第二節 佐久山実相院の大高源五忠雄の墓

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「佐久山の実相院に四十七士で有名な、大高源五の墓がある。」
「実相院の位牌堂には大高源五の位牌もあるぞ、現に自分もみて来ている。」
「大高源五は仇討の後は切復はしないで、佐久山に逃げて来てかくれていたが、後になって佐久山の殿様に仕えて佐久山に住むようになったのが大高屋敷である。」(ある識者)
 町の人達の噂はまことに勝手なものである。自分勝手な憶測をし、自分の話の都合のよいように結論づけて、話を楽しんでいる。これが普通である。
 佐久山下町に大高屋敷はある。旧福原家の屋敷町の一部で、現在は畑であったり、他人の宅地であったり。
「明治維新の頃は大高新三という人がいて、この人のところには斎藤喜一氏の家から嫁にいっているはずだ。」
「大高新三の位牌は私の家で預っている。新三の妻は祖父の妹であるとの話である。新三の孫の盛は佐久山小学校の六年の時になくなっている。私のよい遊び友達だった。」(斎藤喜一氏談)
「実相院の大高家の墓は佐久山の大高家のもので、赤穂義士の大高源五の墓もあの中にあるということは聞いたが、調べてみたことはない。」(斎藤喜一氏談)
 実相院を訪れ、過去帳、位牌などをみせて載く、(写真4)

写真4 上二枚、佐久山実相院の過去帳にある、
大高源五、小野寺重三、及び源五の母の戒名


 左、同寺の位牌

  元禄十六癸未二月四日
      刃無一剣信士(大高源五)
  元禄十六癸未二月四日
      刃風颯剣信士(小野寺幸右衛門)
  元禄十六癸未九月二十五日
      松林院心与貞立大姉
      (大高源五、小野寺幸右衛門母)
 またこの人達の位牌もある。
 大高家墓地には、正面に
  高徳院明清居士(大高新三忠順)
    明治二十八年九月十五日
  高室貴明清大姉(新三の妻)
    (歿年不明)
 すなわち新三忠順夫妻のものが、はっきりとわかるだけで、その他のものは苔がむし、蔦がからまり、読みとれるものはほとんどない。
「大高源五と佐久山とどんな関係があるのか。」
「佐久山の大高家と赤穂の大高家とは、どこで結びつくのだろう。
 こんなことを考えているうちに、赤穂の城主浅野家は、かつて常陸笠間の城主であったことに気付いたのである。(浅野直矩の祖父浅野長直は笠間から赤穂に所替えした。)
佐久山と浅野家とが大変近くはなったが、それから後は大高家の系譜によらなければ解決することのできない問題なので、そのまゝの形で機会を待った。
「斎藤半蔵著、大高家家伝集」なる著書をみる幸機に恵まれ、その大要を知ることができたので、紹介する。
一、大高家系譜の一部(佐久山大高家)



二、秋田帯刀忠宗 略伝
 ○祖父及び父は常陸国宍戸城主、秋田城之助に仕える。
 ○寛永八年(一六三一)宍戸を浪人
 ○祖父、父とも会津城主加藤式部に仕える。
 ○祖父老死、父二本松で病死。
 ○十三才、常陸笠間留谷村の百姓加倉井久蔵の養子となる。
 ○十四才、笠間城主浅野長直に仕える。(子小姓)
 ○十六才、継父久蔵病死のため、弟にあとをゆずり留谷村に帰る。
 ○十九才、浅野長直公赤穂へ所替、弟右馬助は主君と共に赤穂へ転居。
 ○二十三才、江戸で医術を勉学。
 ○二十七才、承応元年(一六五二)佐久山城主福原淡路守資盛に仕える。(医者)
 
三、大高伝六郎忠知 略伝
 ○幼名を五郎七、初名を半五兵衛
 ○福原家に仕え、大目付 禄二十石
  (福原家元禄年中家中人名帳)
   代々半五兵衛のようである。(半五兵衛忠重か)
         (佐久山 吉田英夫氏蔵)
 ○延享四丁卯年四月二十四日歿
     号 不障心友信士
 
四、大高兵左衛門忠晴(浅野家)略伝
 ○幼名を右馬助
 ○浅野家に仕え、知行二百石(始めは子小姓)
 ○延宝四丙辰年四月三日歿
     号 茂林了景信士、四十八才
 ○妻は家中小野寺十太夫の娘
   元禄十六年九月二十五日歿
     号 松林院心与貞立大姉
  (大高源五、小野寺幸右衛門の母であり実相院に源五と並んで位牌がある。)
 
 ○大高源五忠雄
   父の跡式拝領
   元禄十六癸未二月四日歿
     号 刃無一剣信士
     (過去帳、位牌共にあり)
 
 ○小野寺幸右衛門秀富、重三ともいう。
   小野重内(十内)の養子となる。
   (母の生家)
   元禄十六癸未二月四日歿
     号 刃風颯剣信士
     (過去帳あり)
 
 佐久山の大高家と赤穂の大高家との関係を家伝集の中から拾い出してみると以上の通りであり、このことから考えると、源五の母松林院心与貞立大姉(実名を知らず)は赤穂義士切腹の後は、江戸にいることが出来ず、縁故をたどって佐久山の大高伝六郎忠知のもとに身を寄せ、二人の子供、源五と幸右衛門の『何か』(遺髪とか、泉岳寺の土とか、あるいはかたみの品とか)を埋めるために葬儀を行ったものと考えられるのである。そして自分もまた元禄十六年九月佐久山の大高家でなくなったのではなかろうか。
徳川の幕府を驚かせ、江戸のちまたの人々を喜ばせた赤穂義士の討入りも二百七十年の昔となり、泉岳寺の義士の墓には香華の絶えることとてないと聞くが、実相院の墓は知る人も少なく今は訪れる人もない。