第二章 佐久山宿

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 佐久山宿は交代寄合福原内匠資生(すけなり)の城下町で、狭山とも言い、山に迫った土地という意味で作山とも書いたといわれている。交代寄合とは旗本のうち大名と同様参勤交代をした無役の者であり、那須衆、美濃衆、信濃衆、参河衆、肥後の米良氏等があった。老中の支配に属したことも大名同様であり、帝鑑之間席と柳之間席との区別があった。(福原家は柳の間席)
  佐久山の橋の袂のなめら蛇
   人が通ればゆれてからまる
  佐久山の温泉林の八重桜
   八重につぼんで九重と咲く
 など古謡や福原の餅つき唄にもあるように、「花の咲山」等とも言われ奥州道中での繁昌は目を見はるものがあったようである。(写真1)「奥州道中宿村大概帳」によって当時の宿場の賑の様を調べてみる。

写真1 今も佐久山宿の名残をのこす
二枚の看板
上、有川屋の「千龍丸」


下、八木沢一美氏宅の「運用膏」


佐久山宿町並之図

 
一、合高千五百四拾八石七斗六升 福原内匠知行下野那須郡 佐久山宿
      江戸江 三拾六里拾六町五拾六間
      喜連川宿江 弐里三拾町三拾六間
      大田原宿江 壱里半七町四拾壱間
 上下河戸村境より滝沢村迄
 宿往還長壱里三町四拾間
一、宿内町並東西拾町拾弐間
   但、除地寺社地先共
天保十四卯年(一八四三)改
一、宿内人別四百七拾三人 内男弐百三拾人、女弐百四拾三人
 同
一、宿内惣家数百弐拾壱軒
   内
  本陣  凡建坪九拾三坪 門構、玄関附  字中町壱軒
  脇本陣 凡建坪七拾七坪 門構無之玄関附  字同壱軒
  旅籠屋弐拾七軒
     大 四軒
   内 中 五軒
     小 拾八軒
一、地子免許弐万五千七捨壱坪
   但、地子免之儀前より差免有之、且宿高検地年号不相知候由、
一、問屋給米無之、
   但、地頭より伝馬役屋敷壱軒差免有之、
一、継飛脚給米無之、
一、宿高札場壱ケ所  字中町ニ建有之、
      右高札文言左之通、墨入之儀ハ地頭ニ而取扱来、

佐久山本陣之図(井上家蔵)

    定
一、親子兄弟夫婦を始め、諸親類にしたしく、下人等に至迄是をあはれむへし、主人有輩ハおの/\その奉公に精を出すへき事、

一、いつはりをなし又は無理をいゝ、惣して人の害になるへき事をすへからさる事、

一、博奕の類一切に禁制の事

一、喧嘩口論をつゝしミ、若其事ある時ハミたりに出合へからす、手負いたるものかくし置へからさる事、

一、鉄炮猥に打へからす、若違犯之ものあらハ申出へし、隠置他所よりあらハるゝにおいてハ其罪重かるへき事、

一、盗賊、悪党之類あらハ申出へし、急度御ほうひ下さるへき事、

一、死罪に行ハるゝものあるとき馳集るへからさる事、

一、人売買かたく停止す、但男女の下人或は永年季、或ハ譜代に召置事ハ相対に任すへき事、

  附
譜代之下人又は其所に往来輩他所江罷越、妻子をも特有付候もの呼返すへからす、但罪科あるものハ制外之事、

 右条相守之、若於相背む可罪科もの也
  正徳元年(一七一一)五月 日
                               奉行
 
    定
一、毒薬并似せ薬種売買之事禁制す、若違犯之ものあらハ其罪重かるへし、たとひ同類といふ共申出るにおゐてハ其罪をゆるされ、急度御ほうひ下さるへき事、

一、似せ金銀売買一切停止す、若し似せ金銀あらハ金座銀座江遣し相改むへし、ハつしの金銀も是又金座銀座江遣し可相改事、

 附
  惣して似せものすへからさる事、
一、嘉永之新銭金壱両に四貫匁、壱分に壱貫匁たるへし、御料、私領共に年貢収納等ニも、御定の如くたるへき事、

一、新銭之事銭座之外一切鋳出すへからさる事、
一、諸職人言合せ作料、手間賃等高値にすへからす、諸商ひ物或ハ一所に買置しめうりし、或ハいひ合せて高値にすへからさる事、

一、何事によらす誓約をなし、徒党をむすふへからさる事、
  右条〻可守之、若於相背む可罪科もの也、
    正徳元年五月 日
                               奉行
 
    定
一、きりしたん宗門ハ累年御禁制たり、自然不審成もの有之ハ申出へし、御ほうひとして、
    ハてれんの訴人  銀五百枚
    いるまんの訴人  銀三百枚
    立帰る者の訴人  同断
    同宗并宗門の訴人 同百枚
 右之通可下、たとひ同宿、宗門の内たりといふとも申出る品に寄銀五百枚被下へし、
  隠置他所よりあらハるゝにおいてハ、其所の名主并五人組迄一類共に可罪科もの也、
   正徳元年五月 日
                               奉行
 
    定
一、火を付くるものをしらハ早〻申出へし、若かくし置におゐてハ、其罪重かるへし、たとひ同類たりといふ共申出におゐてハ其罪をゆるされ、急度御ほうひ可下事、

一、火を付くるものを見付ハ捕之早〻申出へし、見のかしにすへからさる事、
一、あやしきものあらハ穿鑿をとけて早〻御代官地頭江召連来るへき事、
一、火事の節鑓、長刀、刀、脇差の類抜身にすへからさる事
一、火事場其外いつれの所にても金銀諸色をひろひとらハ、御代官、地頭に持参すへし、
 若隠置他所よりあらハるゝにおゐてハ其罪重かるへし、たとひ同類たりといふ共申出輩ハ其罪をゆるされ、御ほうひ可下事、

  右条〻可守之、若於相背む可罪科者也
   正徳元年五月 日
                               奉行
 
    定
一、何事によらすよろしからさる事に百姓大勢申合候を徒党と唱へ、とゝうして願事くわたつるをこうそ(強訴)といひ、或は申合村方立退候をてうさん(逃散)と申前〻より御法度に候条、右類之儀有之ハ居村、他村にかきらす、早〻其筋之役所江申出へし、御ほうひとして、

    ととうの訴人  銀百枚
    こうその訴人  同断
    てうさんの訴人 同断
右之通下され、其品に寄帯刀、苗字も御免あるへき間、たとひ一旦同類に成とも、発言いたし候者の名前申出におゐてハ其科をゆるされ、御ほうひ被下へし、

一、右類訴人致す者もなく村々騒立候節、村内之者を差おさへ、ととうにくわゝらせす、壱人も差出さゝる村方有之ハ、村役人にても百姓にても重もにとりしつめ候ものハ、

  御ほうひ銀被下、帯刀、苗字御免、差続しつめ候もの共も有之夫々御ほうひ可下置事、
    明和七年(一七七〇)四月
                               奉行
    定
在〻にて若鉄炮打候もの有之候ハヽ、并御留場之内にて鳥を取候もの捕候歟、見出候ハヽ早〻申出へし、急度御ほうひくたしおかるへきもの也、

 
    定
一、駄賃并人足荷物之次第
  御伝馬并駄賃荷一駄 重サ 四拾貫目
  歩もちの荷物壱人  重サ 五貫目
  長持 壱挺     重サ 三拾貫目
但、人足壱人持重サ五貫目之積、三拾貫目之荷物ハ六人して持へし、夫より軽き荷物ハ貫目に随ひて人数減すへし、此外いつれの荷物も是に准すへし、

  乗物 壱挺  次人足六人
  山乗物壱挺  次人足四人
一、御朱印伝馬、人足数、御書付之外多く出すへからさる事、
一、道中次人足、次馬之数、たとひ国持大名たりといふとも其家中共に東海道ハ五拾人、五拾疋に過すへからす、此外の伝馬道ハ弐拾五人、弐拾五疋に限るへし、

  但、江戸・京・大坂之外於道中人馬共に進通すへからさる事
一、伝馬駄賃之荷物ハ其町之馬不残可之、駄賃馬多く入時ハ在〻所〻によりやとひ、たとひ風雨の節といふ共荷物遅〻なき様相計ふへき事、

一、人馬之賃御定之外増銭を取におゐてハ牢舎せしめ、其町之問屋、年寄ハ過料として鳥文五貫文ツヽ、人馬役之ものハ、家一軒より百文ツヽ出すへき事、

  附
往還之輩理不尽之儀を申掛、またハ往還之ものに対し非分之事不有事、

 右条〻可守之、若於相背む可曲事もの也、
   正徳元年(一七一一)五月
                               奉行
 
    定
一、佐久山より之駄賃并人足賃銭
   大田原宿に記載されているものと大同小異であるので省略する。
 以上のように各宿には夫々道中奉行からの「定」が布告され、これを取締る仕事はその土地の代官または領主に命ぜられていたのであるが、明治維新となってからもこの中の「定」などはそのまゝ太政官の布告として一般に知らされた。(写真2)

写真2 太政官布告(慶応4年)藤沢諏訪太郎氏蔵