一、飯盛下女の沿革

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 大田原宿は奥州街道の交通における東北諸大名の参勤交替、人馬継立、武士や庶民の往来休泊などによって賑(にぎ)わっていたのであるが、その要素となったのは旅籠屋であった。町問屋並びに年寄より正徳三年(一七一三)正月道中奉行松平石見守、大久保大隅守への書上げによると旅籠屋は四十三軒茶屋四軒とある。この旅籠屋は近在の婦女子を炊事下働きに雇い、時には旅客の食事の給仕をさせたが、享保の初に至り、越後または奥羽地方の年若き女子を召抱え、これを茶給仕または飯盛下女と称し、旅客の望に任せ酒席に侍(はべ)らせて三百文とし、宿泊するときは酒肴二品つき五百文と定めた。その後飯盛下女はその数をまし一軒に三、四名を置きいずれも華美な絹布の衣類をまとい、酒席にて三味線を弾き太鼓を鳴らして遊興を助け、果ては旅人の一夜の旅情を慰めて遊女に類することもあったので、藩はたびたび教令(きょうれい)をくだして戒飭(かいちょく)するところがあった。当時五街道においてもまさに大同小異で、享保三年(一七一八)戊閏十月幕府は法令を発して、江戸道中筋十里四方(四十キロメートル四方)は、旅人宿一軒につき召抱えの飯盛下女を二人と定め、十里(四十キロメートル)以外の街道も、また、これに準ずることになった。大田原藩もこれに従い一軒に二人と定め、また厳に藩士はもち論領内町方、農民の登楼遊興を禁止し、もし違背するものは処罰して風俗の矯正(きょうせい)をはかった。しかし飯盛下女は武士の酒席に侍(はべ)るを名誉と心得、武士も依然としてひそかに禁令を犯すものもあったようである。
 次の一文は道中奉行から宿駅問屋場および町年寄に達せられた触書である。
 
 道中筋旅籠屋の食売女、近年猥に人多に有之由候。向後江戸十里四方の道中筋には古来の通、旅籠屋に一軒、食売女弐人宛の外は、堅く差置せ申間敷候。十里外の道中筋旅籠屋も、右に準じ可申候以上。
右之通、今度被仰出候間、右御書付之趣相守、猥成儀無之様に可仕候。若相背候はゞ曲事可申付候。
此触留りの宿より、宿送りを以、伊勢守役所江可相返者也。
      戌閏十月
      伊勢
      石見
        奥州海道白沢より白河迄
         右宿々 問屋
             年寄
 
 追而、此触状之趣、承知仕候旨、宿々より、請状相添可指越候。以上

 
 その後六十余年の記録を闕(か)いている。安永八年(一七七九)正月、藩は旅籠屋に対し家条書をくだして飯盛下女の心得を諭した。
    家条書之事
一、近年飯盛下女、至極猥に相成候間、御差図被仰付下置候、家条之趣、並段々被仰渡候通、昼夜無油断、急度可相守事。

一、主人江忠を尽さず。諸朋友を粗略し、或は仲間喧嘩、其外何事によらず。不届の義致べからず。尤あしき客隠し置候節後日に相知候はば、越度可為候。

一、昼夜にかぎらず。座敷廻り、火元大切に入年可申候。尤女子相応の手業、何成共被仰付次第、相勤可申候。附面々し(ひ)いき有之候客、他所より参り候節、疎略に致間敷候。若し当町別〻御家中衆中と相見へ候はば、堅可無用候。

一、住来侍、其外下々等迄、慮外無之様、平日入念急度可相勤、就中古参新参女旅人江対し、不調法無之様、急度可相勤候。別而自然座敷の女共は、其家の実主人同前に、相心得申べく候。若又我儘の沙汰相聞候はば、其所相払可申候事。

一、旅人何時御出立候とも、基節罷出、給仕手傅可仕候。且又少々の品にても、取落の品に候はば、早速主人江為相知申候。たとひ軽き下々たり共、粗略いたす間敷事。

一、家条書、並年々被仰渡之趣、急度可相守事。

一、其家々江随、諸朋友と睦敷可仕候事。

一、諸牢人、隠し泊メ差置申間敷、若親類に候はば、主人江相達、可申、尤主人心付べき事。

一、旅人、並近在のもの成共、諸品預りもの致べからす候事。

一、何ものによらす、疑敷ものと相見候はば、早速に相達べく候。

一、遊女ケ間敷、異形の躰仕間敷候事。

一、衣類の義は、分限に過申間敷候。別而昼夜にかぎらず。猥りに不出。若用事有之候はば、主人へ其訳を申、人附可出事。

一、見世先ニ而高腰、高笑、たばこの火、並に日より下駄、堅停止の事。尤湯屋又は茶屋、別て裏道等、猥りに不出候事。

一、衣類は、青梅、棧留、並に帯は木綿以下に可限候事。

 右条条、今度定畢。女子の者共、堅可相守油断、違背の族有之ば、可重々其科者也。
   安永八年亥正月