第三節 耕地と農作物

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 前から自分で耕作していた土地を、あるいは所有権をもって他人に耕作させていた者達は、太閤検地に引続いて行なわれた江戸時代の検地により、本百姓として土地の所有権が認められた。しかしその土地も寛永二十年(一六四三)の幕府禁令によって、永代土地売買が禁止され、さらに質入禁止令も出されたが、実際には質入れや売買が行なわれており、数多くの質入れ証文をみることができる。承応年間(一六二五~一六五五)には村の富裕階級にあったものが、享保年間(一七一六~一七三六)には小作人となっている例もあり、土地の売買が行われたことを示す一つの資料である。
 一村の戸数は五戸から十戸程度のものが多かったが、幕末頃になると二十戸を越すものもできてきている。天保十二年(一八四一)の倉骨村などは二十戸にもなっている。(郡司家文書)
 これは初期よりは耕地も広まり、分家したものや、よそから移住してここに住みついたものができたためである。
 領主たちの経済面の根幹は土地と農民であり、そこから生産される農産物であった。その農産物の中でも米が主体であったことはいうまでもない。藩領、旗本領を問わず領地は石高で表現しているのはこれで、それは畑の生産も玄米に換算して表わしている。
 このように米が領主にとって最重要生産物であるため、彼らは農民に対しても極力米の生産をすすめた。しかし初期にはまだ前時代の様相を呈し農民を「生かさず、殺さず」主義のもと、その生産物は己の生存に必要な量以外はすべて貢租として領主に取り上げられてしまっていたが、中期以後になると国内の平和と生活の安定を見るに至ったため、余剰生産物の一部が農民の手許に残るようになり、農民の生産意欲が著しく向上し、それが耕地の拡大となって現われてきている。
 大田原領は表高は壱万壱千四百拾五石であるが享保年間(一七一六~一七三六)の実高は弐万参千参百拾五石五斗参升となっており、このほかに藩支配寺院領及び江戸幕府より一族領に下賜された領地が百五拾四石四斗がある。
 次に市内における大田原領の耕地の増減の有様を記して見ると次の通りである。
大田原藩領推移
    年代
郡別    
元和4年(1618)元録11年(1698)享保年中(1716~1736)天明7年(1795)延享2年(1745)明治元年(1868)備考
那須郡拝領高6,790.00006,791.00006,791.00006,791.00006,791.00006,791.000066カ村
新田高8,483.52218,962.9460不明8,962.94607,304.8005
15,274.522115,753.946015,753.946014,095.8005
塩谷郡拝領高1,424.00001,424.00001,424.00001,424.00001,424.00001,424.000013カ村
新田高2,115.53402,172.9481不明2,172.94812,172.9481
3,539.53403,596.94813,596.94813,596.9481
芳賀郡拝領高3,001.43103,001.87703,001.87703,001.87703,001.87703,001.87707カ村
新田高562.6730563.6090不明563.6990563.6099
3,564.55003,565.48603,565.48693,565.4869
都賀郡拝領高200.0000200.0000200.0000200.0000200.0000200.00001カ村
新田高00不明00
200.0000200.0000200.0000200.0000
合計拝領高11,415.431011,416.877011,416.877011,416.877011,416.877011,416.877087カ村
新田高11,171.729111,698.6526不明11,698.652610,041.3585
22,588.606123,115.529623,115.529621,458.2355
 
史料出書伊藤文書大田原史料大田原史料大田原史料阿久津文書旧高旧領取調帳
(注)朱印高(拝領高)11.41余高は明治維新まで変らず、那須郡内において村名に多少の移動が見える。
   新田高(開墾所得)は、時代により異なるが、10.000石は、下らなかったようにみえる。
   朱印高、新田高を合せて21.460石から22.590石の間が大田原藩領とみられる。

(阿久津家文書)

 享保期(一七一五~一七三六)以後も開墾による耕地増加は著しかったが、その後の大田原全域の村高を記した文書は見つかっていない。けれども方々に何何新田と称するところがあり、これはほとんど江戸時代に開かれた部落でこれによってもこの時代に開かれた耕地が甚だ多かったことがわかる。
 次に農家一戸当たりの耕地面積は初期は一町七~八反、後期には一町五~六反であった。
それを物語る史料として次のものがある。
 承応二年(一六五三) 吉際村(富池)検地帳
 農家戸数       六戸
 耕地面積       十町八反七畝八歩
 一戸平均       一町八反一畝九歩
 宝永五年(一七〇八) (同前)
 農家戸数       九戸
 耕地面積       十二町七反五畝二十一歩
 一戸平均       一町四反一畝二十八歩
 明治四年(一八七一) (同前)
 農家戸数       九戸
 耕地面積       十町四反九畝十五歩
 一戸平均       一町一反六畝十八歩
となっている。しかし明治四年検地帳に吉際村の人が他村(竹野内村、寺形村)に所有していた耕地の総面積は二町八反四畝二十一歩あり、また村内耕地のうち四反四畝三歩は富池地内の寺院(成就院)のものとなっているので、以上を加減して一戸当たりの耕地面積を計算してみると一町五反四畝十三歩となる。宝永五年期(一七〇八)にもある程度他村の耕作が行なわれていたと思われるが、この史料は未だ発見されていない。ただ宝永五年(一七〇八)に十二町七反五畝二十一歩あった耕地が、明治四年(一八七一)には十町四反九畝十五歩と二町二反六畝六歩も減少していることは不審である。該地域を調査してみてもそのような減少をきたしたと思われる場所が見当たらないし、むしろ増加したと考えられる点さえある。
 市内各地においても大体初期には一戸当たりの耕地面積が広く、後期には狭くなっている。
 次に作物は水田はもちろん米であったが、畑作の場合は稗、そば、大麦、小麦、大豆、小豆、粟、ごま、荏(えごま)のほか野菜物は菜、大根、かぶ、人参、ごぼう、里竿等でさつまいもや馬鈴著は作られていない。以上のうち荏は油を灯油にしたもので、貢租として納めさせられた。
 たばこは初期には作られなかったが天明(一七八一~一七八九)以降になると作られている。 (滝家文書)
 茶は初めは士屋敷に裁培され、末期になると村でもぽつぽつ裁培されるようになった。しかしこれは薬用として用いられたもので、庄屋や神官(医療をかねた)屋敷に裁培されたに過ぎず一般人は作っていない。これは一面農民は普通酒や茶を飲むことを禁じられていたためでもあるようである。
 桑は末期になってようやく裁培され養蚕も行なわれたが、絹物着用を厳禁されていたためその生産物はすべて貢租として納めている。しかしこれはさほど多くはなかった。この証として、明治期には百年以上を経た桑の古木が方々にあったことでわかる。
 このほか紙の原料としての楮(こうぞ)、うるしもわずかに裁培されていた。(楮や漆は適地ではなかったようである)
 なお当時は大麦や小麦の作付はさほど多くはなかった。畑地のほとんどは秋の収穫が終るとそのままにされ、春になってまた秋作物を作るという状態であり、このような土地を「はる地」といった。