大宝年中(七〇一~七〇三)
慶信というもの出雲杵築大社より前室村に勧請す。八雲神社と称す。
弘治元年(一五五五)
前室村居住のものに屋敷地を賜い、城の外廓八町の外に移さしむ。川上正利、南宿奥州道添福原郷通道西に移る。後にここを徒士町という。
天正十八年(一五九〇)三月
西野原南室に愛宕権現を勧請し、鉄炮町五里塚二十間村并に惣足軽組の鎮守神となす。
天正十八年八月
小館村大行院慶純に宅地を寺町に賜い、下町池ノ中島愛宕権現守護を命ぜらる。
寛永二年(一六二五)六月
天王社を中町に遷座し、町内疫病除として奉祀す。社はもと前室村の鎮守にして、前室庵にて管理し後、大行院の支配となり、天文中(一五三二~一五五四)明照寺に移せり。
寛永十六年(一六三九)
大久保山上に勧請せる愛宕権現を下町愛宕山の旧跡に分祀遷座す。愛宕権現は建武年中(一三三四~一三三五)前室村に奉祠すると伝うるも明らかならず。文明年中(一四六九~一四八六)に再建せしを、寛永十六年大久保に移宅。ここに至りて総町より火除の鎮守として、出願したるを許可せり。(川上文書)
寛永十六年十二月
光真寺に寺領三百石を賜う。
承応二年(一六五二)二月上旬
大田原の間に赤白の気を現ず、そのまま旗の如し、赤気は早く消失す。(尾張記、水戸記)
延宝二年(一六七四)九月十一日
藩主高清、愛宕大権現に永楽三百文の田地を寄進す。
延宝八年(一六八〇)四月
この年、薬師堂を再建す。四月薬師堂入仏開帳を行なう。
元禄四年(一六九一)二月二十一日
中田原山之内温泉社地形にて、在方人足七十人差出す。同六年(一六九三)四月、温泉宮社遷宮。
元禄九年(一六九六)六月
阿久津宗晟、印南与惣左衛門、薬師堂仏殿を修造して之を寄進す。作者太田与太夫、小山田平兵衛、小林半十郎なり。(同堂棟札)
元禄十年(一六九七)九月二十四日
藩庁猪股左五兵衛をして令す。「自今愛宕権現社は鉄炮町村の内、堅十九間余、横十八間余を社地とす」と。
宝永三年(一七〇六)五月二十四日
三月より大旱魃にて領民大いに苦しむ、水乞いを地蔵院に命ず。因って五月二十四日沼ノ袋において祈祷せしむに奇瑞あり、ここを堀りしに清水湧き出せり。其の地に水神を祀り、毎年三月十一日を以って、祭典を執行す。
(印南文書)
宝永四年(一七〇七)十一月
龍泉寺を普請す。奉行内山平次郎、平野源五右エ門。
享保十二年(一七二七)一月十六日
城下龍泉寺主衰老により後住宥精をして、寺務を董せんことを願い出づ。二十日藩主之を允許す。
享保十八年(一七三三)四月
両郷筋違作につき虫払御祈祷を龍泉寺並びに佐藤中務に命ず。龍泉寺は五箇寺と一七日仁王経修行。佐藤中務は五日間五千度の祓を行なう。
享保二十年(一七三五)九月二十日
下町獅子頭三箇、温泉神社奉納を仰付、自今入用の節は大宮司に願い出で、受取ることとなり、町年寄印南十郎右衛門、岡本文四郎、田代瀬左衛門より一札証書、佐藤市正に差し出す。
元文三年(一七三八)三月二十三日
時鐘楼を新道三六水車の近傍に再建することとなり、竣成まで下町吉祥院に移して時を報ぜしむ。
延享三年(一七五〇)十一月二十三日
幕吏御用鷹、大田原城下を通行するによりて、内山三郎兵衛火の番役を命ぜらる。
宝暦元年(一七五一)七月二十日
小堀恕休妻某、石地蔵尊一基を不退寺に建つ。
宝暦七年(一七五七)
五月から八月まで雨ふりつづき、蛇尾川大洪水となり米麦不作す。
宝暦九年(一七五九)二月
相続無尽講というものを領内に勧む。役所御用聞神山三郎左衛門、祖母井村武右衛門等世話人となり、九日中町綿屋三左衛門宅に於て、藩より代官岡文右衛門を派遣し、荒井村外十八箇村のものを召喚して、之を勧説せしめしかバ、議遂に熟し三月二十五日、初会を三左衛門宅に開き、木瓜屋清兵衛、巴屋利右衛門世話役となり、壱口の掛金を弐分となす。或は六人にて壱口となし(壱人分三百六十四文)或は三十四人にて壱口となす(壱人六十三文)当時銭相場は、金壱分には銭壱貫百文なりしという。
宝暦十一年(一七六一)十一月
龍泉寺主宥泉地蔵尊を蛇尾川畔に建つ。俗に之を飴地蔵と呼ぶ。
宝暦十四年(一七六四)三月二十七日
時報鐘を字刈切伊豆屋舗に於て改鋳せしが鋳爐破損し、四月三日竣工せり。奉行大町満長、田部貞義にして、鋳師は佐野住大田甚左衛門、世話人小薬村塚原長右衛門、小島九右衛門なり。同時に光真寺の梵鐘を鋳造す。
明和四年(一七六七)
城主友清、温泉神社に神鈴を奉納す。
明和八年(一七六七)正月八日
昼項より大風吹きいでし、七ツ時(午後四時)に至りて歇む。諸処家屋倒潰するもの多し。
明和八年五月
早魃にて灌漑の水乏し、領内上下石上、上大貫村民と幕領土屋、山田三カ村并に福原領沢、稗田、川戸、曽根田六カ村と箒川分水につき紛議を生ず。十七日藩郡奉行江連善吾、代官相山直右衛門を遣し、幕府代官飯塚伊兵衛、手代伊藤台八、福原郡奉行伊藤庄兵衛、代官阿久津武右衛門等と会見し、実地検分の上、談判を試みれど二十一日に至りてなお決せず。
明和八年七月
連日大いに雨ふる。諸水氾濫し、荒町上町の路上に甚し、石林村伝右衛門宅前より、かふてよる川に水を疏通して水勢を減ず。
安永二年(一七七三)三月二十六日
夜、龍泉寺焼失。
安永六年(一七七七)五月二十五日
二十五日より連日降雨、六月二日夜四ツ時笹沼村脇蛇尾川堤防決潰し、西遅沢村、槻沢村大洪水となる。
天明四年(一七八四)閏正月六日
夜領内上郷中郷下郷七十三カ村の民、連年凶作にて米価騰貴し、大田原宿米穀商等が在穀を隠蔽して高値に売却し、不当な利益を得んとするを悪み、近郷のものは寺町吉田屋甚左衛門宅を襲いて破壊せし後、上郷の襲い来りて下町利左衛門、寺町佐七、荒町次右衛門材木屋越後仙右衛門、同本役庄助の六軒を破壊す。
寛政二年(一七九〇)正月二十九日
二十九日より大風吹き荒れ、村々家屋倒壤す。二月十日より庸清領内巡察すべき処、大風のため中止となる。
寛政二年十一月朔日
相撲を石林村に催す。これ同村観音堂建立せしを以ってなり。土俵は大田原境松の上方にて文助所有茅場を充つ、千秋楽の後四本柱を病難除として町境に建てしに、町役人は一応の沙汰なしに建てしは、不届きなりとて取り払いを交渉す。十二月十六日上町染や隠居伝右衛門、同町文右衛門と石林六右衛門と外に角左衛門、名主助右衛門立合の上、事件漸く解決せり。
寛政五年(一七九三)正月七日
八ツ時過ぎより大地震にて、夜中まで大小四十余度震動す。
寛政六年(一七九四)四月八日
薬師堂再建入仏供養を行なう。これより先、元年(一七八九)二月二十五日工を起し、四カ年を経てこの歳に至りて入仏せしなり。
寛政十二年(一八〇〇)八月
雨降り歇まず。惣町より雨止み祈祷を温泉神社にて行なう。二十二日より二十四日迄、三日二夜修行せしが、九月に至りても尚やまず。寺社奉行平井儀介三日間の祈祷を命ず。この時、隣村社家のうち井口加賀、遅沢造岡の両人不来に付き、奉行より廻状を差し出したるも、なお不参につき、両人三日間押篭になせる。
寛政十二年十月十一日
江戸角力を明照寺境内に挙行。大世話人小薬村伝兵衛、大田原白子屋多七も世話をなす晴天五日間なり。
文政三年(一八二〇)
此年秋より冬に至り、瘡痘大いに流行す。
文政五年(一八二二)十月
門暁和尚、不退寺境内に三十三所観音堂を建立す。
文政八年(一八二五)七月
正法寺境内に於て、駱駝二匹の見世物あり見物人多し。
天保四年(一八三三)四月
中田原温泉神社随身門建立につき、下町より土突き人夫六十人を寄附す。各町よりも人夫を寄附せり。
天保四年十二月二十三日
二十三日夜より二十四日まで、大風雪にて積ること三尺、五・六尺にも及ぶ処あり、二十六日まで牛馬通行歇む。
天保七年(一八三六)六月
三伏前より天候異常、雨降りつづき七月十八日朝南風強く大雨降り来り、田畑作物被害多く、民家倒潰し人気穏かならず、干蘭盆前は金壱分に付き米壱斗七升せしが、風水害以後は、漸次騰貴し十一月頃より五升、又は五升五合となり、窮民多くなりしを以って壱人につき三合づつ価を安くして救米を払下ぐ、天明以後の凶作と称せらる。
天保十三年(一八四二)四月
幕府厳令して絹布類の着用を禁ず。藩主また令を下し、絹布類の所持を禁ず。諸人或は安価に売却し、或は入質するもの多し。
天保十三年十一月六日
森田郷領分の百姓大勢のもの、城下に集合する報あり大手、新道口にも小頭一人、足軽五人を派し、重立のもの三人を代官役に伴ない、他八町宿に差控せしむ。
弘化三年(一八四六)七月二十八日
城主愛清、荻野目原に出で烟花を観る、筒口九寸七寸五寸の三種なり。二十九日西高根沢村宇津権右衛門、煙火を献ず。城主また出でて之を観る。見物人多し(川上文書)。
嘉永二年(一八四九)二月中
藩掛り役江連幸三郎をして領内一戸につき桐三本を植えしむ。三月二十八日、町内一統新道辨天堂向の藩用地に桐苗百二十五本を植付く、此の費用壱両弐分なり。
嘉永二年四月
藩吉祥院に令して境内薬師如来夢想の湯と称するものを取り払わしむ。去年十月中吉祥院四十世観了法師の創むる所なり。
嘉永三年(一八五〇)五月三日
夏中諸士足袋を穿くことは、従来許されおりしが、嘉永三年五月評議の上、脚部冷症のものに限り、四月朔日前に届出て、これを許すこととせり。
嘉永五年(一八五二)二月十六日
藩令して毎戸宅地畑に楮十本を植付け、五本は官に納めしむ。掛り役羽柴重太夫なり。
嘉永六年(一八五三)十二月二日
五ツ時地震、三日朝六ツ時半頃地震、六日四ツ時地震。(猪狩日記)
嘉永六年十二月十三日
昨夜より大風吹き通し、積雪一尺四・五寸に及ぶ。御用方巴屋に出張、日光道中薄葉村迄雪踏人夫を上町より出す。又、佐久山道奥州街道共に道分け人夫に当る。珍らしき事に候(猪狩日記)。
万延元年(一八六〇)二月
江戸より箱館に下るロシヤ人コンシエル外四名が、大田原本陣問屋に泊ることになった。異国人が泊るなどということは初めてのことなので、彼等をどう取扱ってよいか判らないそこで藩では大田原より先に泊る宇都宮宿に問い合わせた結果、宇都宮の青山又兵衛よりの詳細な通報があったので、大田原でもその例にならって、次のように取り扱ったと云う。
一、御代官上下三人、足軽四人取締のため領地境まで出向いて町方入口まで随行すること。
一、御物頭上下五人、足軽八人町入口より本陣まで取締の上出向いること。
一、火の番の者上下十一人、取締のため薬師前出張のこと。
一、木戸木戸に〆切り、足軽一人づつ番のこと。
一、町御奉行上下九人、上下着用して取締のため本陣前に出張のこと。
一、町奉行火の番衆、本陣着より出発まで宿に控えて取締りのため詰め切のこと。
一、翌日出発の際は、大手前の固めとして町奉行出張のこと。
一、門前横町は徒目付、足軽一人位づつ連れて固めること。
一、翌日御代官領地境まで出張のこと。
一、御徒目付上下三人、足軽四人ロシヤ人に附添って領地境まで取締見送ること。
一、足軽二人、着出発共先払のこと。
一、夜は高張提灯五・六張づつかかげること。
一、本陣座敷縁台へは毛氈六枚用意のこと。
一、火鉢は普通より多く用意すること。
一、ロシヤ人賄のことは一切差しかまえなし先方より要求があった用品を差し出すこと。
一、町方の湯屋、近郷より鉄炮持込は着より出発まで差留めること。
一、本陣の見廻りは厳重に申付ること。
一、宿内のことも同じ。
〆 外国奉行同格位ヲロシヤ人
官名コンシェル・コビキビツ 年四十四歳
女房名 エリサビットウ 年四十歳
医師家内名 イシリヤ 年三十位
下女 ヲリカ 年十七・八
忰 ワジル 年十二半
とある。
万延元年七月二十四日
四ツ時より大風雨。
文久二年(一八六二)三月十九日
大風各処家根破損す。
文久二年八月
痳瘡流行。
文久三年(一八六三)正月十四日
大風
文久三年二月八日
大雨雪
元治元年(一八六四)三月十三日
吉祥院境内に花角力を催す。
元治元年七月十五日
獅子城鍬挙行せしが、金沢村の者大手先に於て町内に挨拶せざりしより紛議を生じたり。
慶応元年(一八六五)五月四日
四日より正法寺に駱駝壱匹並びに鳥類見世物を興行し、八日龍泉寺に於て城主の観覧に供う。
慶応元年五月十八日
十八日より二十二日まで吉祥院境内に芝居を興行す。古老いわく田植中の芝居は往古より聞伝えこれなしと。近村より見物人更になく損害を招きしという。二十三日上覧芝居を龍泉寺に興行す。
慶応元年閏五月四日
雨天の為め西街道八木沢入口まで大悪路となりしかバ、壱町内より拾人づつ合計六十人修繕に出で道斎橋下の土橋をかけかえをなす掛役人見幸蔵より荻ノ目より用材弐間半のもの六本を伐り出す。
慶応元年九月四日
吉祥院境内に相撲を催す。
慶応元年九月十四日
正法寺境内にて虎の見世物興行あり。十八日に至り藩主この虎を龍泉寺に出御上覧に供す。
慶応元年十月十二日
問屋場前に火の見櫓を建つ。総町より人足六十人にて槻沢金右衛門山にて材料の杉丸太二本を二分三朱にて買う。
慶応二年(一八六六)二月
疱瘡大流行。正月十日頃より二月二十三日迄、下町にて小児十四人病死、新田町にては十人病死す。
慶応二年七月二日
大雨のため蛇尾川大増水、橋梁流失せり。
慶応二年八月七日
夜暁八ツ時(午前二時)より南風烈しく大雨降り、八日昼七ツ時歇む。田畑作損害多し米穀騰貴す。
慶応三年(一八六七)八月六日
不退寺境内に角力を催す。同十一日吉祥院境内に角力を催す。