第一節 呪いの板岳姫

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 佐久山公民館の西側の庭にある日(昭和四十九年九月十九日)ポッカリと穴があいた。中をのぞいて見ると古井戸で深さは約五メートルばかり、直径一・五メートル程の石積の井戸である。この古井戸について佐久山の人達は丁度ここが旧佐久山町役場の宿直室の下で宿直の夜は人のうなり声が聞えたとか、障子やふすまを開く音がしたとか、あるいは梯子段の下なので階段を上り下りする足音が聞えたとか、いろいろと噂があったものである。
 この古井戸について故大島融太郎氏はその著愛郷炉談の中で次のように記している。
……前略
 この福原氏の十四代の城主資盛公に板岳と呼ばれる息女があって、芳紀十六歳で大兵女しかも大力でその上容貌がみにくゝ、その乱暴にはほとほと困ってしまったのですが、却って父上の寵愛を一身にあつめて、その増長振りにはだれ一人として心よく思う者はなかった。
 姫の行状には全く困った、との嘆声が家臣の間に高くなればなる程姫の乱行は募るばかりで、その増悪反感は遂に恐ろしいたくらみがめぐらされた。
 今佐久山町役場のある所は昔安楽寺という寺の境内でした。「姫を亡きものに」「安楽寺の井戸に突き落して石詰に」と恐ろしいたくらみがあろうとも知らぬ姫は、春のうららかな一日、伴女二人を連れて安楽寺に御詣りに出掛けた。
 「お姫様、あの井戸の中には深山魚がおりますよ、御覧遊ばせ。」
 と一人がいえば、他の一人も、
 「ほんにきれいな魚だそうです」と誘いかけて引き連れた。それとも知らずのぞきこんだ姫を矢庭に井戸の中に突き落し合図と共に、おどり出た家臣らのため、遂に石詰めとなって、あえない最期を遂げた。
 それから佐久山には怪変の絶え間がなく、死霊板岳姫の怨霊のたたりだと、だれからともなく言いふらして、城下の人々は安らかならぬ日を送っていたので、遂に延宝七年(二百七十年前)奉行菊地五郎兵衛高能、阿久津伊太夫重良、八木沢佐太衛重元外数名が施主となり、姫の怨霊をやわらげて、冥福を祈るため梵鍾を鋳造した。昭和十九年まで長宗寺鐘楼から雨の日も風の日も打ち出された。あの時の鐘こそ、その供養の梵鐘なのである。
 真偽はいざ知らず、伝えられる所によると板岳姫が石詰めにされた井戸跡は役場の梯子段のある所だと言われている。
 鐘を鋳造する時、御供養のためとて、小判重箱一杯(中城先祖)家中の者、士農工商の別なく、小判角判(銀)あるいは金銀のかんざし、その他をよう鉄の中に投げ入れたそうで、そのため稀な美音だといゝます。
 昭和十九年国のために供出したので、今はその音を聞くこともできず、かえすがえすも残念である。
……以下略

 以上が大島融太郎氏が愛郷炉談の中でのべている長宗寺の梵鐘にまつわる伝説である。
 この伝説をとく鍵として長宗寺梵鐘の鐘銘がある。この鐘銘は幸にも那須町伊王野の考古学者(専称寺住職)渡辺龍瑞先生が昭和十九年頃各地の梵鐘の鐘銘等を丹念に調査し、供出に先だって書き残しておいてくれたものである。以下これをしるす。
 
 佐久山 旧長宗寺鐘
  (渡辺龍瑞著 那須郡金工品の調査)
廃寺後時鐘となり、戦中に及ぶ。口径二尺六寸五分、総高五尺、内龍頭高さ一尺二寸(張り一尺)笠形三寸五分、鐘身三尺二寸五分、駒之爪二寸、口唇厚さ二寸六分、下端から撞座までの高さ八寸一分、乳五段五列、刻銘は二区にわたり、他の二区には丸に三星文が壱個宛陽鋳されていた。

 延宝七年の作、銘文次の通り、
  危万物宥時有成哉運〓寒暑昼夜短長
夫下野国那須郡佐久山長宗寺領主普傅之〓所而庄薗鎮護之霊地也〓大檀那藤姓福原氏資清公鍾愛女息年始九歳蓉貊美徳儀濃可謂惣恵明達生知仁人〓〓毒蛇闘身城五薀悪鬼乱心府洗胃名医術共験返魂妙香焚無益遂乃延宝七南呂廿七日荷露怱瀉下霜〓虚皈根嗚呼悲哉天性悲易感鍾愛哀難抑親族共而歎雲漏胸悲雨〓面就中同姓祖父資盛公怳惚而慟忙而哭唹嗟雖晨夕悲歎日夜哀傷更無益亡魂鋳鐘以済亡児焭霛善哉善哉梵鐘功徳旡辺也善中之善福中之福一響脱六情苦二振銷四生悲故仏閣重器而為僧坊腰具則雇治工鋳焉

  妙信童女一百日而始打一打鐘〓当願衆生脱三界苦得見菩提
  聲徹冥衢脱戹響〓郷里愕長眠伏乞廻善施主家門
  之繁栄永流後裔〓薗豊〓而更無灾殃恐年重代久
  而不知後人故為銘曰
 
  野劦那須 佐久山裏 蜜〓道場 長宗之寺 檀那〓薗 鎮護霊地 巨鐘亟成 辰昏法食
  響徹三千 益及万類 冥府脱難 隣里驚睡 罽危歓然 靡難戹悸 廻此勝善 沙界普利
 
 願主大檀那
  藤原朝臣福原淡路守資盛斎名号岩久
    法諱称岳崇院隆山盛興居士
                       奉行       菊地五郎兵衛尚能
     同                       阿久津伊太夫重良
     治工               佐野天命住人野村忠兵衛藤原信勝
     同                       同 惣兵衛藤原勝重
     筆者                      宝徳院住沙門雄傅
 当寺十四世傅燈大阿闍梨法印延雄謹而撰
      推鐘初  八木沢太左衛門重元
 干時延宝七巳未年仲冬大吉祥日
 
 以上が旧長宗寺の鐘銘であるが、愛郷炉談の板岳姫供養のための鋳造とは大変違うようで、福原家十八代の藩主内匠資清の愛娘すなわち淡路資盛の愛孫、法名、妙信童女(九歳)の供養のために鋳造したものである。
 なおこの妙信童女は佐久山実相院の過去帳には、
     延宝七己未八月甘七日
     得生院妙信禅童女
         福原内匠資清公娘
 とあり、この童女の没年は延宝七年南呂廿七日の鐘名と一致する。「資清公鍾愛女息年始九歳蓉貊美徳儀濃」な可愛いお姫さんが、どうして「芳紀十六歳の大力の大女、しかも容貌みにくい乱暴な女」にかわってしまったか。また、「〓哭毒蛇闘身城五薀悪鬼乱心府洗胃名医術共験返魂妙香焚無益遂乃延宝七年南呂廿七日荷露忽瀉下霜〓虚皈根」こんなに苦しんでなくなったお姫さんの死が、「それとも知らず姫を井戸端まで連れて行き、二人の伴女が姫をつき落し、家臣がこれを石詰めにした」に変ってしまったか。
 この長宗寺の鐘銘を読みながら、伝説とは面白いものであることを、しみじみと思う。