第二節 農民の地位

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 古代から中世期あるいは荘園制期には、国衙領であれ、荘園であれ、そこに働く農民は自分の生産したものを自由にすることなどは許されず、領主達からは思いのままに扱われた、いわゆる農奴的な立場におかれたわけである。しかしそれも時代によって差異があり、戦国期には領主の支配下にありながらも、各自武器を持ち、あるいは数ヵ村連合して自衛の組織をつくるなどいろいろであった。
 前節の寺形郷などは、後者の自衛組織の集団であったようである。この地はかつては、天台系寺院(日光輪王寺か)の寺領荘園地であったが、鎌倉期には幕府の侵略を受け、いわゆる下地中分によって地頭方と寺方にわかれ、さらに室町期には那須氏に、後には大俵氏に奪われて大俵領となった所である。
 この間にも土地の豪族(竹野内から舟山に居館を構えた舟山氏)の支配も受けたようであるが、「この寺形郷が日光輪王寺所領であった」の意見には疑義も残る。
 この時代には村々には武器の製造を主とした鍛治屋がおり、武器の製造とともに農業開発のための農具の製造にもあたっていた。
 今日地名として、あるいは家号として残されている鍛治屋の数は、当時の農家戸数(屋敷跡や江戸時代の戸数から推定)五十ないし七十に対して一軒位の割合となっている。農民は作業中でも脇差を帯し、家には長刀や槍、中には鉄砲(後期)を持ったものさえあり、最近まで旧家にはそれらのものが残されてあった。
 このように、農民が武器を持っていることは、いつでも争乱の起る怖れがあったからであり、秀吉によって、兵農分離の政策が採られ、農民から武器をとりあげることにはなったが、農民達は全部を提出したわけではなく、それが旧家に今日まで武器が残されてあったゆえんでもあった。それらの武器のうち、刀は身巾が広く、目釘(めくぎ)孔が二つとなっている場合が多い。これは鉄砲の伝来によって、前記の長刀が短かめのものとなり、刀身を磨りあげて次第に短かめにしたことを物語っており、戦国時代末期の世相をよくあらわしているように思うのである。
 江戸時代になると、厳重な身分制の社会となり、士農工商と農民は一応工商人達の上位には置かれたが、事実は土地にしばりつけられ、着類は木綿物のほかは着用を許されず、飲酒も喫茶も、仏事や祭の外は許されなかった。自分の村以外の土地に出ることにも制限を受け、他国への旅行などはよほどの事情のない限りは不可能に近く、もちろんこれにはキリシタン禁制との関係があったとはいえ、檀那寺の証明がなければ旅行することはできなかったわけである。要するに農民はその村内だけの生活を余儀なくさせられたということである。
 家屋の建築についても、家の主柱である大黒柱も欅の使用は許されず、杉か栗を用いた。
 現在市内に残っている明治前の農家はすべてがこれで、欅を大黒柱に使用した家は一見して明治以後の建築であることがわかる。
 また大田原領内の農家で江戸時代中期以前四脚門の建築の許されたのは前記庄家の家のみであり、寺形村(富池)後藤重衛門氏(当主三夫氏)宅の四脚門がそれである。
 長屋門も初期にはほとんど許されず、現存する長屋門のほとんどは文政八年(一八二五)以後のものである。これは文政八年(一八二五)沼の袋上の山からの出火によって大田原城が全焼し、その再建のため領内農民から金銭の寄進を受け、その代償として許可されたものが多いようである。しかしこの場合でも、母屋と同様欅柱の使用は許されなかった。
 名字や帯刀も中期までは前記庄屋のほかはほとんど許されず、これも長屋門と同様文政八年(一八二五)以後には相当数のものが許されており、上下(かみしも)着用も同様である。そしてそれはすべてが金の寄進によるものであり、村の裕福な者達のみであった。