一、北関東の農村荒廃

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 天明二年(一七八二)から連年天候不順で、洪水、浅間山の大噴火などの災害が打ちつづき、その上疫病が流行し、穀物は実らず、米価は高騰し、全国的な大飢饉となった。
 特に東北、北関東の惨禍はひどく、馬、犬、猫はもとより、草根、木皮から壁土までも食べ尽し、はなはだしきは死人の肉までも食べたという。そのため餓死者、離農者が続出し、窮民によって都市においては米商人を襲う打こわしが、農村では、百姓一揆がひんぱんにおこっていたのである。また農村への商品経済の流入は、自給自足経済の崩壊をきたし、自作農から土地を失って小作人に転落する者がふえ、領主は財制困難を理由に苛酷な貢租を要求し、その過重な諸賦役は農民の生活をいっそう困窮に陥れるに至った。
 貧窮農民は極刑をもおそれず百姓一揆の反抗運動をもって、その打開を策し、また、たびたびの禁止令を破って父祖伝来の地をすてゝ他郷に逃亡し、口べらしのため堕胎と産児圧殺による人口抑制法としての間引きの悪習慣が北関東農村においてさかんに行なわれた。
 農村からの逃亡と、間引きの悪習は領内人口の減少をきたし、領主代官とも領内人口の増加につとめなければならない結果となった。さらに寛政、天保と凶作が相つぎ、困窮農民の村からの欠落はいっそうひどくなり、絶家となった空家や(潰れ百姓)荒地、手余田がいたるところに見られ、欠落農家の租税は残った農家に割り当てられ、一面武士の人口増加はいっそうの重税を必然的なものとし、北関東の荒廃は、はなはだしく農民の生産力と生活力を破滅の渕に追いやるにいたったのである。
真岡代官竹垣直温の徳政碑に
「赴任早々廻村してみると、田園は荒れはて、村には空家あり、里に住民なく、高地はいばらが生え茂り、狐兎のほら穴があり低地は黄色い茅白い葺が見渡す限り望まれた。
 直温は古老を招いてそのわけを問いただし、貧しき民は子を生めども育てず産室で圧殺する風習があって之をはじとせず、課税は年毎に重くなり、負債は日に積もり、督促きびしくとも返済するに途なく貧民や柔弱怠惰な者は逃散し、強豪無頼な者は博徒となり、訴訟斗争たえず、こそ泥横行して生活をおびやかし、為に精神荒廃して田園荒れるに至ったことを知った。
直温は深くこれを憂い、先づ法制を建てて子を殺すことを厳禁し、人倫を説き、属吏を遣して妊婦を調べ分娩の報あれば親しく之を検し、且幕府に請うて産婦の家に毎月資材を給し、以て育児の資とした。若しその母が死ねば別に乳母の資を与えた。
かくして管内の子供は総て間引きされることなく成長することができるようになったのである。(下略)」
(真岡海潮寺竹垣直温徳政碑、〔大日本人名辞典〕)