第一節 農村の構成

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 近世の農村の構成は大閤検地以来(文禄四年(一五九五)検地ほぼ終る)寛永年間(一六二四~一六四四)までは、土地の土豪達の中の有力者で、しかも早くから領主に服属したものが庄屋または総庄屋となり、郡奉行の指図のもとに、数か村の支配をし、税の取立や、その監督などをしていた。さらに各村々には本百姓、水呑百姓が神社や寺院の土地を耕作し、それらの門前の小屋に起居していた門前百姓があり、そして本百姓の中の有力なものが名主となった。またそれらの多くはそれよりも前の時代すでにその部落の支配的な地位にあったものが多く、これを証する資料として次のものがある。
   寺形郷
                    前田 藤田 大蔵 橋本 後藤 丹後 不宿 相馬 伊賀 滝
上棟鎮守湯泉大明神           神主  養田筑後
 文亀三癸亥(一五〇三)九月十六日   大道内 松本玄蕃
                    舟山  印南内蔵
                    道宗内 鹿沼藤六郎
                    屋婦内 荒井加茂
                    舟山  人見弥右衛門
   次遷宮
 大永五乙酉年(一五二五)四月十一日
                    神主  養田越後
   〃
 天文十六丁未年(一五四七)十一月十五日
                    神主  養田若狭
   〃
 天正四丙子年(一五七六)九月廿八日
                    神主  養田若狭
   次遷宮
 慶長四己亥(一五九九)三月廿七日
                    神主  養田治部
   〃
 元和七辛酉年(一六二一)九月廿一日
                    神主  養田庄太夫
   〃
 正保元甲申歳(一六四四)十月十一日
                    神主  養田周防守
   〃
 寛文四甲辰年(一六六四)十一月二十八日
                    神主  養田周防守
   〃
 貞享元甲子(一六八四)四月朔日
                    神主  養田石見守
   〃
 元禄十六癸未(一七〇三)十月廿八日
                    神主  養田石見守
   次遷宮
 享保十二丁未(一七二七)十月十二日
                    神主  養田隠岐守
                    左壱  相馬藤右衛門
                     二  相馬三左衛門
                     三  後藤治郎左衛門
                     四  藤田源兵衛
                    右
                     壱  松本権三郎
                     二  印南傅之丞
                     三  鹿沼次右衛門
                     四  荒井仁右衛門
                     五  人見弥右衛門
   次遷宮
                        藤田源兵衛
                        後藤次郎左衛門
                        相馬三左衛門
                        相馬藤右衛門
 延享五戊辰(一七四八)五月十一日   神主  養田石見守
                        松本与右衛門
                        印南傅之丞
                        鹿沼治右衛門
                        荒井綱市
                        人見甚右衛門
   次遷宮
                    前田  藤田源兵衛
                    橋本  後藤次郎右衛門
                    不宿  相馬久右衛門
                    滝   相馬藤右衛門
 明和三丙戌(一七六六)十一月六日   神主  養田隠岐守
                    大道内 松本与右衛門
                    舟山
                    道宗内 鹿沼次右衛門
                    屋婦内 荒井喜与次郎
                    舟山
   次遷宮
                        藤田平右衛門
                        後藤重兵衛
                        相馬権左衛門
                        相馬藤右衛門
 天明五乙巳年(一七八五)三月晦日       養田主馬
                        松本与右衛門
                        鹿沼与五左衛門
                        荒井弥市
(以上岩瀬家文書)

 これは富池地内にある富池、戸野内、岡、今泉、荒井、町島六ヵ字の鎮守温泉神社のある場所にあった寺形郷湯泉大明神の上棟及び遷宮の際の棟札より写した文書で、これによってこの神社の創建年代及びその氏子部落がわかる。さらに祭礼の際の各部落代表の席次が一定していたこと、そしてこの点から宮座慣行のあったことも推察でき、なおこの社のあった場所を今日も登谷(とや)といっており、これは頭屋(とや)がこのような字に書かれた地名であるようにも思う。
 ここに記された部落の中には現在も存続しているものもあり、不宿、前田、道宗内のように単に地名として、あるいは家号として残っているに過ぎないものもある。そしてその代表者達はいずれも江戸時代初期には村名主を勤め、中期後総庄屋を勤めた後藤家のようなものもある。なおこの文書により江戸時代には中世的の名を改め、家格によって四字(五字)名、三字名、あるいは二字名へと変わったことも知ることができる。
 なおこの文書中明和三年(一七六六)後は舟山部落のものが加わっていないのは、中世日光領(輪王寺領)であったと思われる時代から、鎌倉期の下地中分、そして室町期に農民の自衛手段として成立した数か村の連合自治体である寺形郷、その後における豪族支配(舟山高地の居館)、永正年中(一五〇四~一五二一)大田原氏による侵略、その後における舟山部落人と寺形部落の対立感情がついにこのような結果となって現われたもので、それは明治九年九月一日、明治六年八月寺形、松原、吉際、竹野内の四か村が合して成立した富池村に、舟山村も合して今日の富池となるまで続いている。(寺方村その他が日光輪王寺領であるという説には尚研究の余地があるように思う。)
 太閤朱印地写(伊藤安雄氏蔵)には富池全域が舟山村となっていること、それが承応二年(一六五三)文書(村上静男氏蔵承応弐年検地帳)には舟山村ではなく吉際村と記されてあり、当時は最早舟山村は現在の舟山部落及び松原の一部に過ぎず、他はそれぞれの村として成立していたことを示すものであるが、しかし前代から続いた両者間の感情対立は依然として続き前記の始末となったものである。
 なお両者の争いの表面化した史料として次のものがある。
   申渡覚
船山村観音堂修覆ニ付寺形村と諍論之趣隻方召出対決令吟味処舟山村もの共申候ハ観音の古境内ハ寺形村湯泉社地之内ニ有之尤当分観音堂地えかこひ杉も勝手ニ仕来候 依之此度古境内ニ堂建作存立ニ而相奉願候段申之寺方村えもの共答候者私共鎮守湯泉社地之儀ハ享保十二未年船山村と出入仕候節寺方村理運ニ被仰付社地何連より茂相構無御座候 則其節之御載許御書付所持仕由差出之先つ載許之趣相違無之事ニ候得共場所入組候儀茂難許ニ付代官役岡文右エ門徒目付室井常右エ門指出遂見分処湯泉社地之内ニ観音堂跡と相見候処茂無之勿論社地かこひハ土居をつき並杉植置観音堂境内と紛敷事少も無之候依船山村申分相違ニ付不相立候 観音境内ハ東西エ四間南北ヘ九間の場所ニ有之別段ニ候得ハ湯泉社地江曽而相構申間敷候 寺形村之儀ハ差出候絵面之通社地相違無之候ニ付理運ニ申付候仍為後證双方江書付相渡置者也

                               数右衛門 正紀
  宝暦癸酉年(一七五三)五月
               出府無加印
                四郎左衛門
                小兵衛 印
 
                 船山村
                 組頭 源七
                    善右エ門
                     孫右エ門
 
 このように両者は享保十二年(一七二七)にも裁判沙汰をしており、ついに船山村の者は寺形湯泉神社の祭礼には寺形部落の者との同座を拒み、祭礼も寺形部落の前日(旧九月十八日)にこれを行なったような始末で、この間神主は常に中立的立場を堅持して両者の和解に努めてきたが容易に解決せず、明治九年やっと両者の和解となったもののようである。
 なお後藤氏が総庄屋となった年代は不明であるが次の記録がある。
 安政二乙卯年(一八五五)二月
  諸御用仮留帳            松本畿明扣
(大田原市役所蔵)

 これは大田原城内における年中行事を記した控帳でその正月五日のところに
一 御用所ニおいて関谷村渡辺甚兵衛、寺形村後藤重右衛門、黒羽根町猪股政三郎自ら上物指出可申上処登城無之

とあり、さらに後藤家には支配した村々の名を記した記帳があったが先年の火災で焼失してしまったとのことである。
 また江戸時代初期には相当の家数のあったこれらの村々も、その後伝染病の流行や疲弊に基づく逃散(ちょうさん)によって全く滅んでしまったものや、家数の減少によって一村として成り立たなかったものもでき、また新たに村作りを行なったりし、あるいは数か村の合併により新しく一村を形成したものもあり、また寛永四年頃(一六二七頃)の奥州街道の開通によって村の位置に変化をみる等数々の変貌をみて、幕末には富池地内は寺形、舟山、松原、竹野内、吉際の五か村となっており、前記の諸部落は不宿や前田のように単に地名としてのみ存在するに過ぎないものもできたのである。
 名主に次いで組頭はその村中において算筆に勝れたものがこれになり、名主の指図の許(もと)記帳のことにたずさわり、百姓代は本百姓の中から選ばれ、名主や組頭の横暴を監視する役にあたっていた。この名主、組頭、百姓代が村三役で幕藩体制の整備した正保年代(一六四四~一六四八)以降は、家柄が定まり世襲制となって幕末に至っている。
 次に前に記した庄屋について例記すると、前大田原市長鈴木邦衛氏夫人トウ氏の生家鈴木家は南那須村八ヶ代(やがしろ)(元荒川村地内)のサビヂといわれる部落で生家の家号もサビヂというそうである。ここは元那須氏の領地であったが天正十八年(一五九〇)秀吉によって所領八万石が改易となり、関ヶ原戦後大田原晴清が徳川氏より加増された時大田原領となり、付近の十二か村と共に大田原領下郷といわれ、明治維新に至った所である。
 家は宇都宮公綱よりの出といわれ、姓は元八木氏であった(氏神諏訪神社記)が、後鈴木と改められた。氏神は諏訪明神でサビヂの家号は諏訪氏からきたとも言われている。
 屋敷も元の位置は現位置の東部にあり、氏神も同様当時の屋敷の鬼門にあたる北北東にあった。現位置に移った年代は明らかではないが次の点からすると大体室町期あたりではなかろうかと察せられる。家は東面し屋敷は前面の平地より四~五メートルの高地で入口は屈曲し屋敷の周囲には堀をめぐらし、さらにその内側に土塁を築いた標準的土豪屋敷であることを物語っている。
 慶長八年(一六〇三)江戸幕府が成立し、元和元年(一六一五)大坂夏の陣終結の後この地が大田原領として確保されると、大田原氏は鈴木氏を所領下郷十三ケ村の庄屋とし、諸課税の割元として、さらにはその村の監督の権と義務とを負わしめている。
 これは現大田原市内ではないが、市内における場合もほとんどこれであった。
 なおこの鈴木家の門前にはその農地を耕していた農民があった。これらは自ら耕作権を持った土地はなくただ鈴木家の農地を耕作させられていた農奴的農民で、大田原市内でもかつては光真寺門前にも存在していたということである。これが即ち門百姓である。
 また一面領主から許された耕作地を持たず、他の富裕な農民の農地を耕作していた小作農民もあった。これが即ち水呑み百姓で、両者とも江戸時代、余程の事情のない限り本百姓になることは困難であった。但し天保期以降飢饉のため農家がつぶれ、その潰れ家を起すため、あるいは新開地を開いたものを本百姓として認めた例はある。それらは宗門人別改帳には新と記して区別したようである。