松前藩の鷹献上の起源は古く、文禄三年(一五九四)豊臣秀吉が松前若狭守季広が蝦夷島を征討した多年の功を賞し、その子民部大輔慶広に蝦夷島一円を与えたことにはじまる。
これより松前藩は領内特産の鷹を献上することを通例とした。慶長元年(一五九六)秀吉は松前慶広に駅付の馬を給することとした。
このことは徳川の天下となってからも恒例として行われたようで、寛永元年(一六二四)正月二十二日志摩守公広が鷹を献上するに当り、老中より駅路の渋滞することのないよう奥州駅次諸大名に発令したことが徳川実記に見えている。
献上の鷹は領地松前を出て、津軽三厩から奥州街道の諸駅を通過して江戸に達するのであるが、その沿道諸藩のこれに対する取扱、待遇などは大体同じものであったようである。
道中筋の休泊する宿駅には定例があり、下野国では芦野駅に宿泊し、一路六里大田原駅で昼食、佐久山駅に泊る定めとなっていた模様である。これに先だち松前藩は特に掛役人を出張させ、関係本陣に通過宿泊の日時などを告知し継立についての打合せをする。
本陣印南家記録によると、文政十三年(一八三〇)(天保元年)九月十八日の条に、松前藩士新井田金右衛門が、献上鷹通行の継立取計方の依頼状がある。
今度御鷹為二差登一候ニ付、御伝馬六匹、人夫三士五人、道中無二遅滞一 様頼入候。以上
寅九月(文政十三年庚寅) 松前志摩守内
新井田金右衛門
津軽三厩より 武州千住迄
記録によれば献上鷹通過の十月八日は晴天で、下町宗兵衛、長吉を鎌取坂まで遠見に遣わしている。先触は九ツ時(正午頃)頃に、鷹は八ツ時(午後二時)頃に到着し、大久保町のものが案内して本陣に入り休憩した。鷹は十六連を十棹(さお)とし、一棹人足三人にてかついでいた。領主より雉子雄三羽、雌二羽を予め用意して鷹の餌食にするのが通例であるが、この年は雌鳥不足のため、山鳥の雌一羽を入れ、前夜小雑用に町奉行所に持参させ、当日町奉行所よりこれを差出した。と記されている。