二、飯盛下女の停止

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 天明元年(一七八一)十月八日、藩は旅籠屋飯盛下女禁止令をくだし、町奉行平井儀助、大目附阿久津六郎兵衛をして通達させた。旅籠屋行事川島屋宗十郎、木瓜屋次郎兵衛は、一同協議の上、十一月九日飯盛下女召抱え継続願を提出した。藩は飯盛下女召抱期間を今後十ケ年とし、一人につき三百文の税金を命じて継続を許可した。当時飯盛下女は三十八人あり、税額十一貫四百文のところ世間不景気のため、その半額五貫七百文を納付した。
 同四年閏正月、去年の飢饉にて、旅籠屋は営業も立ち行かない状態となったので、一同連署して営業税の免除を嘆願したところ、藩は八月まで運上金を免除し、飯売下女召抱えの旅籠屋三十三軒に、一人百文の運上を命じ、正月より八月までの運上金二貫三百文を納め、九月よりは従前の通り、定額三百文を上納させた。六年秋、農作物また不作し、物価大に騰り、世間不景気にて、旅籠営業も頗る難渋になったので、八月運上御免を願い、閏十月より十二月まで、三ケ月間、特に下女一人百文宛の運上を命ぜられ、七十人分銭七貫文を納めた。当時町年寄は、印南重郎右衛門、年寄岡本角左衛門、同菊池甚左衛門、名主細谷権三郎、同中村太郎左衛門、旅籠屋行司河島屋宗十郎、木瓜屋次郎兵衛などであった。