第一節 町人の旅路(大室家蔵 伊勢参宮手控帳から)

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 大名の参勤交代などと違って、一般庶民の旅には言語に絶する苦労があったようである。
 旅たつためには、檀那寺からの道中手形や各寺院あての依頼状なども着物に縫付けて旅立つ必要があったようで、その寺院宛の依頼状には、
「若し行き暮れた場合には、一宿を依頼し、又病死の場合には故郷にその便りをするには及ばないが、その地方の慣習に従って処理して欲しい。」

旨が記されており、旅立ちは死別すら考えざるを得なかったのであるから、親兄弟はもちろん、親戚、五人組などとも水盃を交して旅立つのが通例ではなかったかと思う。
 特に川留などにでも遭遇すると、特権階級は宿舎を得るに左程の困難は感じないが、一般庶民ともなると、大勢の人達と相宿になることなどは普通のことであり、時にはその宿舎さえも得るのに困雑を感ずる有様で、それに加えて胡麻の灰からは懐をねらわれ、雲助からは酒手を強要され、渡るもまた難題を持ち掛けるなどなかなか容易ではなかったようである。
 それでいて江戸時代には商用で旅する者は別として、社寺参詣は年々その数を増し、中でも伊勢参宮、金刀羅詣り、善光寺詣り、身延山、高野山、熊野山への参詣など、皆一ようにあこがれを持つたようである。
 とりわけお伊勢詣りは一般庶民のあこがれの中心であり、「一生に一度は」との風習もでき、それが叶えられない場合には講中をつくりお陰参りをするなどの風習も次第に盛んになって来たことが天保頃の記録に記されている。
 今伊勢参宮を中心とする貴重な旅日記があるので(写真3)、その当時の旅路を偲んでみたいと思う。

写真3 伊勢参宮手控帳の表紙と内容(大室啓二郎氏蔵)

 この旅日記は大田原宿の大室安兵衛氏(現「米喜」の先祖)が書き残したもので、その年代を知ることの出来ないことを大変残念に思うのである。
 黒尾東一氏はこの手控帳解読の中で「文政年間のもので得難い資料である」と言っておられるが、この手控帳を文政の頃とした根拠ははっきりしないようである。
 宿泊の価などから想像すると、享和の初頃(享和元年が一八〇一年)から文化六年(一八〇九)頃までのように思われる。その理由は、宿料は大体二百二十四文位であり、少ない時でも二百文以下はないように見える。
 これを大田原宿の記録にあてはめて見ると、(印南文書)寛政元年(一七八九)の大田原宿の宿料は上等百四十文、中等百二十八文、下等百二十文とあり、全国的にあまり大きな開きは考えられないので、寛政六年以後でなければならない。
 次に物価の高騰と共に幾分かづつ値上げをしたかの様にも思われるが、遂に文化六年(一八〇九)宿料を三百文にすべきであるとの組(十五人)と四百文にして欲しいとの組(二十五人)が論議したがまとまらなかったとの記録がある(印南文書)ところからみると、文化六年以前であるように思われる。
 しかし手控帳の善光寺泊りの前夜、すなわち五月十九日、青柳泊の所に「此所去未年中大じしんのせつ町家不残焼失あわれに相見えてせまり候」とあり、記録によれば信濃方面に未年に大地震のあったのは、弘化四丁未年(一八四七)三月二十四日であるので、弘化四年の一、二年後の頃とも推測出来るが、その頃では宿料などで少しおかしいように思うのである。
 なお表紙に大室喜助とあるは大室安兵衛氏と同一人であり、大室家は代々喜助を襲名したものと考えられる。
 本手控帳には巻頭に「伊勢代々講中御連名」として次の方々の名が記されている。
   大和屋    吉兵衛  様
   大和屋    五左衛門 様
   肴問屋    孫右衛門 様
   相模屋    重兵衛  様
   はしばや   乙吉   様
   鱗屋     利兵衛  様
   磯屋     太三郎  様
   伊勢屋    安右衛門 様
   甲子屋    忠治   様
   大玉子屋   弥助   様
   升本屋    権兵衛  様
また、「代々御連名二十三人」とあって、
   道行   川上利左衛門 殿
        川上利兵衛  殿
        相良重兵衛  殿
        細小路元八  殿
        大室安兵衛
        大高卯兵衛  殿
   新田町  伝之助    殿
         伊勢より分れ
        新田町 音吉
        伊勢より同行
        久二、新三郎(両人お供)
     〆  八人組
右御同行、伊勢大神宮より熊野山高野よしのとうのみね、奈良、はせ大和……大阪表より金毘羅様まで同行八人也、丸亀より右内四人様分れ

   川上利左衛門
   仝 利兵衛
   大室安兵衛
     〆 三人
      宮郡司殿より岩国迄三人にて、参る
と記載され、道行は八人で、伊勢より新田町の伝之助と音吉が加わったが、お供の久二新三郎を加えれば、しめて十人であった。
 旅路は二月四日から五月三十日の約四か月一一五日に及ぶ大行路であった。この旅路は主眼は伊勢参詣であったが、これを機会に四国の金刀比羅、広島の宮島(厳島)、信州の善光寺等の参詣も兼ねた大規模なものであったのである。
 
二月四日
目出度出立晴れて町中見立酒升屋喜兵衛殿宅より頂戴仕候。町中一統下町木戸まで送り代々講中茗荷屋殿見立酒頂戴仕候。木戸極にてまき銭十二文づつ、子供中まで壱分づつ遣す。但し弐拾五ばかり外懇意衆中佐久山岩野屋迄見送り被下候。

 右仁まで酒差出し御もどし申候事
  喜連川 釜屋又右衛門泊
   弐百文   宿料
   外 茶代 十九文割
           中
五日 開清(ママ)(快晴)
一、宇都宮
   関屋吉兵衛泊り上
   弐百文  宿料
   四十文  茶代別
六日 開清 夕六つ時より間々田宿
一、立野良助泊り
  大阪商人定宿 弐百弐拾四文 宿料
                 中
七日 同断
一、粕かべ泊り
  国田屋 泊り
   二百弐拾四文  宿料
   三十八文    茶代
 こんな調子の書出で、八日は江戸、十七日には鎌倉につき、その土地土地の名所旧蹟など見物の節はくわしくそのことを書き記した上自分の所見ものべている。
 十六日 鎌倉泊り 十七日 江の島泊り 十八日 小田原泊り
 十九日 箱根宿
   はやぶさ四郎右衛門泊り湖水有立巾三厘(ママ)(里)横巾二厘(ママ)有之候よし
   右旅宿座敷より富士山見るまより十弐丁登り三嶋宿迄三厘(里)廿八丁下り。
   右之内富士見坂と申茶屋一軒あり夫れより右の方富士山誠に宜敷相見申候
   三島宿沼津御城山々嶽々見通し至て景色也。
 一、三しま宿 三厘(ママ)十八丁相応也
町中に三嶋大明神有、粕屋休、夫れより参詣地内の池に非鯉ま鯉三寸位より弐尺位迄有処沢山相石橋よりゑば進じ候処沢山あん景色也。

   外には鳥沢山におり申候。
 一、沼津宿
   水野出羽守様御城下、大手よろしく、町家相応也。
 一、原宿 此処松原多くあり
一、柏原村
   此処笹がに、生いか多し
   ふじの白酒名物あり。遠目がねあり 四文位
  中略
 十九日(五月)夜
 一、青柳  関谷八良右ヱ門
       宿料弐百弐拾四文
 一、尾見
 一、中原
 一、稲荷山
  此所去未年中大じしんのせつ、町家不残焼失あわれに相見えてせまり候。
 一、しのゝい追分
  ひしや文次郎休
  此所まで大高卯兵衛殿案内、張紙拝見五月八日通り小客儀廿日罷通り女中右は四月廿日通張拝見
 一、丹波しま
  船渡し大川
  三渡しにて一ノ五十文づつ、此辺不残焼けし
 廿日 夜
 一、善光寺
    ふじや平五郎泊り
    宿料 二百文    以下略
 というように最後まで書かれている。次におもな行程を紹介する。
 
大田原発(二月四日)―宇都宮(五日) 江戸(八日)―鎌倉(十七日)―江の嶋、小田原(十八日)―箱根(十九日)―富士川、久能山(二十一日)―嶋田(二十三日~四日)―大井川、岡崎(二十九日)―名古屋(三月三日)―四日市(四日)―津(五日)―松坂(六日)―伊勢(八日~十四日発)―おわし村(十七日)―新宮(十九日)那智山(二十日)―田辺(二十三日)―日高川、道成寺、和歌山(二十七日)―高野山(二十三日)―法隆寺(四月三日)奈良、大阪(四日~十日発)―兵庫、明石、姫路(十三日)―岡山(十四日)―田ノ口村(十五日)船~丸亀(十六日)―金毘羅参詣、善通寺(十七日)―丸亀(十七日夜発)
船~宮嶋(十九日~二十日参詣) 船~岩国(錦帯橋)(二十一日) 船~宮嶋―船~広島―尾道(二十三日)岡山(二十六日)―加古川(二十八日) 明石、兵庫、大阪(五月一日)
京都(二日~六日)―大津(七日)―草津、水口、日野(九日)―赤坂(十二日)―妻籠(十六日)―奈良井、松本(十八日)―善光寺(二十日)―草津(二十二日)―高崎(二十六日)―太田、天明(二十八日)―宇都宮(二十九日)大田原(三十日)

 一、大田原 無滞無事着
   但内一統相廻り候事
   向三軒に親類懇意の仁まで相廻り候事
 こうして四ケ月にわたる大旅行も終ったのである。
 なおこの年の各月の日数は次の通りであった。
   二月  二十九日
   三月  三十日
   四月  二十九日
   五月  三十日
 
 以上のような大行程で、しかも一日も欠かさずしたためられているので当時の人情の機微を知ったり、路銀などを調べる上に貴重な資料である。また、この旅日記は子孫のために書き残すという意図で綴(つづ)られているので、自分のことは簡単に記し、その代り、後世子孫のためになることはかなり詳しく書かれている。たとえば、「旅の心得ケ条」として次のようなことも巻末に記されている。
 一、第壱番 途中より道連求むべからず
 一、同   道中にて病人にて難渋者あり候ても必ず薬施すこと堅無用の事
 一、弐番  道中大酒女人慎むべし
 一、三番  泊りに付支度を致し候とも小道工も外品々ひとまといに致し風呂敷包に致す事
また、次の一節などにも子孫への思いやりがうかがえる。
 
二月十八日 開清(快晴)
 藤沢宿とうたく山に参る。おくり半かんは田所其ほふもつ有なんこ村江戸屋
 昼上々 壱人分 七拾弐文
 大磯宿入口より少々行虎子岩 名所青日日蓮上人直少々焼火の中より出る
 大磯宿入口より少々行 西行上人宝物西行 杖ふじの間……日御歌有 小田原泊り
  とらや三四郎 宿料 二百十四文
  大久保様城下
一、小田原より箱根御関所までかごに乗可申候事 但し賃銭御足八百五十文位風雨のせつは百文増可程にても乗可申事

   此の宿屋にて相極め可申候事
 一、湯本 福住久蔵
三牧橋より不二入入湯仕候 座敷至って宜敷小田原宿箱根峠ケ掛り同所まで四里十弐参丁登り峠に三軒甘酒計りの茶屋あり

 箱根大権現曽我兄弟宝物有り 入口大釜二個有之
  御関所
   無仰手形差上
     罷通して
   但し小綱町嶋屋藤兵衛殿相願頂戴いたし候
この旅日記の中で特に目を引いたのは、旅路と河川との関係であった。大井川の川渡しは有名であるが、そのほか大小数十に及ぶ川渡しは以外と歴史の中で埋没してはいなかったか、旅路の困難性はこんなところにも潜んでいたのであろう。また、大名行列はこんなときたいへん旅人には迷惑だったようである。
 (二月)廿三日 出立府中宿
  (前略)
  一、安倍川舟渡し
    壱人百拾四文 れんだへ越
    外五拾文酒手出す
    長州様御通り一同に相成り難渋仕候事
                       (後略)
反面、河川は峠など多き陸路よりは、物資輸送や交通路としても便利であったので、船便による往来は賑わい、全国に河岸の発達をみるのである。次のように高野山や吉野山参詣などは紀ノ川などの水路を利用してはじめて可能だったのだろう。
 (三月)廿七日 目出度舟に乗る 壱人弐拾三文
 但しゑもせ山より少岩山あり
 東照宮様あり夫より名所旧跡数多あり
 布の引乃松と言、夫茸し紀三井寺へつりがね奉納いたし候砌のも、つりがねお引と申事リウとふ松とも申也
一、若山江賀御城下誠に宜敷也
 御城宣敷丸の内宣敷口徒らけいこ拝見いたし候
 紀の川舟渡し十六文位の処三拾弐文差上候
一、ねころまで廻り是まで二里半
 十一面観世音お堂数多し
 不動明王御堂八角四面前に慮かね木あり目形弐拾四〆目と申事右之方蓮の香炉あり
  龍のかしら有
廿七日 夜
一、粉川町  金屋茂兵衛泊り
       宿料 二百弐拾四文
 三番紀の国粉川寺参詣 御庭は誠に宣敷也
 町中程より高野山に行道あり
 大津舟渡し五文 花坂より高野山二王門まで五十丁
  弘法大師けさかけの石あり



其外大師様石頂山あり 二王門是と大壱番の二王門なり
   但しとこ
 一、廿八日夜卅日朝
       朱御印二万千石
高野山清浄心 凡千弐拾年余なり 坐敷拝見つき山拝見、同所に登る 院外に御大名様より頂戴いたしべっこうの木あり

  宿料 四百文差置、事の外丁嚀いたしくれ候。
 廿九日夜
  夫より下り三軒茶屋 松屋惣八泊り
卅日
木の川渡る舟せん拾弐文づゝ
紀州様御役所有
少々行八幡宮あり 夫より大和国に相成宇野村と申処仙人酒と申名酒あり 壱人百五拾文位
夫より少々行出口に下市村上市村と申すをゑわけ有
右の方まで廻る舟渡し有、舟ちん五文づゝ
廿丁程行下市村すしや弥助宅の中庭御披見いたし 案内壱人六文づゝつるべずし
 つるべに入
  壱個 百文
       但し八っ位入
 大和国吉野郡
 一、吉野山
    ふくちや門兵衛泊り同娘およし殿上品なり 十八才位
   蔵王権現参詣
  本堂十八間四面
  右の内につゝじのはしら八尺まわり三丈一尺
  右同様杉ばしら七拾弐本あり、尚又奥の院ゑんの行者開帳にて宝物数多拝見
壱人前拾弐文づゝ 但しめい/\潘下にて山々六拾壱年 浦々風景宣敷参詣 数多の内上玉秋月玉山込合美しき登山也桜沢山あり五丁登り難不知

 以上手控帳の概略を紹介したに過ぎないが、伊勢参宮を中心として、四国路、中国路、信濃路と病気もせずほとんど休む間もなく、よくも身体が続いたものであるとも考えるし、この四ケ月にわたる長途の路銀は実に莫大なものとなるが、それをどのようにして懐中したか、只(ただ)々驚くばかりである。