第四節 時報鐘の改鋳

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 大田原藩時報鐘の創始された年代は詳かでない。宝永八年(一七一一)四月江戸日本橋本石町三丁目に設けられた石町時鐘に倣ったものといわれている。鐘楼は大手門外の左側に建ち、鐘楼番を置いて、朝(午前六時)昼(正午)夕(午後六時)の三回に時刻を報じた。記録によると、元文元年(一七三六)二月十七日夜、中町庄右衛門宅より火を失したちまち廓内に燃え広がり、侍屋敷の大半を類焼し、鐘楼もまた災にかかった。三年(一七三八)三月二十三日藩は、新道三六水車と称する足軽長屋の辺りに新築することになり、それまで下町吉祥院に移して時刻を報らせた時鐘には楼番を置き、おせのという女に、一ケ月一人扶持、白米九升と薪燈油代若干を給した。
 宝暦十四年(一七六四)六月二日明和と改元した。藩は元文の火災で時鐘が処々溶解して、奇形でこぼこになったために、大町満長、田部貞義に改鋳の事を掌らしめ、三月二十七日刈切絵図屋敷に鋳物場を設け、鋳造に着手した処、炉型が破損し、四月三日に至ってようやく、工を竣った。銘に云う。
 時鐘一箇鋳之而為昼夜之規矩者也矣。
    奉行  大町七郎□衛満長
        田部義右衛門貞義
    干時宝暦十四申年四月初三日
     野州佐野住
      御鋳物師
          大田甚左衛門
             藤原秀重
      小薬村世話人
           塚原長右衛門
           小島九右衛門
 人見伝蔵氏が住年鐘楼に上がり、銘辞を謄写したとき、龍頭の下にあるいぼを数えてみると、百十九個あったことが書き留めてある。時報鐘は、明治四年(一八七一)廃藩置県のとき、大田原町に移管し、その後大田原町役場の裏手に鐘楼を建て、日々小使が朝昼暮の三回に時刻を報じていたが、大平洋戦争のおり供出して、二百余年ゆかりの時鐘も遂にその姿を消した。