二、大田原近傍の農村の荒廃

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 那須地方の農村も、天明の飢饉でうけた打撃は容易に回復せずむしろ貧富の差を一段とはげしくし、立直ることの出来ない貧しい農民は、村から欠落、他国に出奔するものがあいつぎ、また口べらしの間引がなかば公然と行われ、農村人口の減少をきたし、荒地手余田が多く見られるにいたった。つづいて寛政、天保の凶作にみまわれ、農村の荒廃はその極に達した。
 佐久山藤沢の諏訪家古文書によれば
一、出生赤子間引申間敷候様、先年も厳敷御下知有之候処、近年其心得相ゆるみ候様、相聞候、此辺悪しき風習とは乍申、天道を恐れざる甚天罰、今日、人たる其道理得と相考縦令愚昧の者たりとも、誠の恩愛をかへりみ、向後急度可相守候。困窮之者多子養育いたし難き者可有之候間、出生の子四人目からは、為養育俵子被下置候間可申出候。

一、二男、三男有之候者、居住に限らず御領内潰式、又は新家等に取立候様いたすべく候。右様之者江は御手当被成下事に候間、随分相心掛可申出候。

一、近年荒所多き村々茂有之候。向後は出精いたし荒所開発の儀相心掛可申候、勿論開発之大小により、夫々御手当被成下候間、可致出精候

  寛政元年己酉(一七八九)三月
                               勘定所 印
 
なお、倉骨の郡司家文書には明和四年(一七六七)間引きの悪習を教戒した絵入りの触状も見られ、その触書によれば、
「此の辺の悪風俗にて出産の子をとりあげずその儘ひねり殺すこと言語同断の大悪なり。人は万物の霊長として天地神明の徳をそなへ、三千世界の内、人にましたる尊きものなし。軒に巣くふ燕雀も子を育むに心を尽す事人々の見る所なり。然るに万物の霊長たる人間、我子をわざと押殺し、安然として悲む事なくはづる事もなきは大悪風のしみこみたるにて心は悪獣なり。是を人面獣心といふ。
  その図ここに顕す。
是聖人の書により仏説を考合せ見せしめるもの也。諸国を聞に、生れ子を押かへす事此辺廻り四、五十里の間のならはし、余国にては甚いやしめり。鬼と同じなりと、にくみおそるるといへり。是も亦はづべし。我子を殺す樫貧邪見にて神仏を祈るとも感応あるべからず。家の繁昌、今ある子の無事を思はば、悪を翻し、悪類の面を改むべし。
 いわんや、後生永々の苦患を思ひかへりみるべし。子なきものは、老いて臨終に空しく、あばらやに餓死するもの多かるべし。死後追善の便もなし。当時の困窮をいとはず、子孫繁昌を慮るべし。」

とあり、悪習を教戒しているが間引の風習は、農民の貧困に原因する以上、教戒や禁止令のみでは効果はあがらなかったようである。また村からの欠落(退転)によって潰家ができ、間引き、欠落による村内の人口減少と荒地の増加に二、三男の取立百姓や荒地の開発を奨励し、また養育料、手当金の下賜によって間引き、欠落を防止したが、充分な効果は上らなかったのである。村からの欠落者は、多くは江戸に流れて渡奉公や、日傭稼ぎとなり、また、宿場町、河岸場へと流れ、職にありつくことの出来ない者は、無宿、浮浪の群にはまりこみ、乞食、非人に身を落すものも少なくなかったのである。また仁侠、ばくちを業とする無籍の遊民ともなったのである。
 幕府としても寛政の大改革によりその第一の施策として帰農令等を出し何とかしてこれをくい止めようとは計ったが、一時的には効果はあったが、間引きや欠落は貧困な農民によって止むことなく行われたようである。
 文化十四年(一八一七)那須、塩谷の幕領六十三カ村の名主たちが代官所に差出した「八木沢出張陣屋延期願」の前文によれば
乍恐以書付奉願上候。
「当御代官所、八木沢陣屋附、六十三ヶ村、一統奉願上候。当郡之儀は、山野続村々に而、薄地の場所に御座候所、宝暦年中の頃迄は、家数、人別茂、相応に有之、相続罷在候処、其後天疫流行仕、死潰、退転人多、追々人少困窮相募候上、天明年中凶作打続、死仕候者茂多く、弥取続離屋敷、退転人多、手余荒地、多分出来仕、死潰、退転人の分、村弁納仕候故、供漬に相成、人少困窮弥増候て、既一村及退転の、村方も有之候程の儀にて追年潰退転人多御座候に付、右困窮に相逼候、一体人気、風俗悪敷罷成末々歎敷に奉存罷在候処…以下略
(人見伝蔵氏蒲蘆碑考より)

 これによってみても、天明の大凶作によって餓死者が多く出、凶作後の農民の困窮はいよいよ激しく、村から多くの退転人がでて、手余荒地が次第に多くなり、死潰れ、退転人の貢租は残った農民に割り当てられ、苛酷な重税と、過重な賦役に、年毎に退転人は増加し、一村一部落すべてが退転したところも生ずることも珍らしくなかったようである。
 さらに寛政天保と凶作が続き、時代がくだるにしたがって農村の荒廃はますますひどくなり、天保時代の古文書には、至るところに退転人が多くなり人口が減少し、荒地の多くなったことを訴え、年貢米の減免、助郷賦役の軽減または免除の歎願書が数多く見られるのである。倉骨村郡司家文書によれば、
天保十二年(一八四一)の記録に、
「当年の儀至って作方悪く御上納米引方不申候。小前相談十一月十四日より初り、二十四日迄かかり申候。二十四日後米取立御出役斉藤仙左衛門様並下役御出被成候、二十四日村方之者一人も不参致し候に付、御出役からおただし有之候処、当年之儀作方至って悪く御上納米一切無之難渋筋願立候に付、十二月十日迄、日延願上候。且又村方相談致し候十一人の者、極々困窮に付、鎮守温泉大明神、社内神木並村退転人持山、書入致し福原新吾左衛門殿より金子拾両借請、金納致し候。

  右十一人名前覚
として十一名の名前が記されており、
 退転人数多く出来候に付、荒地多く弁納方相蒿み候に付、御引方奉願上候相談に、相定め申候事」
 年貢米を納入できない小前百姓のために、名主は年貢米取立役人に納入期限の日延をお願し、極貧困者のため村人相談し鎮守の神木、退転人の持山を書入れして金を借り金納しているのである。
 また退転人の田畑の年貢は、残った村民にかかるので過重にたえかねた村人は、年貢の引方を相談することになったのである。
(書入れとは借主が借金のとき家屋敷、田畑山林を所有していることを証文にのせ、借主が期日に弁済しないときは、弁済にかえてこれを引渡すことを約束したものである)
 又同じ郡司家文書によれば、
   乍恐以書付奉願上候、
御知行所、那須郡倉骨村役人小前一同奉願上候は、去る享和年中迄は、村方軒数三十軒余も有之候処、追々人少困窮相募り、潰れ退転数多出来、無拠先年御取立百姓五軒奉願上御勘弁以夫々御手当被成下、直当寅暮ヨリ本免上納可仕候得共、亦新潰四軒出来、古潰れ人十軒都合十四軒、村役人小前一同御上様に対し奉恐入候得共、此儘打捨差置候得者一村潰れ無覚束奉存候間、退転人軒数田所荒地、手余田所、御在所様、御見分奉願別紙帳面之仕立奉願上候間、荒地田所御引捨、手余田所五ヶ年の間半免御用捨、恐をも不顧奉願上候、荒地田所之儀は、村方立直り次第、夫々奮発仕り御上納可仕筈、何卒厚御勘弁以村方御救為御仕方替、右願之通被仰付被成下直以て御百姓出精仕り、広大の御慈悲を偏に難有仕合に奉存候  以上

   天保十三年壬寅正月(一八四二)
            倉骨村     郡司太郎左衛門印
                   嘉右衛門 印
  御地頭様
     御役所
 
この歎願書によると、倉骨村は享和年中(一八〇一~一八〇四)までは、三十軒余もあったが、それが退転人が続出して十四軒の潰れ家ができてしまったのである。
 天保元年(一八三〇)から六、七年ごろまでは、ほとんど毎年気候不順で凶作が続き、貧困にあえぐこの地方の農民は、相ついで村から欠落したことは、単に倉骨村だけの問題ではなく、御触書をもって禁止しても窮迫農民には一向禁止の効はなかったようである。
 天保の改革においても、荒れ果てた農村復興の対策として、農民が農業を捨てて江戸其の他に集ることを禁止し、すでに江戸に移住しているものでも、一時的なものは帰農させ、また出稼にも年限をきめて之を守らせた。天保十四年(一八四三)の「人返し令」がそれである。
 退転人の荒地の年貢は免除して欲しい。
手余り田は五か年間年貢を半分にしてもらいたいと地頭(旗本久世丹後守)に御願いしているのである。このままでは一村破滅の外はないとも言っている倉骨村の困窮の様子が手に取るようにわかるのである。
また同年(天保十四年)の覚書に、
 三月十七日夜喜三郎家内四人出奔致し候、右に付要助家主に相成申候事
 とも書かれており、間引き、退転による人口の減少は助郷の課役にも難渋し、助郷課役の免除を歎願している。
「右之通、村方人別取調奉差上候、誠以先年安永五申年(一七七六)迄者家数三十五軒人別百五十人、馬二捨疋余も有之候得共、日光山御社参之砌も奥州道中、佐久山助郷被仰付、宿方ヨリ当触次第相勤候得共、当時人別相減じ前々之通り往来勤被仰付候者、困窮之百姓難渋至極仕候間、何卒厚御勘弁を以当時有人別勤被仰付被成下候は難有仕合に奉存候」  以上

    天保十三壬寅六月
       久世丹後守知行所野州那須郡倉骨村
           百姓代  治平
           組頭   嘉右衛門
           名主   太郎左衛門
   御奉行 様
 人口は次第に減少し、しかも農繁期における人馬の課役は容易なものではなく、倉骨村ばかりでなく、当時の古文書には各村とも助郷課役免除の歎願書がみられるのである。
「百姓と胡麻とはしぼればしぼる程、油を出すものなり」と支配者達が搾取の対象とした農民の忍耐も限界に達し、その不満はやがて百姓一揆等の騒動に移るのである。