第七節 天保の大飢饉

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 天保七年(一八三六)、このとしは初夏から雨が降りつづき、特に七月十八日は朝から南風が吹き、大雨が頻に至って、大樹を折り、民家を倒し、諸作物の被害多く、いよいよ凶作ときまったので、人心は一かたならず穏かでなかった。
 干蘭盆前には金壱分につき米が一斗七升であったものが、風水害の後は次第に騰貴して十一月頃からは五升または五升五合という高値を呼び、窮民が続出する有様であったので、藩は儲(ちょ)蓄米(貯蓄米)を出し、一人につき三合づつ価を安くして払い下げた(救米)
 このことは去る天保の秋、関東一円が不作のため米価が騰貴し壱分につき米一斗八升から漸次高騰して九升にまでなったため、領民はいよいよ窮迫し、藩では救荒の処置を講じ且教令をくだして、各町に溜穀置場を設けさせ、戸毎に稗五升づつを毎年自作して蓄えさせ、村方では郷倉を復活して余穀を何なりと貯蔵して、万一に備えることゝしたのである。
 従来大田原藩では、窮民の救恤にさほど困難を感じなかったのは、徳川氏が関ケ原の役に上杉氏に対する後顧の患があってからは、奥羽諸大名への万一に備えて、寛永十年(一六三三)二月、大田原城中坂下門外に、米倉二陳を建て、附近の幕領八木沢 市の沢その他から籾一千石を納めさせて儲(ちょ)蓄した。
 これを千石蔵といい、大田原藩は代々これが保管に任じたのであった。その実藩では随時これを使用し、若し幕府から回米を命ぜられるとか、あるいは幕府巡見使の視察のあるときはこれを補填しておいた由で、このような便宜の処置があったために、たとえ凶歳にあってもさほど恐慌を来さなかったということである。
 天保の凶作には、烏山藩は、天性寺の住職円応や家老の菅谷八郎右衛門等は、桜町に到って二宮尊徳に救凶を懇願し、十二月初に米三十俵を天性寺に運んで炊き出し、四十俵を開懇料として送った。同月二十六、七の両日八十俵を送り、引き続き飢民八百七十余人を救い、また荒地五十八町九段歩を整理した。
 隣藩の黒羽では、藩主伊予守増儀は自ら村々を巡視して、貧民に鳥目をおくり、隠居土佐守増業は荒布五十俵を与えるなどをした。また水戸藩へ大野郡大夫を使者として、稗籾五斗入一千俵を借用し、大目付小山新平を越後村松内藤藩に遣わして、玄米若干俵を借用して家士の扶助に配当したと伝えられている。
 大田原藩では今年の凶作は辛うじて切り抜けたものゝ、来年の種籾や不足米をどう凌ぐかについて、重役ら協議の結果、尊徳の示教を仰ぐこととなり、金右衛門が桜町陣屋に派遣されたといわれている。