第五節 ロシヤ人の大田原宿泊

612 ~ 614
 鎖国の夢をむさぼる日本の扉を、最初にたたいたのはロシヤ人である。寛政四年(一七九二)九月ロシヤ使節アダム ラツクスマンが伊勢国の漂流民幸大夫らを護送し、根室にきて通商を求めたのにはじまる。ロシヤの南下は日本の北辺に一大脅威をもたらし、海防の必要を痛感した幕府は、沿海諸大名に海岸防備の強化を指令するとともに、享和二年(一八〇二)二月、蝦夷奉行を置き、箱館奉行を松前奉行と改称して北辺防衛の任に当てた。それ以来、江戸 箱館間の陸上交通が頻繁になり、奥州路の人馬の往来も激しく、いん賑を極め、江戸と蝦夷をつなぐ通路としていっそう重要性を増す街道となった。
 幕府はついに鎖国を破った最初の条約(神奈川条約)を安政元年(一八五四)三月にペリーと調印、同年十二月には日露和親条約を締結して、下田 箱館 長崎の三港を開港した。後の通商条約によって、箱館には、万延元年(一八六〇)に入港した外国船は、六四隻を数えたという。この年の二月、江戸より箱館に下るロシヤ人コンシェル外四名が大田原本陣問屋に泊ることになった。異国人が泊るなどということは、地方では初めての事なので、彼らをどう取り扱ってよいかわからない。そこで藩では、大田原より先に泊る宇都宮宿に問い合わせた結果、宇都宮の青山又兵衛より詳細な通報があったので、大田原でもその例にならって、次のように取り扱ったという。
  一、御代官上下三人、足軽四人取締のため領地境まで出向いて町方入口まで随行すること。
  一、御物頭上下五人、足軽八人町入口より本陣まで取締の上出向いること。
  一、火の番の者上下十一人、取締のため薬師前に出張のこと。
  一、木戸木戸は〆切り、足軽一人ずつ番のこと。
  一、町御奉行上下九人、上下着用して取締のため本陣前に出張のこと。
  一、町奉行火の番衆、本陣着より出発まで宿に控えて取締りのため詰切のこと。
  一、翌日出発の際は、大手前の固めとして町奉行出張のこと。
  一、門前横町は徒目付、足軽一人位づつ連れて固めること。
  一、翌日御代官、領地境まで出張のこと。
  一、御徒目付上下三人、足軽四人ロシヤ人に附添って領地境まで取締見送ること。
  一、足軽二人、着出発先払のこと。
  一、夜は高張提灯五、六張づつかかげること。
  一、本陣座敷縁台へは、毛氈六枚用意のこと。
  一、火鉢は普通より多く用意すること。
  一、ロシヤ人賄のことは、一切差しかまえなし、先方より要求があった用品を差出すこと。
  一、町方の湯屋、近郷より鉄砲持込は着より出発まで差留めること。
  一、本陣の見廻りは厳重に申付ること。
  一、市内のことも同じ。
    〆
    外国奉行同格位ヲロシヤ人
     官名 コンシェル・コビキビツ
        年四十四才
     女房名 エリサビツトウ
         年四十位
     医師家内名 イシリヤ
           年三十位
     下女 ヲリカ  年十七、八
     忰  ワジル  年十二半
 藩では彼らの取り扱いには万全を期し、万一を心配して攘夷論者の襲撃に備えたのはもちろんであったろう。一方、ロシア人の通行に城下民は好奇と不安の念に駆りたてられたのはいうまでもなかろう。
(益子孝治著 奥州道中より)