これが天明の飢饉である。ことに東北地方は災害を被ることはなはだしく、大田原地方もこの中に含まれた。
前期五年間のうちでも災害の最もはなはだしかったのは天明三年(一七八三)でこれは卯年にあたり、そのため現在でも農家は卯年、卯の日を恐れ、「卯の日に田植をするとうなり声をきく」などといってこの日を避けている。この年の暮れには農民はわずかに得た穀類を売り払って諸費用に充て、自分達は草根、木皮を食して餓をしのいだ。大田原藩では厳重な布令を出して上納米の売却を禁じた。一方寛永年間から幕府の命によって城中に備蓄した付近の天領産米壱千石を流用して難民救済に使用した。
このような困難な状況にもかかわらず町内の悪徳商人はこれを奇貨として米穀類の買占めをし、暴利をむさぼるものが現われた。これを知った農民は激昂して領内ほとんどの全村農民が大暴動を起こすに至ったのである。
これを知った藩では大いに驚き、早急鎮圧を図ったが容易におさまらず、事幕府に知れては藩治の不始末事として幕府より科(とが)を受けることになるかも知れず、事の重大さに藩主(二十三代庸清)自ら農民代表に面接し、彼らの言い分をきいたといわれる。これについて故人見傅蔵氏は大田原史稿に次のように記している。
天明飢饉と穀騒動
天明二年(一七八二)十二月陽気三月の如く、菜種花咲き揃ひ土筆(つくし)を生じた。且時ならず雷雨頻りにあった。明くれば三卯年寒気烈しく雨の降る日も多く五月田植の季節に至って餘寒なほ去らず人々重ね着して囲炉裡火にあたる程であった。六月に入り雨降り、九月までつづいた。七月には浅間岳噴火して死者三万といふ。二百十日は丑寅(艮)(うしとら)の風(北東の風)二夜三日吹通した。出来秋になると果して関東奥羽は五穀みのらず、奥羽の民餓死するもの三十餘万人もあった。大田原藩に於ける天明の凶作の実状を記録したものは未だ寓目しないが、石林文書によると領民は草根を堀り木実を採って食い、餓孚野に充つるとあり、大田原藩は大凶作の為、領内に廻状を以て米穀は年貢上納前に売払い又は借金の代償に返済し、或は神社、仏閣の勧化に合力しないように通達した。
卯八月二十四日(天明三年癸卯八月二十四日)
而して穀屋より白米を買ふには村役人が切手を交附して一人壱回五升と定めた。又白川、二本松、会津、仙台等の他領への売出しは厳禁した。当時の穀物相場は
白米 壱升 百十四文位
稗 壱分 壱斗五合乃至八升位
麦 同 三斗乃至二斗八升
(後には二斗四五升になる)
銭相場壱分 壱貫三百文位
と石林文書にある。
しかし大田原藩には寛永年中幕府より保管を命ぜられた一千石の儲(ちょ)蔵米があって、一朝凶歳に遇へば一時之を流用して飢民を賑はす便宜があった。
石林文書によれば藩は大凶作の為領内に廻状を発し、米穀類は年貢上納前に売払ひ又は借金の代償に返済することを禁止し、神社、仏閣の勧化等は諸公租完納後にすべしと令した。
同四年閏正月六日夜上郷、中郷、近郷七十三カ村の農民等は、大田原町方の米穀商が連年の凶作を奇貨として、不当の利益を独占しようと申合わせ、穀類を隠匿して一日より六日迄販売しないは不都合な所業であると激昂した八百人は石林道に嘯(い)集して城下におし寄せ、近郷のものは寺町吉田屋甚左衛門宅を襲い、家屋、家財を打壊して引揚ると、次いで上郷のもの上町利左衛門、寺町佐七、荒町次右衛門、材木屋越後仙右衛門、同木役庄助等の家を破壊した。
急報により藩から郡奉行大町何右衛門、代官中村段四郎徒目付等石林に出張して、各村役人を召喚し、訴願の旨意の叶ふやう取計うにつき早速取鎮めることを命じた。七日早朝村役人は石林村六右衛門方に集って訴願書を認め、十日会所に提出した。
十三日藩は近郷三十一カ村の代表を会所に召喚し理解の上抽籤にて代表者を定め手錠宿預けを命じ、近郷は久保村勝右衛門、十四日中郷三十カ村は島村茂右衛門、十五日上郷十カ村は平林村役人等が孰れも手錠宿預けとなった。
二十三日に至り一同放免せられ、又手錠宿預けとなってゐた穀商等も同時に赦された。
翌日各村役人は藩関係役人に御礼廻りをした。
三月六日石林、富山両村役人を会所に召喚して騒動につき尋問を行い八日上井口、西遅沢村、九日東遅沢、上、下関根、上中野村、十一日下井口、島、下中野村を喚問した。同日小油井村与七入牢を命ぜられ、四月十八日会所に石林村役人と富山村新左衛門、上井口戸左衛門を召出し今回騒擾に参加した村々の小前百姓より始末書を徴して差出す様命せられた。其夜石林定使五郎左衛門に申付けたところ、五郎左衛門はこの取纒めはむづかしく覚束ない事だといひ肯かない。
十九日早朝その趣を会所に申出た。藩は七ツ時(午前四時)捕吏を遣はし五郎左衛門を捕へて吟味を遂げ、城下騒擾の張本人たるを自白し、弥五兵衛、甚右衛、万治郎等の共犯も分明してその晩八ツ半時(午前三時)弥五兵衛等三人を逮捕して獄舎に籠めた。二十四日には惣郷七十一カ村より加担者十七人を捕縛した。
七月二十五日愈々裁決が下り五郎左衛門を斬首の刑に行い妻子は追放に処し、甚右衛門、万治郎は村々に張札をなした廉により同罪となる。弥五兵衛の子万吉少年は事件に関係なく十里四方御構(追放)となった。又甚右衛門の家財はその妻に、万治郎のは娘いちに下附し、いち十五歳に至るまで祖父平左衛門に預けられた。又被告等の田畑宅地は五人組預けとなった。而して石林村役人両名はこの事件の責任者として二十五日より七月十一日迄手錠町宿預けとなり且其職を免ぜられた。
天明二年(一七八二)十二月陽気三月の如く、菜種花咲き揃ひ土筆(つくし)を生じた。且時ならず雷雨頻りにあった。明くれば三卯年寒気烈しく雨の降る日も多く五月田植の季節に至って餘寒なほ去らず人々重ね着して囲炉裡火にあたる程であった。六月に入り雨降り、九月までつづいた。七月には浅間岳噴火して死者三万といふ。二百十日は丑寅(艮)(うしとら)の風(北東の風)二夜三日吹通した。出来秋になると果して関東奥羽は五穀みのらず、奥羽の民餓死するもの三十餘万人もあった。大田原藩に於ける天明の凶作の実状を記録したものは未だ寓目しないが、石林文書によると領民は草根を堀り木実を採って食い、餓孚野に充つるとあり、大田原藩は大凶作の為、領内に廻状を以て米穀は年貢上納前に売払い又は借金の代償に返済し、或は神社、仏閣の勧化に合力しないように通達した。
一、穀方御年貢上納以前は少々たり共売払候義は堅く停止の処近年忍やかに他所江持出し売払候由相聞甚以不届の至に候
御年貢上納不二相納一内は米、大豆、荏(えごま)の類借用前金の返辨たり共堅指出し申間舗候万一売払又は借金等へ指向ヶ杯に致候におゐては当人は不レ及レ申村役人五人組迄重き無調法申付候条村役人へ召呼不洩様可申付候
一、諸勧進是又御年貢上納前は御免勧化(注=信者の寄附を求めること)の外一向差出し申間敷候。村の入口に札立置勧進停止可致候。勿論御領分の非人共勧進の義是又御年貢上納不相済内は為勧進村々には罷出間舗と申付置候間上納相済候後面々志次第可レ遣候
一、当作毛世上一統不作有之趣相聞へ候。当時雑穀の類迄直段高直に有之に付右雑穀等所持の者は売払候事と相見へ候右相払候はば他所不二相払一御城下町に而売買可致候尤来春夫食の手当無二油断一当時より可二心掛一候且揚酒等の義村々堅ク令二停止一候 以上
卯八月二十四日(天明三年癸卯八月二十四日)
而して穀屋より白米を買ふには村役人が切手を交附して一人壱回五升と定めた。又白川、二本松、会津、仙台等の他領への売出しは厳禁した。当時の穀物相場は
白米 壱升 百十四文位
稗 壱分 壱斗五合乃至八升位
麦 同 三斗乃至二斗八升
(後には二斗四五升になる)
銭相場壱分 壱貫三百文位
と石林文書にある。
しかし大田原藩には寛永年中幕府より保管を命ぜられた一千石の儲(ちょ)蔵米があって、一朝凶歳に遇へば一時之を流用して飢民を賑はす便宜があった。
石林文書によれば藩は大凶作の為領内に廻状を発し、米穀類は年貢上納前に売払ひ又は借金の代償に返済することを禁止し、神社、仏閣の勧化等は諸公租完納後にすべしと令した。
同四年閏正月六日夜上郷、中郷、近郷七十三カ村の農民等は、大田原町方の米穀商が連年の凶作を奇貨として、不当の利益を独占しようと申合わせ、穀類を隠匿して一日より六日迄販売しないは不都合な所業であると激昂した八百人は石林道に嘯(い)集して城下におし寄せ、近郷のものは寺町吉田屋甚左衛門宅を襲い、家屋、家財を打壊して引揚ると、次いで上郷のもの上町利左衛門、寺町佐七、荒町次右衛門、材木屋越後仙右衛門、同木役庄助等の家を破壊した。
急報により藩から郡奉行大町何右衛門、代官中村段四郎徒目付等石林に出張して、各村役人を召喚し、訴願の旨意の叶ふやう取計うにつき早速取鎮めることを命じた。七日早朝村役人は石林村六右衛門方に集って訴願書を認め、十日会所に提出した。
十三日藩は近郷三十一カ村の代表を会所に召喚し理解の上抽籤にて代表者を定め手錠宿預けを命じ、近郷は久保村勝右衛門、十四日中郷三十カ村は島村茂右衛門、十五日上郷十カ村は平林村役人等が孰れも手錠宿預けとなった。
二十三日に至り一同放免せられ、又手錠宿預けとなってゐた穀商等も同時に赦された。
翌日各村役人は藩関係役人に御礼廻りをした。
三月六日石林、富山両村役人を会所に召喚して騒動につき尋問を行い八日上井口、西遅沢村、九日東遅沢、上、下関根、上中野村、十一日下井口、島、下中野村を喚問した。同日小油井村与七入牢を命ぜられ、四月十八日会所に石林村役人と富山村新左衛門、上井口戸左衛門を召出し今回騒擾に参加した村々の小前百姓より始末書を徴して差出す様命せられた。其夜石林定使五郎左衛門に申付けたところ、五郎左衛門はこの取纒めはむづかしく覚束ない事だといひ肯かない。
十九日早朝その趣を会所に申出た。藩は七ツ時(午前四時)捕吏を遣はし五郎左衛門を捕へて吟味を遂げ、城下騒擾の張本人たるを自白し、弥五兵衛、甚右衛、万治郎等の共犯も分明してその晩八ツ半時(午前三時)弥五兵衛等三人を逮捕して獄舎に籠めた。二十四日には惣郷七十一カ村より加担者十七人を捕縛した。
七月二十五日愈々裁決が下り五郎左衛門を斬首の刑に行い妻子は追放に処し、甚右衛門、万治郎は村々に張札をなした廉により同罪となる。弥五兵衛の子万吉少年は事件に関係なく十里四方御構(追放)となった。又甚右衛門の家財はその妻に、万治郎のは娘いちに下附し、いち十五歳に至るまで祖父平左衛門に預けられた。又被告等の田畑宅地は五人組預けとなった。而して石林村役人両名はこの事件の責任者として二十五日より七月十一日迄手錠町宿預けとなり且其職を免ぜられた。
また大田原藩記控書(安政二年(一八五五)二月松本幾明)には次のように記されている。
一、天明四壬辰(一七八四)正月六日中郷、狩の郷筋百姓共大勢相続候凶作穀物払庭(低)ニ付穀屋共江意恨有之町方江押寄セ及乱防(暴)候ニ付火の番、郡奉行、代官役、徒目付、小頭、足軽共為下知出役漸百姓共之内十六七人召捕右騒動頭取石林村五郎左衛門、弥五兵衛引廻しの之上打首、同村甚右衛門、万次郎村々張札等致し頭取同様打首、弥五兵衛忰万吉十八才若年無弁十里四方御構追払
右ニ付出役御目付阿久津吉郎兵衛、中小姓三人、共若党弐人鑓持小もの差遣ス
黒羽藩記『創垂可継』(文化十四年(一八一七) に天明三年~天明六年の天候を次のように記している。
天明三年(卯)(一七八三) 天候
正月 晴天廿日、 曇り六日、 雪三日
二月 晴天十九日、 曇り十一日、
三月 晴天十九日、 曇り四日、 雨六日
四月 晴天十五日、 曇り七日、 雨七日
五月 晴天十三日、 曇り十日、 雨七日
六月 晴天九日、 曇り十日、 雨十日
七月 晴天十二日、 曇り五日、 雨十三日
八月 晴天十日、 曇り六日、 雨十三日
九月 晴天十六日、 曇り八日、 雨六日
十月 晴天二十日、 曇り五日、 雨四日
十一月晴天廿四日、 曇り五日、 雨一日
十二月晴天廿五日、 曇り一日、 雪三日
収納 田方七割四厘減少
畑方壱割壱分八厘減
天明五年(巳)(一七八五)
正月 晴天廿一日、 曇り七日、 雪二日
二月 晴天十四日、 曇り十日、 雪三日、雨二日
三月 晴天十六日、 曇り十日、 雨四日
四月 晴天十二日、 曇り九日、 雨八日
五月 晴天十五日、 曇り五日、 雨五日
六月 晴天十七日、 曇り十日、 雨三日
七月 晴天十四日、 曇り九日、 雨七日
八月 晴天十二日、 曇り七日、 雨十日
九月 晴天十五日、 曇り八日、 雨七日
十月 晴天二十日、 曇り七日、 雨三日
十一月晴天十八日、 曇り八日、 雪二日、雨一日
十二月晴天廿四日、 曇り四日、 雨二日
田方四割四分四厘減少
畑方壱割五厘減少
備考
黒羽藩記『創垂可継』(文化十四年(一八一七) に天明三年~天明六年の天候を次のように記している。
天明三年(卯)(一七八三) 天候
正月 晴天廿日、 曇り六日、 雪三日
二月 晴天十九日、 曇り十一日、
三月 晴天十九日、 曇り四日、 雨六日
四月 晴天十五日、 曇り七日、 雨七日
五月 晴天十三日、 曇り十日、 雨七日
六月 晴天九日、 曇り十日、 雨十日
七月 晴天十二日、 曇り五日、 雨十三日
八月 晴天十日、 曇り六日、 雨十三日
九月 晴天十六日、 曇り八日、 雨六日
十月 晴天二十日、 曇り五日、 雨四日
十一月晴天廿四日、 曇り五日、 雨一日
十二月晴天廿五日、 曇り一日、 雪三日
収納 田方七割四厘減少
畑方壱割壱分八厘減
天明五年(巳)(一七八五)
正月 晴天廿一日、 曇り七日、 雪二日
二月 晴天十四日、 曇り十日、 雪三日、雨二日
三月 晴天十六日、 曇り十日、 雨四日
四月 晴天十二日、 曇り九日、 雨八日
五月 晴天十五日、 曇り五日、 雨五日
六月 晴天十七日、 曇り十日、 雨三日
七月 晴天十四日、 曇り九日、 雨七日
八月 晴天十二日、 曇り七日、 雨十日
九月 晴天十五日、 曇り八日、 雨七日
十月 晴天二十日、 曇り七日、 雨三日
十一月晴天十八日、 曇り八日、 雪二日、雨一日
十二月晴天廿四日、 曇り四日、 雨二日
田方四割四分四厘減少
畑方壱割五厘減少
備考
本年の天候は卯年(三年)の飢饉年に比べると平年並みであるが、収納の減少は凶作年である。此の減少は或は冷害の為めでもあろうか。
天明六年(午)(一七八六)
正月 晴天廿六日、 曇り二日、 雪一日
二月 晴天廿二日、 曇り四日、 雨四日
三月 晴天十四日、 曇り七日、 雪一日、雨七日
四月 晴天十五日、 曇り十二日、雨三日
五月 晴天十二日、 曇り十日、 雨六日
六月 晴天八日、 曇り六日、 雨十五日
七月 晴天十一日、 曇り十三日、雨六日
八月 晴天十二日、 曇り十日、 雨七日
九月 晴天十五日、 曇り九日、 雨六日
十月 晴天十八日、 曇り八日、 雨四日
十一月晴天廿六日、 曇り一日、 雨三日
十二月晴天十九日、 曇り四日、 雨四日
収納田方六割四分六厘減
畑方壱割三分六厘減少
備考
この天候記は大体五日ごとに記されてあり、最後に前記のようにまとめて記されている。なお前記のうち備考の記は昭和四十三年黒羽町で創垂可継を刊行する際、その清書担当者の記したものと思われ原本にはない。
この天候記を見ると天明三年(一七八三)は稲の成熟期に雨の日が多く低温を思わせる。また天明五年(一七八五)は五月の田植期(梅雨季)に雨が少なく干害を思わせる。天明六年(一七八六)も大体前年と同様、その上成熟期に晴天の日が少なく冷害を思わせ、さらにこれには記されていないが暴風、洪水、火山爆発等の災害が加わり、前記のような減収となったものであろう。黒羽領内の天候はそのまま大田原地域の天候でもある。
次に同書天明三年(一七八三)黒羽藩申渡覚には次のように記されてある。
天明三癸卯年(一七八三)
申渡覚
卯八月(天明三年)(一七八三)
覚え
卯十月(天明三年)(一七八三)
覚え
卯十月(天明三年)(一七八三)
覚え
右の趣町方村方組下洩れ無く申し聞かすべく候
卯十一月(天明三年)(一七八三)
覚え
卯十一月(天明三年)(一七八三)
申し渡し覚え
卯十一月(天明三年)(一七八三)
覚え
卯十二月(天明三年)(一七八三)
天明四年辰年(一七八四)
天明六年(午)(一七八六)
正月 晴天廿六日、 曇り二日、 雪一日
二月 晴天廿二日、 曇り四日、 雨四日
三月 晴天十四日、 曇り七日、 雪一日、雨七日
四月 晴天十五日、 曇り十二日、雨三日
五月 晴天十二日、 曇り十日、 雨六日
六月 晴天八日、 曇り六日、 雨十五日
七月 晴天十一日、 曇り十三日、雨六日
八月 晴天十二日、 曇り十日、 雨七日
九月 晴天十五日、 曇り九日、 雨六日
十月 晴天十八日、 曇り八日、 雨四日
十一月晴天廿六日、 曇り一日、 雨三日
十二月晴天十九日、 曇り四日、 雨四日
収納田方六割四分六厘減
畑方壱割三分六厘減少
備考
天明六年は同三年の田方減収より僅かに一分八厘の差に過ぎない。畑方は同三年よりかえって壱分八厘の増収である。とに角天明三年の大飢饉の後、同五年、六年と二年続いての凶作であるから、租税の上納は悪かった。そこで鈴木武助正長は、天明八年八月覚え書きを発令して、納税の滞納や非人に対する施米に付き警告している。
この天候記は大体五日ごとに記されてあり、最後に前記のようにまとめて記されている。なお前記のうち備考の記は昭和四十三年黒羽町で創垂可継を刊行する際、その清書担当者の記したものと思われ原本にはない。
この天候記を見ると天明三年(一七八三)は稲の成熟期に雨の日が多く低温を思わせる。また天明五年(一七八五)は五月の田植期(梅雨季)に雨が少なく干害を思わせる。天明六年(一七八六)も大体前年と同様、その上成熟期に晴天の日が少なく冷害を思わせ、さらにこれには記されていないが暴風、洪水、火山爆発等の災害が加わり、前記のような減収となったものであろう。黒羽領内の天候はそのまま大田原地域の天候でもある。
次に同書天明三年(一七八三)黒羽藩申渡覚には次のように記されてある。
天明三癸卯年(一七八三)
申渡覚
一今年夏中より暑気弱く、長雨冷気打積み、諸作宜しからず候由、第一稲穂出遅れ、時期を違い候由、この如き不順にては実入りの程甚覚束無く候、さて又諸国に於ては山つなみ、或は石砂降り、田畑皆無人馬夥しく死に失せ、洪水前代未聞と申すべき程の大変追々相聞え、驚き入る事どもに候、此の如く天変発り候ては、此の上如何様の儀にて飢饉にも及ぶべきも計り難く、恐るべき時節に候得ば、村々に於ても別けて相慎み、悪しき風俗を改め、遊戯深酒等の費は申すに及ばず、総て奢り怠りこれ無き様人々心がけ、倹約を行う様相守り、食品少々づつも食い伸ばし、飢を免れ候様に勘弁致すべき事
一かねて天変飢饉を恐れ、倹約を忘れず、奢り怠りこれ無様、明和七寅年七月、村々へ申し渡し御触これ有候得ども愚昧の者多く、天変飢饉など申す儀、当世はこれ無く、昔有り候様に心得、御慈悲の御下知も等閑に承り、農業疎略に致し、身楽しみの奢りを好み、金銭にのみ心を寄せ、或は深酒或は不行儀の遊興、不束者のこれ有る由、名主頭立ち候者どもゝ段々怠り、組下導き教え候筋も、近頃は別けて、不行届きの趣きの村方間々相聞え、不届の至りに候。然る所今年諸国近境迄、段々不思義の天変発り候儀、前条の通り故、国々諸家に於ても御用心これ有る儀と相見え、倹約の御下知又は穀止め等の御沙汰も相聞え、さて又上方より江戸表迄、当春以来米穀至って高値の次第、人々承知の儀にこれ有るべく候、是れを以って世上一統米穀払底の証拠弁え知るべく候、此の上に又々長雨、大風、大霜、不時の天変発(ママ)り候は、何を以て身命をつなぎ申すべきや、諸国一統の飢饉と申す時節に至りては、金銭を以て身命はつなぎ難く候間、かねて此の儀を慮り恐れ慎み、食品第一に心がけ、田畑を尊び、粗略油断の儀仕るまじく候事
一東郷山間の村方は蕨(わらび)を掘り候類の儀、又明き畑へ菜を多く蒔き付、冬春の食に心がけ候類の儀、此の節専ら怠り無き様、女童迄も申し聞かせ、日々相応の稼ぎ致させ、怠り者、遊民決してこれ無き様名主を始め頭立ち候者ども、心を尽し取り計らい教示申すべき事。右の通り町方村方ともに洩れ無き様申し聞かすべく候。若し此の上不届等閑(なおざり)の儀相聞えるに於ては、越度(おちど)たるべき者なり。
卯八月(天明三年)(一七八三)
覚え
一此の間一統御触れこれ有る通り、米穀払底にて、諸国穀留め等これ有り、此の後の儀甚だ危く候間、当御領内よりも米穀を他所者へ相払い、或は貸し出し候事は、暫らくの間遠慮致すべく候。それとも拠り無き訳にて米穀他所へ出し候は、その次第伺い申し達しの上に差し出すべく候。
卯十月(天明三年)(一七八三)
覚え
一非人ども村々に相廻り、籾、麦雑穀等、定式貫いの儀、当年凶作困窮に付き、施し物減少致すべき儀、且極貧の者は施しかね候儀もこれ有るやに候間、押してねだれがましき儀仕らず、何分にも其の意に任せ申し上ぐべき沙汰に及び候事。
一近国一統の凶作に付いては、無宿者徘徊致し、物騒の儀も計り難く候間、非人ども別けて心を付け度々見廻り候様沙汰に及び、村方へ対し右儀の勤め致し候儀もこれ有るべく候間、村方にても此の儀を弁え、かまど相応に施し助け申すべく候。尤も今年柄の事に候間、雑穀の外木の実の類、蕨粉の類なりとも、志し次第に施し申すべき事。
一八溝上の坊、下の坊、奥沢村御山の坊、向町念仏堂、寺宿村薬師堂など定式村々相廻り候者へも、今年施し物減少これ有るべき儀に候間、其旨相心得候様、右の通り町方村方組下へ申し聞かすべく候。
卯十月(天明三年)(一七八三)
覚え
一穀物、野菜、煙草、薪の類盗み取る者これ有る段相聞え候。右に付き向後暮六ツ、明け六ツ持下げの品、背負物、馬に附け物、他所往来の者たりとも、町方村方誰にしろ、行合い候者より相尋ね聞き届け、若し疑わしきを存じ知りながら、等閑に致し、見逃し候者、後日に相聞え候は、同罪の咎申し付くべく候事。
右の趣町方村方組下洩れ無く申し聞かすべく候
卯十一月(天明三年)(一七八三)
覚え
一米穀払底に付き、町方村方ともに、酒屋ども新酒を仕入れ候儀、容易に仕るまじく候。若し少したりとも隠し使いに米を潰し候儀相聞え候は、越度たるべく候。
卯十一月(天明三年)(一七八三)
申し渡し覚え
一上にも段々御物入後に至っては、差支えに候得ども、村方御救いなされ候御手も届きかね候得ども、何れにも餓死人これ無き様なされ度き思召に候間、名主、組頭並びに村長の者ども、くわしく念入れ、万一餓死にも及ぶ体の者これ候わゞ、早速何々か饋(おく)り遣わし一両目を送らせ、早々申達すべく候、右救い候入用の穀は上より下し置かるべく候間、何分にも宜しく取り計らい申すべく候。尤も名主とても組下、遠方はくわしく存じかね候儀もこれ有るべきやに候間支配下百姓へとくと申し含め、組内近所かねて難儀の者へは、別けて心を付け、折々尋問候様に致さすべく候。近辺にてもめんどうに存じ、餓死体に至り候者を存せず体(てい)などに打ち捨て置き申まじく候。但し御救えの儀右に申し候通り、大勢になり候ては、御手届きかね候事に候間、極々の困窮にて一飯を過しゝ者、老人、病人片輪者の独身などの寄り所無き者どもへ、くわしく心を付け、取り計ろうべく候。村離れ家々などは、別けて是れ又心を付け申すべく候事。
一穀物貯えこれある者、近辺の難儀を救いに志し、宜しき者これ有らば、其村名前救い候穀の高(たか)、追て書き上げ致すべく候。右穀物の価は筋により、上より下し置かれ候儀もこれ有るべく候。猶又御褒美もこれ有るべく候間、組下の貯えこれ有る者よりは、相応に相救い、餓死人これ無き様取り計らい肝要に候事。
卯十一月(天明三年)(一七八三)
覚え
一御領内穀留めの儀、先達って相触れ候所、雑穀類他所へ差し出し候者もこれ有様に相聞え候。米の儀は申すに及ばず、雑穀何品によらず、御免の御沙汰これ有迄は、決して差し出し申すまじく候、若し相背き候者相聞えるに於ては、越度たるべき事。
一村方町方雑穀類、貯えこれ有る手前、飯料の余分これ有る者は、御領内最寄難儀の者へ、相対をもって相応に貸し渡し申すべく候。右返済の節相滞候儀これ有らば、何分にも上より御下知下し置かれ、貸し人損失これ無き様なし下さるべく候間、気遣い無く救い申すべき事。
一先達も相触れ候通り、孤独者の類、餓死にも及ぶべき体の見聞き救い候は、其の人に依って上より代金にてなりとも、穀物にてなりとも、追って下し置かれ候儀もこれ有るべく候、是れ又返済の遠慮無く、急変を救い候様相心得べく候事。
卯十二月(天明三年)(一七八三)
天明四年辰年(一七八四)
米穀値段甚だ引き上り候儀町方穀屋ども私欲を致す事にもこれ有るやと、村々愚昧の者ども専ら疑心を致し、近辺他領騒動の沙汰数ヶ所相聞え候に付き、左の趣(おもむき)、札に書き記し、町方穀屋ども店先へ、掛け置き候様沙汰に及び候
覚え
一白米 金壱分に付き 九升
代百文に付き 六合五夕
米壱升代 百四拾八文
一餅白米 右同断
一大麦 金壱分に付き 上壱斗五升
中壱斗五升五合
下壱斗七升五合
一小麦 金壱分に付き 壱斗四升
一稗 金壱分に付き 上七升五合
中八升
一大豆 金壱分に付き 壱斗五升
百文に付き 壱升五合
壱升代 八拾八文
一銭 売壱〆三百四拾八文
差引壱〆三百五拾文
右の通りに御座候
辰閏正月(天明四年) (一七八四)
申し渡し覚え
右の趣組下へ洩れ無き様申し聞かすべく候。
辰閏正月(天明四年)(一七八四)
他領諸所騒動相聞え、愚昧の者疑い虚説雑説を以って、町方穀屋を恨み候沙汰に付き、左の通り相触れる。
辰閏正月(天明四年)(一七八四)
覚え
右の趣きは明和五丑年相触れ候得ども猶又沙汰に及び候。
辰六月(天明四年)(一七八四)
覚え
但し先達って書き出し置き候村々は、再改むるに及ばず相済み候事。
辰七月(天明四年)(一七八四)
覚え
右の趣組下に洩れ無き様申し聞すべく候。
辰九月(天明四年)(一七八四)
天明五乙巳年(一七八五)
覚え
右の趣き相心得、組下洩れ無く申し聞かすべく候
巳正月(天明五年)(一七八五)
(以上昭和四十三年六月黒羽町教育委員会刊行 創垂可継農商暁諭より)
以上により天明三年、五年、六年は悪天候で農作物の減収が甚だしく、ことに天明三年は最も甚だしかったことが知れる。なおこれには記されてないが天明二年及び四年も順調な天候でなく、五年にわたる不作続きで農村は疲弊し、多数の潰れ家と人口減少をきたしている。
親園地区実取、森重氏文書によると
鷹ノ巣、三斗内村宗門人別改帳
戸数 人口 馬頭数
宝暦十年(一七六〇) 三三 一八一 二一
明和六年(一七六九) 二六 一五七 一八
寛政六年(一七九四) 二六 九二 六
となっている。天明期は明和、安永の次、寛政の前で、これによって人口数は寛政期には明和期の半数、馬数も三分の一以下となり、戸数も激減していることがわかる。寛政六年(一七九四)は天明六年(一七八六)より十年後のことで、戸数が同数なのは潰れ家を再興した夫婦連れのみの者が多かったためではなかろうか。それは未だ馬を養う程度に至らなかった貧しい人々の多かったことが、馬の頭数からも察せられる。
ここは幕府直轄の天領であり、救済の手も藩領や旗本領より早く手回しされたであろうのにこのありさま、藩領、旗本領の苦しみはいかほどであったか想像に余りがある。そのありさまは前記創垂可継の記がよく物語っている。なお米価について見ると、平年であった天明元年(一七八一)は一升が七十文程度、それが天明三年(一七八三)暮れから天明四年(一七八四)春には二倍以上の百四十八文と暴騰している。
このような状勢下に起こったのが、天明の農民騒動である。創垂可継記では農民は虚説を信じて米穀取扱いの商人を襲ったと記しているが、斬首をも怖れず自分達の意志を主張したのはそれが単なる虚説許りとは言い得なかったように思うのである。
なお前記石林文書に記されている弥五兵衛は、現在西那須野町石林小高勝衛氏の祖で、天明四年(一七八四)六月二十五日打ち首、同一門(名不詳)も同日打ち首となり、両者の碑が残されている。
天明四甲辰年六月二十五日
理覚常照信士
弥五兵衛 行年五十壱才
天明四年 六月二十五日
覚剣道信士
六右衛門立之
この天明期における凶作はいかに農村を疲弊困窮させ、しかもそれは後々まで続いたかを物語る次の史料がある。
天保二年(一八三一)家数人別調書
松野啓次郎
両知行所
久世伊勢守
一高九百三拾六石
内高四百五拾壱石九升 荒地川欠高
高三拾石壱斗壱升 越石高村余荷
高拾石弐斗五升 寺方村余荷
高五石三合 山伏高村余荷
安永二巳年(一七七三)(安永五年の間違いではなかろうか)
一家数百六軒 馬八拾疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別四百拾四人 男弐百壱人
女弐百拾壱人
天明六年(一七八六)
一家数六拾壱軒 馬四拾八疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別弐百三拾五人 男百九人
女百廿四人
文政十三寅年(天保元年)(一八三〇)
一家数四拾三軒 馬弐拾疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別弐百拾壱人 男九拾人
女百拾九人
内訳
寺 壱ケ寺
山伏壱ケ寺
拾軒出奉公ニ而諸役村余荷
常弐拾壱軒 諸役村余荷ニ御座候
残弐拾弐軒
内 七軒
拾五軒 往来役其外諸役相勤候百姓
右之通りニ御座候以上
那須郡宇田川村
天保二卯年(一八三一) 名主 民治
正月日 同 幸三郎
御地頭所様
御役所
これは天保二年(一八三一)、当時宇田川支配領主松野啓次郎、久世伊勢守両旗本役所へ、宇田川村の民治及び幸三郎の両支配名主が届け出した安永二年(一七七三)、天明六年(一七八六)、文政十三年(一八三〇)の村内の戸数、人口、馬数で、これを以て見ると安永二年より五十七年後の文政十三年には、家数は百六戸より四十三戸と半数以下、人口は四百十四より二百十一とほとんど半数、馬数は八十より四分の一の二十といずれも激減しており、安永二年の一戸平均人数は約四人であったのに、文政十三年には五人となっており、これは家族数の少なかった貧農層が潰れ家となったことを物語っている。
なお僧及び山伏の数の変わっていないことは、農家の戸数と人口の減少であり、いかに彼らが疲弊困憊(こんぱい)したかが知れよう。しかもこのの減少は天明の飢饉に基づくことは、天明六年(一七八六)の各数を安永二年(一七七三)期の数と比較してみれば一目瞭然である。この数をみただけでも、天明期の凶作がもたらした悲惨な状態がどのようなものであったかが想像できる。
覚え
一米並びに雑穀値段の儀、当時買い入れ値段を現わし、並びに駄賃諸掛り物等、差し引きに利分至って軽く商ない、貧(むさぼ)る者どもを恵み救い候様に、此の度、別て仰せ渡され御座候に付き、左の通り相場書き上げ商売候
一買い置き貯えの為め、大買い致し候者へは、容易く売り渡し申さず、極貧の衆細かに調べ候方へばかり売り渡し、米穀手切れこれ無き様、是れ又仰せ付けられ、依って少々づゝならでは、商ない相成り申さず候。当時相場左の通り
一白米 金壱分に付き 九升
代百文に付き 六合五夕
米壱升代 百四拾八文
一餅白米 右同断
一大麦 金壱分に付き 上壱斗五升
中壱斗五升五合
下壱斗七升五合
一小麦 金壱分に付き 壱斗四升
一稗 金壱分に付き 上七升五合
中八升
一大豆 金壱分に付き 壱斗五升
百文に付き 壱升五合
壱升代 八拾八文
一銭 売壱〆三百四拾八文
差引壱〆三百五拾文
右の通りに御座候
辰閏正月(天明四年) (一七八四)
申し渡し覚え
一村方にて雑穀何なりとも、食事に相成るべき品貯え置き候者どもこれ有り、手前家内の人数相応の扶食を積もりかこい置き、残余分これ有り候わば、多少によらず相改め、書き付け差し出すべく候。此の以後上よりの御手届きかね候節、餓死にも相なるべき者どもへ、御救いの補い致させ候間、隠し置かず、正直有り体に申し達すべく候。
一此の節少したりとも、食物差し出し飢饉を救い候儀は、重き善行に候間、先達って御触れこれ有り、且つ明細帳面相記し置き、又は証文取り置かせ、代金の儀は当分の相場を以って返済致させ、若し相済み難き者これ有らば、吟味の上、上より下し置かるべく候間、後に返済滞りの儀を気遣い無く、此の節の儀はなるたけ差し出すべく候。
一此の節少したりとも、食物差し出し、飢饉を救い候儀は、重き善行に候間、先達って御触これ有る通り、筋により御褒美もこれ有り、且つ明細帳面に相記し置き、又は証文取り置かせ、代金の儀は当分の相場を以って返済致させ、若し相済み難き者これ有り候わば、吟味の上、上より下し置かるべく候間、後に返済滞りの儀を、気遣い無く、此の筋の儀はなるたけ差し出すべく候。
一雑穀貯えこれ有る者ども、斯の如き天変飢饉の時節を隠し置き候か、又は他所へ出し穏し売り等斯の筋相聞えるに於ては、吟味を遂げ急度咎め申し付候間、其の旨相心得べく候事。
一村々貯えこれ有る者どもへ、村内貧窮人と自分相対熟談にて借用致し候儀は、格別大勢申し合わせ、当人不得心の儀を押して借り候儀、決して仕るまじく候。若し雑穀過分に所持致し、隠し置き候者これ有らば、押し借り申しかけず、右の趣きを上へ申し出ずべく候。貯えこれ有る儀相違無く候は、分散の御下知下し置かるべく候。党を結び強勢の儀致し候は、重咎め申し付くべく候事。
一名主並びに頭立ち候者どもより、貯えこれ有る百姓へ相対し、熟談を以て借り候様、組下極貧の者を糺し、餓死体に至るべき者へ配分の儀は、随分出精取り計らい申すべく候。若し右の御下知に背き候者これ有らば名主頭立ち候者よりも、申し出ずべく候等閑(なおざり)に致し置き候村方相聞え候は、越度(おちど)たるべき事。
右の趣組下へ洩れ無き様申し聞かすべく候。
辰閏正月(天明四年)(一七八四)
他領諸所騒動相聞え、愚昧の者疑い虚説雑説を以って、町方穀屋を恨み候沙汰に付き、左の通り相触れる。
一町方穀屋ども旧冬より米穀下値に買い入れて置き、当春段々高値に売り出し、或は買い置きの米穀多く所持致しながら、表向きは乏しき体に〆売り致し、専ら邪欲の功と申しふれ候虚説に迷い、穀屋を疑い恨み候者数多これ有り候段相聞え候に付き、此の度町方米穀総改め、仰せ付けられ候所、町方買い置きの米穀至って少なく、存じの外なる事にて、此の売り続きの程甚だ覚束無く見え候。さりながら此の後も穀屋どもの働き工面を以て、諸所より少々づつも買い入れに致し、何卒米穀切れこれ無き様才覚仕るべき旨、猶又仰せ付けられ候。右の次第に候得ば、いわれなき疑いを以て、穀屋を恨み悪説虚疑を申し出で、愚昧の者を迷わせ、騒々しき儀、決して仕るまじき事。
一穀屋どもへは追々申し付け、先達て家毎に掛札等も致させ、猶又此後総改めの上、いよいよ過当の利分を取らず、随分貧民を助け候様に売り仕るべき旨沙汰に及び候。万一以後邪欲不筋なる売り方致し候穀屋しれ有り候は、上へ申し達すべく候ば、吟味下し置かるべく候事。
一前条の通りいわれ無き事に、虚説悪説を申し出し、穀屋を恨み悪み候得ば、愚なる者どもは実に心得此以後騒々しくもなり候ては、穀屋ども甚だ心外の至りに付き、米穀買い入れの働き、出精無き様にも相成り候ては、御領内一統の難儀いよいよ増し、困窮相募り外に通用の致し方これ無しと申す儀を、百姓どもとくと弁え候様に、名主を始め頭立ち候者どもより教え聞かせ取りおさめ申すべく候。皆人存じの通り此の節に至りては、他所何方も厳しく穀止めの儀に候得ば、黒羽御領内の者どもには、黒羽よりの外に米穀の通用、当秋迄はこれ無き儀と相見え候。然る所前文の通り、粗忽なる者ども分別無くなり、不筋を仕出し候は、町方必至不通用に相成り、御領内一統へ差し障り、大罪にも相成るべく候間、心得違いの者これ無様、くわしく道理を説教申すべく候事
一町方よりなりとも、村方よりなりとも、他所へ忍びの出穀これ有るを見かけ候わば、何方にてなりとも差し押え申し出ずべく候。差し押え者へ其の穀物下し置かれ候分に申し付くべく候間、夜分は別けて心を付け、友吟味の儀油断仕るまじく候事
辰閏正月(天明四年)(一七八四)
覚え
一此の以後天病疫病類これ有る村方、一村五人も同病症出来候て、時行(はやり)に相見え候は、代官迄申し達すべく候。右病い除けの御薬等壱じょうずつ、其の近辺の人別に下さるべく候。但し同村組下たりとも、病家より遠方は書き出し申すまじく候。他村たりとも病家に近き所の者どもは、右の通り人別を申し達し、壱じょうずつ頂戴仕るべく候。
右の趣きは明和五丑年相触れ候得ども猶又沙汰に及び候。
辰六月(天明四年)(一七八四)
覚え
一秋以来当春夏迄、貯えの米穀並びに金銭を貸し候て、飢え人を助け救い候者これ有らば借人の名前貸人の名前、並びに米穀金銭の員数書き出し申すべく候。尤も差しいそぎ候事にはこれ無く候間、来月中迄に手すきの節、念入れ相改め、洩れざる様書き上げこれ有るべき事。
但し先達って書き出し置き候村々は、再改むるに及ばず相済み候事。
一豌豆と蕨の粉食い合わせ候得ば、腹張り死に至る者多くこれ有る由、古書に相見え候間、村々にて心得居り、同食これ無き様致すべく候。豌豆一名はぶんどう、又八重なり小豆とも申し候由、弁え居り申すべき事。
辰七月(天明四年)(一七八四)
覚え
一去秋以来飢饉に付き、葛、蕨等の山食にても取り積み難く、拝借御救いに願い出で、又は村方名主取り計らい、友救いの助成を以って、漸く身命を継ぎ居り候極貧の者の内にももはや当秋には心ゆるみ、当春の難儀を忘れ、山地の食取り集めのかせぎも致さず、来春飢えに及ぶ勘弁もこれ無く油断に日を送り、其の上当時奢り付き候者間々これ有る由相聞え、不届きの至りに候。右体の怠り者見聞き候は、名主組頭は申すに及ばず、頭立ちの者どもより、速かに意見教えを加え戒しめ申すべく候。五人組並びに近辺坪内にても友吟味致し、奢り油断を戒しめ、食物を費し候儀、第一に相慎み候様申し合わすべく候事。
一村々にて五穀物貯えこれ有る者ども候、当春以来友救い引き散し、其の上麦作秋作も前々へ引渡し食い込み候得ば、段々食物払底に相成るべき儀必定に候。御役所にても去る秋以来御救い米金夥しく、御物入りの儀候に候得ば、此の上は御救いの御手も届き難く候間、当春より来夏迄の取り積みは、反って当春よりも難儀の者これ有るべきやと察せられ候。右に付き其の節より前条の通り、野の食品心がけ、倹約の筋怠りこれ有るまじく候事。
右の趣組下に洩れ無き様申し聞すべく候。
辰九月(天明四年)(一七八四)
天明五乙巳年(一七八五)
覚え
一此の節庖瘡これ有り候とも、祝い向きの儀は、すべて事軽く物入りこれ無き様致すべき旨、御家中並びに諸奉公人へも御触れこれ有る儀に候。村方町方にても猶以って倹約を相心得、凶年後の儀に候間、別段に事軽く、祝い物取り替えもこれ無く相済み候様申し合わすべく候事。
一前々の御触れ書き出で候節、組下へくわしく申し聞かさず、等閑なる役人もこれ有る段相聞え、不束の至りに候。総て御触れ御下知、組下へ行き届き候様取り計らうべく候事。
右の趣き相心得、組下洩れ無く申し聞かすべく候
巳正月(天明五年)(一七八五)
(以上昭和四十三年六月黒羽町教育委員会刊行 創垂可継農商暁諭より)
以上により天明三年、五年、六年は悪天候で農作物の減収が甚だしく、ことに天明三年は最も甚だしかったことが知れる。なおこれには記されてないが天明二年及び四年も順調な天候でなく、五年にわたる不作続きで農村は疲弊し、多数の潰れ家と人口減少をきたしている。
親園地区実取、森重氏文書によると
鷹ノ巣、三斗内村宗門人別改帳
戸数 人口 馬頭数
宝暦十年(一七六〇) 三三 一八一 二一
明和六年(一七六九) 二六 一五七 一八
寛政六年(一七九四) 二六 九二 六
となっている。天明期は明和、安永の次、寛政の前で、これによって人口数は寛政期には明和期の半数、馬数も三分の一以下となり、戸数も激減していることがわかる。寛政六年(一七九四)は天明六年(一七八六)より十年後のことで、戸数が同数なのは潰れ家を再興した夫婦連れのみの者が多かったためではなかろうか。それは未だ馬を養う程度に至らなかった貧しい人々の多かったことが、馬の頭数からも察せられる。
ここは幕府直轄の天領であり、救済の手も藩領や旗本領より早く手回しされたであろうのにこのありさま、藩領、旗本領の苦しみはいかほどであったか想像に余りがある。そのありさまは前記創垂可継の記がよく物語っている。なお米価について見ると、平年であった天明元年(一七八一)は一升が七十文程度、それが天明三年(一七八三)暮れから天明四年(一七八四)春には二倍以上の百四十八文と暴騰している。
このような状勢下に起こったのが、天明の農民騒動である。創垂可継記では農民は虚説を信じて米穀取扱いの商人を襲ったと記しているが、斬首をも怖れず自分達の意志を主張したのはそれが単なる虚説許りとは言い得なかったように思うのである。
なお前記石林文書に記されている弥五兵衛は、現在西那須野町石林小高勝衛氏の祖で、天明四年(一七八四)六月二十五日打ち首、同一門(名不詳)も同日打ち首となり、両者の碑が残されている。
天明四甲辰年六月二十五日
理覚常照信士
弥五兵衛 行年五十壱才
天明四年 六月二十五日
覚剣道信士
六右衛門立之
この天明期における凶作はいかに農村を疲弊困窮させ、しかもそれは後々まで続いたかを物語る次の史料がある。
天保二年(一八三一)家数人別調書
松野啓次郎
両知行所
久世伊勢守
一高九百三拾六石
内高四百五拾壱石九升 荒地川欠高
高三拾石壱斗壱升 越石高村余荷
高拾石弐斗五升 寺方村余荷
高五石三合 山伏高村余荷
安永二巳年(一七七三)(安永五年の間違いではなかろうか)
一家数百六軒 馬八拾疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別四百拾四人 男弐百壱人
女弐百拾壱人
天明六年(一七八六)
一家数六拾壱軒 馬四拾八疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別弐百三拾五人 男百九人
女百廿四人
安永年中より追々潰百姓多分ニ而人少相成本高勤兼猶又蛇尾川四ケ所田水堰締切普請人足千人余も相掛り御傅馬役難相勤天明六午年出願永久半高御免被仰付候
文政十三寅年(天保元年)(一八三〇)
一家数四拾三軒 馬弐拾疋
内寺 壱ケ寺 僧壱人
山伏壱ケ寺 内 山伏壱人
人別弐百拾壱人 男九拾人
女百拾九人
内訳
寺 壱ケ寺
山伏壱ケ寺
拾軒出奉公ニ而諸役村余荷
常弐拾壱軒 諸役村余荷ニ御座候
残弐拾弐軒
内 七軒
拾五軒 往来役其外諸役相勤候百姓
右之通りニ御座候以上
那須郡宇田川村
天保二卯年(一八三一) 名主 民治
正月日 同 幸三郎
御地頭所様
御役所
(宇田川文書)
これは天保二年(一八三一)、当時宇田川支配領主松野啓次郎、久世伊勢守両旗本役所へ、宇田川村の民治及び幸三郎の両支配名主が届け出した安永二年(一七七三)、天明六年(一七八六)、文政十三年(一八三〇)の村内の戸数、人口、馬数で、これを以て見ると安永二年より五十七年後の文政十三年には、家数は百六戸より四十三戸と半数以下、人口は四百十四より二百十一とほとんど半数、馬数は八十より四分の一の二十といずれも激減しており、安永二年の一戸平均人数は約四人であったのに、文政十三年には五人となっており、これは家族数の少なかった貧農層が潰れ家となったことを物語っている。
なお僧及び山伏の数の変わっていないことは、農家の戸数と人口の減少であり、いかに彼らが疲弊困憊(こんぱい)したかが知れよう。しかもこのの減少は天明の飢饉に基づくことは、天明六年(一七八六)の各数を安永二年(一七七三)期の数と比較してみれば一目瞭然である。この数をみただけでも、天明期の凶作がもたらした悲惨な状態がどのようなものであったかが想像できる。