中世期にあっては土地の面積は貫高で表わされている。これはその土地に税を課することのできる土地の意味で、当時大田原市内の税は大体一反歩(一〇アール)百文位であったようである。従って一貫文の土地とは大体一町歩(一ヘクタール)の土地で、大田原氏の系譜に足利尊氏から拝領した土地が五千貫とあるのは、五千町歩の課税可能な土地を給されたということである。(このことの真実性については既に論じている)
また一般農民は、その土地を耕作するのに要する労力や播種量によって面積をいい表わしていた。
今日市内に三人役、二人役などといわれる水田がある。これは中世期すでに開田されたと思われる所で、三人役が大体一反歩(一〇アール)である。その当時水田を耕起するには三本鍬を用い、一反歩を耕起するのに三人手間が必要であったので、このようにいわれたものである。
次に播種量による場合は水田は種子籾の量でいい表わし、畑の場合は稗の播種量でいい表わしている。種子籾の量は大体一反歩七升(一〇アール当り一二、五リットル位)位である。七升播、一斗播、三斗播などの名称の残る水田は皆これで、開発当時の名残をそのまま残しているものということができる。
畑の場合の稗の播種量は一合(約一八立方センチ、一升の一〇分の一)を一杯という所が多かった。それは当時一合程度入る黒塗の木の椀で稗の種子をはかり、播種する時にそれを完熟した堆肥と人糞に交ぜ合わせ「踏ぐるみ(ふんぐるみ)」として播種したために起ったということで、この方法は当地方では長く大正期頃まで行われたといわれている。なお踏ぐるみにする場合の稗種子の量は一反歩に対し一杯半位であった由である。
このように当時は土地の正しい面積や品等が定められておらず、そのため統治者と農民との間には常に争いが絶えなかった。これらを統一してすっきりした形にしたものが検地である。検地とは要するに、各村の総地積を実測し、確定し、各田畑の品等、反別、地主名を調査して、これを明記し、各支配の役所から各村へ通知されたものが検地帳で、水帳あるいは竿帳などとも記されている。
この検地が全国的に行なわれたのが秀吉が全国を統一した天正十年(一五八二)から文禄四年(一五九五)に至る十三年間にわたるもので、これを文禄検地あるいは大閤検地と呼んでいる。この時は曲尺(かねじゃく)六尺三寸(一、九メートル)四方を一歩とし三百六十歩を一反歩としていたのを、三百歩を一反歩と改めた。
さらに徳川氏が天下の実権を握ると、慶長(一五九六~一六一五)元和(一六一五~一六二四)期には曲尺六尺四方を一歩、三百歩を一反歩と定め、従来よりも狭い面積の土地から以前通りの貢租をとる方法をとった。(文禄四年以前の検地を古検、慶長、元和期以後のものを新検といった)
江戸幕府初期の頃の戦国大名達は、まだそれぞれの勢力を維持していたため、幕府はいろいろの名目でそれらの勢力の削減を図り、元禄期(一六八八~一七〇四)になってようやくその目的を達成した。
検地もこの期以降、享保年間(一七一六~一七三六)にかけて徹底的に行なっている。このため後にはこの期以前のものを古検と呼ぶようにもなった。しかし一歩及び一反の面積については慶長、元和期のままである。この際用いられた竿は一丈二尺二分(三、六メートル強)のもので、一間(一、八メートル)につき一分の誤差分を計算にいれている。
品等は貞享(一六八四~一六八八)田畑租法では水田は上々田、上田、中田、下田、下々田、畑も上々畑、上畑、中畑、下畑、下々畑の五品等となっていた。しかし、初期には大田原領では上田、中田、下田、下々田、畑も上畑、中畑、下畑、下々畑の四品等であった。天領の場合も同様であった。ただ福原領では延宝六年(一六七八)佐久山町田地検地帳(市役所保管)に水田は上々田、上田、中上田、中田、下上田、下田、下々田、畑も上々畑、上畑、中上畑、中畑、下上畑、下畑、下々畑の七品等となっており、これは幕末まで同様であったようである(史料未発見)。
この品等の定め方は秋収穫期に検見役人が村に出向き一筆毎の水田面積を測り、さらに前記の竿を用いて水口(みなくち)、中央部、落口の三場所で一歩(一坪)の稲を刈り取り即座にこき落として籾の量を計り、さらにその籾から出る玄米の量を鑑定して定めた。ほとんど玄米量は籾の半量とされていたようで、この玄米量を定められる籾に対する割合が石盛である。
検見の仕方は初期、中期頃までは極めて厳格に行なわれていたが、その煩雑さと、長年行なって品等の定まっている土地ではさほどの相違がなかったことから後期になると粗雑となり、遠見検見といって馬上から遠くの田んぼを眺め、村役人の申し出をそのまま記帳するずさんなやり方さえ行なわれるに至っている。このような状態であったため新たに開かれた水田が記帳漏れとなることは珍しくなく、従って実際面積と記帳面積とはほとんど一致していなかったのも当然である。
以上のようにして村内の水田の面積と米の収穫量が算出され、その総計が村高または村石高である。畑の場合は水田のように単純でなく(作付されるものが多様のため)、大体は稗、そばのでき工合によって定められ、品等も上々畑が水田の中田と下田との中間が普通であった。
なお将来畑地となる可能性のある山林については毎年木の芽の伸びの状態を調べ最小限十か年間の調査に基づいてあらかじめ品等が定められており、そこが耕地となった場合はこれを資料として品等が定められたといわれている。