三、飯盛下女をいましむ

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 寛政元年(一七八九)勘定奉行兼帯道中奉行根岸肥前守鎮衛は、奥州街道筋、各城下町役人を江戸奉行所に招喚し、旅籠屋心得を申し渡し、並びに飯盛下女は一軒につき二人に限ると仰渡された。町役人は帰還して、これを旅籠屋一同に通達し、連名の請書を作成して奉行所に提出した。
   差上申一札之事
一、此度道中御奉行根岸肥前守様より御召出ニ付各様御出府の上、被仰渡、御箇条之趣、此節私共ヘ被仰付、委細奉畏候。

一、御用御泊、並諸家様御泊りの砌、御粗未の取扱不仕。尤商売人たりとも、大切に心掛け可申候。御出立の刻限に、人馬掛置、指支無之様に可仕候段、厳敷被仰付、承知奉畏候。

一、飯売下女の義、前々も数度被仰付も御座候処、猶又此度従御公儀様より、厳敷被仰付、依之着服の義、布木綿の外、絹布類決て相用申間敷候。惣て目立候風俗、為仕間敷候。

一、見世先において、三味線ひかせ申間敷候。都て飯売下女共、御家中様は、勿論他町江差出、其上高下駄等相用候義、己後急度為仕間敷候。

一、右下女共の儀、近来風俗不宜候。名前等の義、遊女ケ間敷名前も有之由、不埓の至、以来前々之通相心得候様被仰付、委細奉畏候。

右之条々、私共一統、被召呼仰付候上は、向後急度相守可申候。万一相背候者有之、各様へ御目に掛ケ次第、如何様の御下知被仰付候共、其砌一言の義申間敷候。為後日差上申、一札仍て如件。

 
 当時藩庁は旅籠屋宿泊料を規定して、上等百四十文、中等百二十八文、下等百二十文とし、木賃宿泊は、上等三十五文、下等二十八文とした。一同連署請書を町奉行に差出した「私共一統座敷へ張置、急度相守可申候。万一向後仲間の内、不埓の旅籠銭、木銭代共受取候者、被仰聞及候はば、御尋の上、如何様の義被仰付候共、一言可申上様無御座候」とある。翌二年八月、飯盛下女召抱え期間が満了となった。天明三年(一七八三)以来、凶作うち続き漸(よおや)くこの一両年相応の年柄となったものの、連年の困窮にて、あるいは召抱えの下女を抵当に借金をなすものすらあって、内実は生計はなはだ困難なために、八月十日、旅籠屋飯盛世話人次郎右衛門、巴屋利右衛門等一同連署をもって、更に延期願を提出した。十二月二十日町奉所に召出され、
格別の以御憐愍願之通来る亥年(寛政二年)より申年(同十二年)迄十ケ年の間、飯盛下女差置候義、御免申付候条、是迄の通、為冥加運上差上、一軒につき四人迄、勝手次第差置致商売、為運上銭、是迄之通、可相納候。尤近年被仰出茂有之、下女着服の外、絹布類一切不相成候。其外目立ち候、遊興がましき義、猶又不相成候間、此旨急度相心得べく候。(上下略)

と申し渡しあり、なお安永八年(一七七九)頃飯盛下女遊興の際、鳴物を用いることは許可せられたが、寛政二年(一七九〇)十二月、厳に太鼓を鳴らすことを禁し、同四年(一七九二)十二月十二日、時の町奉行の取計いにて太鼓は黙許することになった。
 寛政五年(一七九三)四月、町奉所は町年寄岡本角左衛門を招喚し、近来旅籠屋商売に不埓(らち)の所為多く、不都合につき自今飯盛下女は一軒二人に限ることを達した。同十二年(一八〇〇)八月は、飯盛下女召抱え期限十ケ年満限になるので六月、行事上町印南屋藤四郎外三十八人連署して、更に十ケ年延期願を提出し、十月二十八日、七ツ時(午後四時半)町奉所に召出され、町奉行形部要右衛門、大目附長尾久右衛門より願意聴許の旨を達し、文政七年(一八二四)八月まで、営業継続のこととなった。
 文化二丑年(一八〇五)八月二十六日町奉行山田甚平より自今飯盛下女運上六百文に仰付られた。
 文化五年(一八〇八)十一月二日、町奉行権田又市より、従来旅籠屋において、諸品販売の兼業を許可せられしや否やにつき取調べられ一同談合の上、両商売ということは古来の法度であるが、旅人入用の品、刻たばこ、草覆、鼻紙などを下見世に陳べてあきなうことは黙認せられた。しかしこの節は店先に差出さないものが六七軒あると答申した。
 当時飯盛下女の出奔するもの多くなったので、一同申し合わせの上、また旅籠屋において博徒の宿をすることもあり、もし召抱えの下女出奔して行司より通知のあった場合は、一同手分けして早速諸処探索すること、費用は日戻りの処は自己の負担とし、一泊する場合は当人より支出することとした。また旅籠屋において博徒の宿をするものがあるというその筋から沙汰があったので、今後仲間吟味として、四十四軒を組合組織とし、これを四軒づつ十一組に分けて、互に非違を正しく調べることに定めた。旅籠屋文書に、
一、此度博奕等宿仕候者も有之趣、蒙御沙汰候ニ付、已後仲間為吟味、四人宛組合相定、吟味相届け申出候節は、当人は半年掛札取上ケ可申候。万々一、組合の内不吟味にて、脇より見咎メに相成候節は、其組の内、残り三軒も、掛札二ケ月取揚け申候様、仲間一統評議の上、相定候得共、相互少茂遺恨に致間敷候。依之惣仲間連印致置候。  以上。

とある。文化六年(一八〇九)二月のことであった。
 しかして旅籠屋一同評議して、飯盛下女召抱えの有無にかかわらず、旅籠賃を三百文に一定せんとしたが、相談は遂に和合せず。遂に三百文と四百文との両組に分れることになった。
三百文組
塩屋甚右衛門、玉子屋弥平、丁子屋宇右衛門 亀甲屋宗兵衛 米屋忠兵衛 小木爪屋治左衛門 小玉子屋弥右衛門 色葉屋久吾 行司福田屋藤蔵 太田屋藤兵衛 巴屋利右衛門 三河屋市郎兵衛 かじ屋太兵衛 大和屋伊兵衛 升屋喜兵衛

四百文組
和泉屋幸七 磯屋捨次郎 田丸屋安右衛門 綿屋半兵衛 信濃屋四郎左衛門 水戸屋文五郎 加賀屋仁三郎 印南屋藤四郎 相模屋後家 市川屋 □□□小綿屋平次衛門 関東屋後家 東屋忠左衛門 □□屋忠兵衛 山田屋 □□玉屋弥平 井丸屋庄左衛門 綿屋吉郎平 近江屋藤四郎 青木屋吉助 奈良屋太兵衛 武蔵屋兵助 丸屋源七

 
 文化七年(一八一〇)は旅籠屋営業期間満期に相当した。当時大田原藩は財政困難の状態であったが、五月二日町奉行所に町年寄菊池文助を召致して、旅籠屋に対して御勝手向御用金百五十両を調達すべきよう命ぜられた。文助は旅籠屋惣代上町塩屋甚右衛門、巴屋利右衛門、大和屋伊兵衛、小木爪屋治左衛門等を招いてこれを告げ、更に一同協議の上、金五拾両をもって御勘弁を願ったが聴許されず。依て再び集会して金百両を調達して、この月二十五日に五十両、残額は七月五日に上納した。始め藩は来る八、九年十二月の両度に無利息返済する方法であったが、旅籠屋一同より、金百両を上納金としてその代償に永代渡世株の下付を出願したので、藩は七月上納金皆済後に株証文を下渡した。予(あらかじ)め町奉行所に出願し、また組合に加入するときは、株金を差し出すことになり、中町嘉助、善助、兵蔵、徳兵衛四人、追って渡世致し度き旨願書を差し出した。そして九月二十八日付、十ケ年営業満期継続が許可せられ、なおこれに付帯して次の条件が許可された。
旅籠屋召抱の飯盛下女が、他人に誘ひ出され、他所に抱置かれた為に、当方との交渉にあたり、場合に依ては奉行所の添手紙を載き、又自然同心衆の出張の時は相当の御手当を支給されたく、又近年打続く世上の不景気については、飯盛下女の運上も、従前通りに願ひたく、且下女の半襟、袖口に絹物を用ひるなど願ひ出たが、絹布着用だけは許可されなかった。

 
    差出申一札之事
私儀、会津屋忠蔵殿家、借宅仕候て、道中旅籠屋商売仕度、組合御頼、相願候処、下女差置借貸之札御渡被下、忝奉存候。依之御法度之当御家中様方は不申及、町方御城下衆中見請候ハヽ一宿ハ勿論遊興ケ間敷御宿仕間敷候。尤飯盛下女差置、不埓之立廻り、為致不申、商売体ニ付、私之趣意を以、御仲間へ対、我儘成義仕出シ候て、御仲間に、御難儀相掛申間敷候。随分商売大切ニ相守、毛頭不埓成義仕間敷、為後日仍而如件。

    戌二月(寛政二年)                  東国屋平蔵印
     旅籠屋御仲間
           衆中
 
    差出申一札之事
一、此度内々にて旅人留置候処、各〻様御仲間衆中へ御目掛ニて御糺ニ預り一言之申開無御座候。依之御披露にも相成可申候処、私組内并ニ近江家喜七殿相頼、達而御詫仕候処内々ニ而御承知被下置候次第ニ奉存候。然上者、己来住夾入魂之者あり共、一宿も為致申間敷候。尤食盛下女、一向小宿仕間敷候。万一御目掛り等御座候ハバ、御勝手ニ可成候。為念仍而如件。

                            岩井屋
                               喜平次印
 
    差上申一札之事
一、私義居屋敷之儀者、旅籠屋地処ニ御座候処、数年之困窮ニ而見世売仕居申候処、寛政元酉年二月中、道中旅籠屋ニ相成申度由、町役人衆中様江奉願上候。各〻方江可申入候処、御評議之上、御承知被下、此上飯盛下女差置、尤借貸札等之義も申入候処、是又御仲間御参会之上、御渡シ可下段、忝仕合奉存候。右ニ付御法度之御家中様不申、町方御城下之衆中と見請候ハバ、堅泊申間敷候。尤飯盛下女差置、不埓成候為致間敷候。旅籠屋売買之儀ニ付、御仲間中へ対、私趣意を以、我儘之事仕出、御伴間中へ、御難儀ニ相成儀仕間敷候。随分商売大切ニ相守、毛頭不埓成義仕間敷、為後日仍而如

    寛政元酉五月                    ミとりや
                               仙右衛門 判