第九節 大田原城下の大火災

621 ~ 633
 二十七代藩主飛騨守富清襲封の十一年後、万延二年(一八六一)(文久元年)二月四日夜八ツ時(午前二時)中町北側の農業兼湯屋渡世徳兵衛方湯釜から火を失した。時に北風烈しく、たちまち町の両側に燃えうつり、上町、中町、下町を焼き払い、表家数百八戸(下町三十八戸 中町四十五戸 上町二十五戸)裏家また数十戸に及び、翌五日卯上刻(午前六時)過ぎ鎮火した。
上は大手先から、下は薬師堂まで、表門並びに仁王門も焼失、全町の三分の二が烏有に帰した。文化四年(一八〇七)栃木屋出火以来の大火で、俗に銭湯屋火事という。
 焼失した人名は記録によると次の通りである。

銭湯屋火事焼失家名

 本陣並びに問屋場もまた罹災したので、道中奉行に宿継をもって火災の旨を屈けいで、なお今年参勤交代の奥州諸候の宿所に差し支えを来すので、仙台 会津 米沢 秋田 新庄 松前等十八諸候に本陣類焼の旨を屈け出た。
五日、は類焼の一町内から十人づつ人夫を出し、焼跡の片付をするうち、正九ツ時(正午頃)から大雪が降り出して、作業に難渋した、とある。
六日、には寺町の若林善兵衛が類焼者に白米五升づつを贈ったが、下町の岩井屋と緑屋、そのほか焼け残った六軒とはこれを辞退した。
八日、藩は玄米二斗宛を罹災者に賑給し、家主印形持参の上御蔵前で下付された。
十日、寺町大高松三郎は、銀一朱宛を各罹災者に見舞に贈った。城下大火の報が江戸邸に達したので、藩主富清は、幕府に御暇を請い四月七日江戸を発し、十日大田原城に入った。十四日五ツ時(午前八時)藩主は、用人阿久津三左衛門、小性頭阿久津庄五郎 町奉行金枝弥五左衛門等を従い、焼失の町々を見舞った。本陣印南重郎右衛門が羽織袴で御案内し、下町薬師堂を参詣してしばらく床机で休息の後、荒町 寺町 大久保町を巡視し、洞泉院で少憩の後、罹災者一同を玄関前に集め、町役人列坐の上、藩主が玄関に出て、左の言葉を賜わり、かつ御手許金百五十両を救恤した。
今度城下不慮の大火、且兼而申付置候警衛向心配廉々、具に申達 此節御暇願被下、普請取立方、精々世話向役人共江申付候。不世柄 乍難渋可也に渡世相励候迄の家作 早々取立出来候様、宿役人始頭立候者共 深切に差引、人数相揃普請成就専要に相心得、一統可出精候。

 終って町年寄印南重郎右衛門が進み出て、厚い御意を蒙り、有難くおそれ奉る旨を用人阿久津三右衛門まで申し出ると、用人はこれを藩主に言上した。なお用人はさらに次のように申し渡した。
御意仰出候通、不計も大火類焼の面々、場所柄奥羽諸候方御通行、近来箱館御用方多分の往返、御休泊差支、且兼て従公辺仰出之、浪人共横行御警衛向、右類焼にて御城下御手薄にも相成、旁々以て急々普請不取立候ては不相成 御取締向其外御自身御差図被遊度、段々仰達御役場御勤中にも有之処、御願の通、此節御暇被仰御帰城相成、夫々御沙汰の品も有之、今般御巡見被遊、不世柄諸色高値、難渋の折柄普請向莫大の物入、被御察、深く御痛被在、以思召、一統へ為御手当金子百五十両、御手元より被下候。難有相心得、宿役人始、小前一統厚申合、丹精を抽、早々家作出来、夫々の渡世相励、奉尊慮候様、専一可出精候。此旨可相心得候。

重郎右ヱ門は、御用人に対し、段々厚き被仰渡にて、一統恐入畏り奉る。其上存じよらず。御手当金頂戴被仰付、重々難有仕合存じ奉候旨を答え、御用人より之を藩主に言上す。町奉行は一同に向って、
今度被御巡見、只今以御意仰出、尚御用人中より、厚被仰渡筋、夫々奉恐入候御沙汰、此節都鄙一般の不世柄、諸色高値にて、銘々普請向、莫大の物入、難渋の儀、恐多くも深く被尊慮、出格御仁志の以思召、類焼の者一統へ、御時節柄にも有之処、不存寄、御手元より御手当金被下候段、一統深く難有相心得、家作早々取立候様、精々申合、成就方専要に可相心得候。

是に於て藩主一旦入御す。更に類焼を免がれたる他町の者を召出し、藩主再び出御して、前と同じ意味の言葉があり、町奉行からも前のような挨拶があった。
 藩主が入御してから御用人は類焼者の内家屋普請に着手した者に対して、
 此度類焼の処、直ちに家作普請とり懸り、心得宜敷、一段の事に候。猶此上家業出精可致候。
 と申し渡し、更に格式ある町役人は藩候の居間にて謁見を仰付けられた。
夕七ツ時になって、藩主は寺町を経て帰城した。この大火にあたり、大工などは賃銀値上げをしたので、廿八日藩吏は大工六人を召捕り、手錠を命じたが五月四日になって赦免された。
三月四日本陣居宅普請起工に付、鉄炮町山より下梁二丈六尺五寸、末口壱尺より八寸もの六挺、五日には、同下梁二丈六尺五寸、末口壱尺もの八挺下町手伝人足六十三人にて運び出し、また同日荷物蔵建前になり、十四日住宅棟上式を行い、六月十日伝馬会所、問屋場新築落成した。十二月七日本陣御殿普請に着手、十五日上棟式を行い、文久二年(一八六二)四月十四日新築落成、家老用人その外重役を招待して披露宴を催した。と記されている。
 正保より慶応三年に至る二百二十四年間に四十二回の火災をこうむっている。最も多い月は、二月で八回、次いで十一月の七回、一月の六回、三月の五回、九月の四回、五月、十二月の三回、十月の二回、四、六、八月の各一回、七月は皆無となっている。十一月より三月に起る火災の頻繁な原因は、この地方特有の西北風の強烈なこと、そして当時の家屋の構造や消防器具の不完全などによるものといえる。
 本領での火災の頻繁なことは言うに及ばず江戸上下藩邸の火災も、かなり多かったことが古書によって知れる。例えば、安永元年(一七七二)二月二十九日の藩邸類焼の際、「大俵、鼠に食われて半俵、火事に焼かれて灰俵」と落書きされたといわれた程である。
 こうしたことから本領はもち論のこと、江戸藩邸においても、御定法を定め、消防の組織・点検など、火災に対する警戒を厳重にした。また、閉門、逼塞、遠慮などの場合にも、次の事が定められていた。
 火事之節屋敷危キ程ニ候得ハ立退其段支配之方江申達候事自火ハ不及申近所より出火其屋敷内防候不苦候事と御定法に記されている。また、
御家中の面々と火事羽織之儀先年より御定法之合印付致着用候処中ニハ右合印何レ江付致着用哉相合リ兼候面々も有之哉ニ相聞候一躰右合印之儀ハ混雑之中ニテモ御家之者之相分リ候為之印ニ候ヘハ聢ニ不致様付候儀心得違之事ニ候己来右躰之面々ハ早速相直シ直ニ見分リ候様可相心得候事 但桃打合印も同様之事

と、火事羽織の目印の事なども記されている。
 記録によると、火災の際に士人の登城を規定している。
一、伊藤金右衛門殿前石橋より内
一、龍泉寺前橋より内
一、松本源五右衛門殿後の橋より内
一、寺町土橋より内
とあり、右は封域に接近する火災の起きたときは、直ちに登城すべきことを定めたものである。また、大田原宿出火のとき、駈けつけ消防に尽力すべき村方を定めている。
 大和久、刈切、川下、七軒町、山中、畑中、田中、原町、五倫塚、新道、南郷屋、石林。
の十二箇村は、会所に詰めること。
 荻ノ目、上深田、下深田、明宿、町島、堀米、小滝
の八箇村は、荷葉門に集まることにしている。
 また、領内各村焼失百戸に及ぶときは、幕府に届け出ることを定めている。
 六箇村に消防組があり、一町大低□人から□人によって組織され、器具は馬連、梯子、鳶口、また須又などを用いている。火災のときは城中より町奉行が騎馬に乗って同心を率い消防手を指揮する。消火作業は、土佐桶と称する水桶によって水をかけ、あるいは竹篭に紙を張り玉墨を塗り、その上に渋を引いたものを用いていた。このため大火の場合は、到底消火の用には至らなかった。多くは酒もしくは、醤油醸造者の雇人が、手に手に溜桶と称するものを携えて出で、消防に尽力することが、唯一の頼りとなっていた。冬季における西北風の吹く最中では、延焼範囲も拡大でその惨状は筆舌の外である。
 毎年十一月十五日、宗門改メ終了の後、消防夫は本陣前に集まり、町奉行これを点検しさらには町中を巡視して、火災・盗賊などについての警戒を厳重にしたとある。
また、城下出火の節は、遠近にかかわらず御用番、月番、御用人は直ちに登城すべき事、四ツ御門内出火の節は御用所席悉く登城すべき事、但し四ツ御門外出火も大火の模様あらば登城すべき事。

 町出火の節、大火に及ぶについては、場所より悉く登城すべき事。
 安政七年(一七七八)九月
 また、諸家文書の天明三年(一七八三)九月十日の条に、晩より村巡り夜四ツ(十時)より七ツ(午前四時)まで四時、四人宛初むる。とあるように、防火について種々の施策がうかがえる。
●不山詠存公年回法要の条
 追善法要厳修中、特に火元に注意を命じ、火番役掛横山極人、小川源左衛門、隔日に昼夜二回城下を巡視し、鉄棒曵は、町中を廻り町役人二人触口を伴ない、並びに各町火消世話人は、昼夜とも巡廻して警戒した。
●元治元年(一八六四)正月五日、城主参勤につき諸事火之元を慎しむべ旨を達せらる。
●文久元年(一八六一)十月の条に、
 藩主富清。江戸参勤中、城下焼失につき賜暇帰城す。
 など、重要な行事や江戸上府中の火之元について心していることがわかる。また、参勤交代中にもかかわらず、将軍家に暇乞いをして帰城する様子もうかがえる。
 火災について、川上文書、印南文書などによって列記するならば、次のとおりである。
 
正保二年(一六四五)二月
 下町川上正利隣家より出火。
承応三年(一六五四)三月十四日
 夜、上町北側裏家より火を失し、時に北風烈しく忽にして中町より下町に延焼し、新道菖蒲沢通りに至りて鎮火せり。
寛文五年(一六六五)二月
 薬師堂火災にかかる。
元文元年(一七三六)二月十七日
 夜、中町庄左衛門宅より出火し、士家尽く類焼し、城中西厩も災に罹る。東は山中、七軒町まで、北は土橋慈眼院観音まで、南は菖蒲沢普門院、西は印南十郎右衛門醤油蔵、長家まで延焼す。この類焼は新道、横町、根小屋、清水町、菖蒲沢、御小人町、根古屋、山中、七軒町、寺町、上町、中町、下町という。
元文元年(一七三六)六月二十三日
 藤沢遊行上人二月十七日末寺不退寺類焼にかかりたるをもって、寺域を新道に賜いし礼書を寺社奉行に呈す。
寛延三年(一七五〇)
 上町より火を失し、五十九戸焼く。
宝暦七年(一七五七)九月十七日
 夜八ツ時(午前二時)荒町孫右エ門(正法寺裏二軒目)方より出火、上町、中町、下町薬師堂烏有となる。火は新道に及び不退寺を焼き、新道橋側の水車二棟を焼き払う。寺町は曲り角まで類焼す。十八日暁方鎮火す。(川上文書)
宝暦九年(一七五九)八月九日
 八ツ時、下町喜右衛門方より失火す。中町南側は問屋重郎右衛門、北側は綿屋三左衛門隣りまで、下町は北側は藤屋門右衛門隣りまで、南側は馬喰渡世弥右衛門隣りまで、およそ三十四・五間焼失す。本家数四十六軒なりしという。
安永二年(一七七三)三月二十六日
 晩五ツ時(午後八時)に龍泉寺出火有之候
安永二年三月二十七日
 晩五ツ時、中田原観音出火
安永七年(一七七九)正月十六日
 夜八ツ時(午前二時)、中町沢屋藤蔵、丁字屋茂左衛門境より出火、南は上町彦兵衛、北は鳥屋三郎左衛門まで、下町北は糀屋(こうじや)利左衛門、南はゑびすやまで類焼し、朝六ツ時(午前六時)鎮火す。町奉行平井儀助、出火の原因を調査せしが、藤蔵、茂左衛門火元を争い、両人とも入牢を命ぜらる。
安永七年九月十五日
 夜九ツ時(十二時)、中町菓子商佐貫屋より失火、下町は北側扇屋義兵衛、下側は本陣に至る。上町は南正法寺門前、北は丸屋惣右工門宅に至り、八ツ時鎮火す。
安永九年(一七八〇)五月朔日
 夜明七ツ時(午前四時)、寺町湯屋より失火し、上町は岡本覚右衛門表店にてとまり、南側は肴屋孫右衛門宅、東隣りは利左衛門宅まで、寺町は大部分焼失す。永楽屋藤兵衛、あめや忠兵衛宅まで類焼。六ツ時漸く鎮火す表家数六十五軒なり。
天明元年(一七八一)閏五月三日
 晩九ツ半時(午前一時)出火。観音堂迄焼失せり。(諸家文書―大乗院出火之事)
天明四年(一七八四)正月二十二日
 夜九ツ半時、内山段之進宅より出火。
寛政十一年(一七九九)正月十日
 光真寺山大野火にて、三箇寺梵鐘を敲きて急報す。時の鐘も同様なり。
寛政十一年正月二十二日
 温泉神社東の原附近より野火起る。北風強く〓境まで延焼す。山奉行横山弥平、寺社奉行杉江求馬、寺町人足十人を率いて大宮司宅に屯集す。
文政元年(一八一八)二月四日
 夜正八ツ時(午前二時)頃、中町洗湯屋徳兵衛湯釜から失火。折り柄、北風烈しく直ちに下町並びに上町に延焼し、表家数百八戸類焼、裏家また数十戸におよび、以来大火にして俗にこれを洗湯屋火事という。五日、一町より十人の者出て、灰片付けをなす。
文政元年四月六日
 昼九ツ時(正午)、荒町稲荷林車屋焼失す
文政元年九月三日
 夜四ツ時(午後十時)過ぎ、下□町庄屋より失火、四軒焼く。
文政二年(一八一九)十一月九日
 昼四ツ半時(午前十時)、元町秋元平馬より失火。
文政二年十一月十八日
 夜四ツ半時、印南昇之進宅失火。
文政三年(一八二〇)十一月二十八日
 夜、上町栃木屋より出火。
文政八年(一八二五)二月二日
 光真寺裏山より野火おこり、光真寺本堂並びに庫裏を焼き、火は一面に焼えひろがり、町の大半を焼きつくし、大田原城ことごとく焼失する。藩主愛清は参勤中であったので幕府に賜暇を願い出で急いで帰城する(幕府に提出した届書によると本丸、二の丸、三の丸ともすべて焼失したようである。)
文政十一年(一八二八)二月十九日
 夜、不退寺前明き家より出火し、新道西側通り十軒余類焼にかかる。
天保五年(一八三四)九月二十九日
 昼七ツ半時分(午後五時)、下町鱗屋利七郎方酒造糀室(こうじむろ)より出火。板庫壱棟、酒桶六尺弐本、五尺二十本、新酒四十五本を焼失す。この損害高金二百両と注せらる。
天保六年(一八三五)二月四日
 新田町善六方より出火。六軒類焼す。
天保六年三月八日
 九ツ時(十二時)、元町波三郎方より火を失。折り柄南風強烈にして家中三十八軒、菖蒲沢門、会所等を焼き払い、大久保門に出で大久保町半焼し、上町は大手角肴問屋まで、上町角は亀次郎宅まで、荒町は全焼、上町は西角清水屋まで、寺町全部、光真寺門前全焼、惣家数二百余軒、善性庵、洞泉院、慈眼院、上性院、寺町牢屋、明照寺、光真寺庫裏・表山門等焼失。暮六ツ時(午後六時)に至りて鎮火す。
天保十三年(一八四二)十一月二十二日
 暮時過ぎ、光真寺山より野火起り、寺の鐘をつく、町消火夫駈けつけ消し止む。出役阿久津丈右衛門なり。(寅日記)
天保十五年(一八四四)十二月十一日
 暁七ツ時(午前四時)、荒町鈴木屋裏木挽小屋より出火。西風烈しく洞泉院および門前長屋を焼き払い、西北風に変ぜしかハ忽ち上町北側に移り、田代明地までで止まる。寺町は山本屋まで、鐘楼の近傍は全部焼け、郭内は会所、菖蒲沢門外三十二軒類焼。十二日鎮火せり。(川上文書)
嘉永五年(一八五二)十二月二十五日
 大雪。暁七ツ時、印南民之助両家焼失。
安政五年(一八五八)十二月二十七日
 夜九ツ時(午前〇時)過ぎ、中町市川屋甚蔵所有の新田町長家より失火八軒焼失し、西側の藩御用組長家四軒も亦類焼せしかバ、甚蔵押し込み三日に処せらる。
安政六年(一八五九)十一月二十八日
 昼八ツ時(午後二時)分より、三ノ丸下男部屋焼失す。町一同のもの消防に尽せしをもって、辨当米として壱人につき米二合づつ、下附せらる。
文久元年(一八六一)二月四日
 藩主富清。江戸参勤中、城下焼失につき、賜暇帰城す。(銭湯屋火事という)
文久三年(一八六三)正月三日
夜九ツ時(午前〇時)、野村若衛宅より失火全焼す。御預り鉄炮を焼失すという。
文久三年十一月十七日
 夜五ツ時分(午後八時)、荒町ゑびすや儀重両家焼失す。
元治元年(一八六四)三月十二日
 朝六ツ時(午前六時)、上町田代屋忠吾宅より出火せしが、近傍の人駈け集まり、大事に至らずして消し止む。
元治元年十月二日
 夜、新道鉄炮場焼失。
元治元年十一月十三日
 夜四ツ時(午後十時)、内山伊蔵宅より火を失す。
慶応二年(一八六六)正月十八日
 暁六ツ時、三ノ丸御殿出火。二十日片付け人足全町より片側づつ出づ。
慶応三年(一八六七)十月四日
 夜正八ツ時(午前二時)、荒町佐野屋焼失す。