺
  字上町近手左右往還右
一、弐ケ所 石橋 長サ四尺 巾壱丈壱尺
  字寺町往還左
一、壱ケ所 石橋 長サ四尺 巾八尺
  字寺町往還中
一、壱ケ所 石橋 長サ四尺 巾九尺
  字寺町往還右
一、壱ケ所 板橋 長サ六尺 巾八尺
  字寺町往還中
一、壱ケ所 板橋 長サ七尺 巾壱丈壱尺  手摺付
  字寺町往還中
一、壱ケ所 板橋 長サ壱丈三尺 巾二間  手摺付
一、壱ケ所 板橋 長サ六尺 中壱丈弐尺
右九ケ所共ニ用水之儀は町方西北之方八丁程上水神林と申大沢有是より水出分水致流未ハ皆城内江流其より蛇尾川江落合候橋普請の儀は領主より板材木入用被下宿人足ニ而掛替等仕候
 
  蛇尾川向
          左弐拾四間高サ四尺
一、堤 弐ケ所 往還
          右長八十間馬踏四尺金弐間三尺
右は天明四辰年国役川除御普請之節築尤御普請御役原杢右衛門様大西栄八郎様ニ御座候
一、埋樋無御座候
一、水抜無御座候
一、用水之儀は深川と申水神林より宿内江相流候
  江戸方より左字新田町
一、溜  但長サ弐十弐間 巾平均六間三尺
一、溜弐ツ但左ノ方立三十間 横三十九間
      右ノ方立四十間 横拾弐間
一、悪水堀無御座候
一、堰無御座候
一、宿地内川左之通
     蛇尾川橋 長サ七間 巾七尺五寸  手摺付
       但し弐本枠弐組
  右川巾五間常水ニ御座候
   河原巾 九十二間
一、橋 三ケ所 内壱ケ所 石橋
        内壱ケ所 板橋巾九尺
        内壱ケ所 巾九尺 横二丈巾二尺
    但何連も川上蛇尾川水流末内
蛇尾川此川筋之義ハ凡四里程上同国塩谷郡引沼村山入より流出弐丁程流夫より弐里余之間弘法大師踏留り候と唱平日水無之壱里程上同国那須郡今泉村辺より水流出大川と成蛇尾川と唱流来当所より弐里程下同国同郡片府田村ニ而箒川江落合夫より弐里程下同国同郡左良戸村ニ而中川江落合流未は常陸国水戸之海江落申候
一、運上并積浅等無御座候
一、洪水之砌橋落候節道中御奉行様江御注進申上候尤川明之節も御注進申上候
一、船渡無御座候
一、川会所無御座候
一、蛇尾川洪水之節は領主より水浅深見分之上川越賃銭定之書付札ニ致宿役人川役日々罷出連台越ニ仕尤川賃銭書付別紙ニ指上候

一、蛇尾川洪水之節川留メ相成候砌御用物御用状箱川明キ迄相止置御継立仕尤川留之節道中御奉行所様江御注進申上候

一、川高札無御座候
一、此川筋ニ而魚猟渡世之もの無御座候
一、米津出同国塩谷郡阿久津河岸ニ御座候尤
一、(ママ)当所より七里程其より久保田川岸江十四里其余江戸迄は相分り不申候
一、竹木之類筏下り船積等無御座候
一、宿内の呑水之儀は堀井之水相用申候尤堀有ば深川水神林より出候水相用申候
一、宿内裏通行木基余は畑ニ御座候
一、御挙場御とりかひ場等無御座候
一、御三家様方御鷹場御飛脚小屋無御座候
一、宿内市之儀六済
  伯弐七初市之儀は正月十二日ニ御座候
一、宿内酒食其外諸商人左通
   五軒   酒造
   七拾壱軒 諸商人
   弐拾三軒 諸職人
   四拾弐軒 旅篭屋
   七拾七軒 耕作人
   三拾弐軒 酒食商人
一、郷蔵無御座候
一、宿内農業之間
   男近在より米煙草買出市掛仕其余は振売等仕候
   女為登絹糸白緒織出し那須緒と唱候
一、五穀之外時々之野菜并稗荏油
一、宿内矢来木戸辻番所共ニ五ケ所
     内
  壱ケ所 字下町矢来木戸脇
  壱ケ所 字下町用水堀之上辻番所
  壱ケ所 字中町用水堀之上辻番所
  壱ケ所 横丁字荒町
  壱ケ所 字上町中程辻番所
  壱ケ所 寺町用水堀之上辻番所
  壱ケ所 字寺町用水堀之上辻番所(ママ) 往還より九十四間引込矢来木戸脇
  壱ケ所 字大久保町用水堀之上辻番所
  壱ケ所 字大久保町矢来木戸脇
一、間之村々 当宿より鍋掛宿迄左之通
          中田原村
             明宿
             上ノ坊宿
             小林
             深田
          小滝村
          寺形村
          市野沢村
          練貫村
          久保村
          野間村
          樋沢村
一、当宿より見渡山々左之通
   同国塩谷郡
   一、高原山   酉之方  凡五里
   同国同郡
   一、□嶽山   戌之方  凡四里
   同国同郡
   一、塩原之方山 亥之方  凡七里
   同国同郡
    一、引沼之方山 子ノ方  凡四里
   同国同郡
   一、百村之方山 子丑ノ方 凡五里
 右三ケ所山々名存不申候間林下之村ヲ字ニ仕候
   一、那須岳山  丑之方  凡八里
 
大田原宿助郷
一、高六千六百七拾六石  五拾九ケ村
   内
    定助郷
      同領下野国那須郡
           大和久村
   高六拾五石余  星久田村 道法三拾丁
           苅切村
           川下村
      同領同国同郡
   高三拾石    赤瀬村  同三十五丁
      同領同国同郡
   高四拾九石余  荒井村  同三十丁
      同領同国同郡
   高五百五拾弐石余小滝村  同壱里弐町
      同領同国同郡
   高四石余    堀米村  同壱里五丁
      同領同国同郡
   高弐拾弐石余  上奥沢村 同拾六丁
      同領同国同郡
   高四百五拾石余 寺形村  同壱里拾弐丁
      同領同国同郡 松原村共ニ
   高七拾六石余  袋島村  同壱里
      同領同国同郡
   高四拾弐石余  石林村  同十八丁
      同領同国同郡
   高五石余    冨(ママ)山村  同壱里
      同領同国同郡
   高百拾石余   上井口村 同壱り半
      同領同国同郡
   高八拾三石余  下井口村 同壱り拾丁
      同領同国同郡
   高五拾九石   西遅沢村 同弐里
      同領同国同郡
   高七拾石    東遅沢村 同弐里
      同領同国同郡
   高百五拾石余  下中野村 同弐里
      同領同国同郡
   高弐拾九石余  嶋村   同弐り五丁
      同領同国同郡
   高百弐石余   槻沢村  同壱里拾五丁
      同領同国同郡
   高弐拾壱石余  今泉村  道法廿八丁
      同領同国同郡 岡村共ニ
   高七拾石    上深田村 同壱里
      同領同国同郡 但中田原村之内
   高百八拾壱石余 戸野内村 同壱里
           小白所内村
           小中沢村共ニ
      同領同国同郡
   高弐百拾五石余 舟山村  同壱里
      同領同国同郡
   高拾四石余   荻之目村 同三拾丁
 
     加助郷
      同領同国那須郡
   高弐百四石余  下石上村 道法二里
      同領同国同郡 金愉(ママ)崎村
   高三百九拾八石余上石上村 同弐リ八丁
      同領同国塩谷郡
   高三百三拾石余 下大貫村 同弐リ半
      同領同国塩谷郡
   高三十壱石余  高阿津村 同弐り廿丁
      同領同国同郡
   高三百九石余  宇津野村 同弐里三十丁
      同領同国同郡
   高三百拾九石余 金沢村  同三里
      下野国那須郡
      御代官所山口鉄五郎様御支配所
   高弐百八拾石余 鹿畑村  弐里
     〆
 
     大助郷
      大田原山城守領分
      下野国那須郡
   高拾石余    沼袋村  道法八丁
      同領同国同郡
   高五石余    高柳村  同壱里
      同領同国同郡
   高八拾石余   関根村  同壱里
      同領同国塩谷郡
   高弐拾石余   庭床村  同壱リ二丁
      同領同国同郡
   高九石余    横林村  同弐リ拾弐丁
      同領同国同郡
   高拾石余    折戸村  同三里半
      同領同国那須郡
   高百壱石余   高林村  同三里廿丁
      同領同国同郡
   高拾七石余   大和久村 同四里
      同領同国同郡
   百拾五石余   赤坂村  同三里廿五丁
      同領同国同郡
   高百石余    箕輪村  同弐リ廿一丁
      同領同国同郡
   高弐拾八石   中内村  同弐里半
      同領同国同郡
   高三拾石余   上郷屋村 同弐里廿丁
      同領同国同郡
   高拾八石余   無栗屋村 同弐里半
      同領同国同郡
   高三拾八石   塩野崎村 同弐里廿丁
      同領同国同郡
   高四拾八石   波立村  同三里九丁
      同領同国同郡
   高弐拾壱石   吉際村  同壱里五丁
      同領同国同郡
   高拾石     竹野内村 同壱里三丁
   高三百石    中田原村 同八丁
     内七十石は上深田村定助郷
      同領同国同郡
   高三拾四石余  乙連沢村 壱里半
      同領同国郡(ママ)
   高五拾石余   矢坪村  同四里
      同領同国郡(ママ)
   高七石     五倫塚村 同弐拾九丁
      同領同国同郡
   高七拾石    上中野村 同弐里八丁
      同領同国同郡
   高八石余    笹沼村  道法壱里弐拾丁
      同領同国同郡
   高三百五拾八石 和田村  弐里十丁
      同領同国同郡
   高三百石    狭原村  同弐里半
      同領同国同郡
   高拾八石    西戸野内村 同三拾弐丁
      同領同国塩谷郡
   高三百五拾石余 上大水貫(ママ)村 同弐里拾弐丁
      同領同国同郡
   高百五石    関屋村  同三里弐十六丁
             下田野村共二
      同領同国同郡
   高四拾石    引沼村  道法四里廿丁
     〆
 
右は日光道中奥州道中水戸佐倉道筋御分見其外御絵図為御用御尋之趣書上候通相違無御座候以上
                          奥州道中大田原宿
                             名主  利兵衛
                             名主  文助
                             同   治助
                             年寄見習瀬左衛門
                             年寄  助左衛門
                             同   五郎三郎
                             同   角左衛門
 御分間御絵図
  御用 御役人中様
                          大田原宿 年寄 津久井新助