第八節 安政の大雨

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 安政四年(一八五七)四月下旬から雨天が打ち続き、六月六日からは連日の大降雨で、狩野郷一帯 高柳 赤坂 箕輪 箭坪 上中野 下中野 洞島 和田 などの村々その他洪水押し出し、接骨木 南小屋村の畑作は水腐れとなった。那須温泉湯本は山崩れで人家を圧し倒し、あるいは押し流され、人畜もまた多く死傷した。六月二十八日・二十九日の両日は西郷筋は大洪水で、深川辺の新田は押し流され、薬師堂の溜池は水が溢れて街道を流れ、鮫が橋は水がつく程で、新道十二ケ所、三六水車は引臼が押し流される始末、富士山下の市蔵水車にも浸水して、家財を取り片付ける程で三・四十年以来の出水であったという。
 八月初日西郷村々から「作毛(作物の出来具合)川欠、砂入検分」の申立があったので、郡奉行岡麻之助、御目付落合喜左衛門、程島三郎 代官人見幸蔵 勘定役相山団司等が出張した。
 十一日出発して両石上、上下大貫、宇都野 金沢 下田野 関谷 折戸 横林 蟇沼 接骨木 南小屋などを巡検した。接骨木村は畑作水腐のため金三両、荏油三石、すなわち四分減となった。二十七日中郷筋を見分、九月三日会所に帰った。
 九月六日からは東郷山中村 寄合郷並びに中田原郷の内 川欠け見分のため出張し、九月二十五日から下郷、森田郷並びに椎貝村 稲毛田村 上延生村 八ケ代村の違作を巡検し龍谷沢開発、鴻野山村久保開懇を検分して十月□日佐久山を経て会所に帰ったと記されている。