第五節 農民の税負担

682 ~ 686
 検地によって耕地の面積、品等が定められると、収穫期には役人が出向いて作柄を調べる検見(けみ)が行なわれ、収穫量を決定して貢粗の割当が行なわれた。貢租は収穫量の半分が普通で、五公五民制であった。
 検見については各耕地を回って調べることは容易でなかったので、いろいろな方法が採られたようである。
(一)畝引検見
 これは段取検見、または根取検見ともいわれ、耕地の品等に従い壱反歩当たりの収穫籾の定率を置き、不作の場合農民の願い出により一坪(一歩)当たりの籾量を調べ、実際減収分だけ差し引く方法で享保(一七一六)前はこのような方法がとられていた。しかし当市内ではこのような方法で減額された史料は未だ見当たっていない。
(二)有毛検見
 これは最初から耕地の品等を定めず村民が一筆毎に一歩の籾量を調べた後耕地の品等を定めて差し出させる方法で、これが村指出帳である。この方法は極めて合理的な方法であるが、どこまでそれが正確であるかということになるといろいろな疑問がある。
(三)遠見検見
 これは前記のように一筆毎の調査の容易でないことや、日暮れになって見残しのある場合、その付近のおおよそのできを勘案して品等を定める方法で、極めてずさんなやり方である。
(四)投検見
 これは名主、百姓が検見役人の宿所に出向き昨年より何程増上納ができるかと申し出、実際の検見をせずに極める方法である。少しずつでも減じてもらいたいのが人情だが、農家戸数と耕地の増加が明らかなのに前年より少額では事済まぬことは明らかなので、農民もそれを考え適当な額を申し出、一面役人達も減少ならともかく、増額ならさほどやかましいこともいわずこれを認めたようである。
 大田原領内では大体この方法がとられたようで、それは同一耕地の品等は年代を異にしてもほとんど変っておらず、しかも耕地は新しい年代となるに従って増加している。
(五)居検見
 これは小禄の旗本領で検見にたずさわる役人の少ない場合に行なわれた例が多い方法である。この方法は名主を呼び出しその年の作柄を聞き、隣村の模様を聞きただしその村の租額を参考として収穫高を定めたり、または前五か年の平均取れ高とその年の豊凶に従い前記平均に増減して極める方法で、市内旗本領は大体この方法に依ったようである。それは次の史料によってうかがえる。
(郡司家文書)

 申の年(天保八年〔一八三七〕)凶作之事
七月大風の次第、十八日朝より雨ふり辰巳風吹夫より南方へ廻る、大風石をうごかし砂をとばし家をやぶる、大木倒 諸作いたむ
 四月中日 日輪血の如し必違作と東方朔ニ相見い申候
 当村の家を破りしこと
嘉右衛門家二―三尺裏イまがる 弥惣右衛門同断 伊右衛門同段
御高札場破レ 粂右衛門隠居吹潰レ喜右衛門阿まや同段 重吉阿まや同段
御林立木松凡千本余吹倒
川々満水田畑水おし 追々諸作あしく
九月三日より九日迄六日の間大霜降
 この後又御検見願、該略してならし引
 十ヶ村御引方
佐良土、亀山、九分引、倉骨七分引、宇田川、三色手、青木、若目田、桜井、上山田、下山田六分五厘引
永方御上納行届兼天明年中 例以田畑起返し手宛金十ケ村江金百弐拾三両願立不叫、但し御年貢米御払相場金拾両ニ付六俵位之処金拾両ニ八俵之安値段
  米相場之事
 申の暮(天保八年) (一八三七)
一金壱分ニ付  白米 五升五合
一金壱分ニ付  稗米 右同断
一金壱分ニ付  麦米 七升
一金壱分ニ付  小麦 九升
一金壱分ニ付  大豆 壱斗
 盗人多し
 乞食多し

 これは天保五年(一八三四)に引続く天災と凶作にうちひしがれた農民が貢租の減免を願い出て、これに対し領主(旗本久世氏)が前記のように減じ、さらに救米を安値で売り渡してくれたことを記した文書で、天保五年(一八三四)期凶作に対しては「数度御検見願僅かに引方許可」とだけ記されてある。