第二節 天保の騒動

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 天保三、四、五、六、七、八年(一八三二~一八三七)の五年間は、天明年中五年間(一七八二~一七八六)の凶作にくらべられる凶作の年で、ことに天保八年(一八三七)は天明三年(一七八三)と同様の大凶作であった。また天明期と同様奥羽地方はことに甚だしく、食を求める人々は南の国々へ移ったが途中行き倒れのもの数知れずといわれる。
 この時の状態について記した大田原藩記録は未だ発見されていないが、今に至るまで当時の惨状が近郷農村に言い伝えとして残っている。その言い伝えには野の草で食料に供し得るものはすべて採取して食料に供し、また藁まで細かにして食しており、楢の実も同様食したといわれている。
 このような状態にもかかわらず農民は貢租を課せられたことは同様で塗炭の苦しみをしたことは想像に余りがあり、それに対して反抗があったこともまた当然で、当時大田原領農民が騒動を起こしたことが旗本久世伊勢守領分にあった。大田原市倉骨名主郡司太郎右衛門の手記に左のように記されている。
大田原様御領分石林村強訴之事
(天保九戌年(一八三八))十二月廿八日大田原より十町北御経塚境稲荷江凡三百人余押寄る 大田原宿ニ而ハ一向不存居る処廿八日八ツ時分(午後二時)御家中より足軽壱人罷越候処右寄手のものを見付驚立かいる。
右の趣申上候処一家中大き驚足軽を以荒町辺より見渡せハ凡五百人余と相見い申候
夫より御奉行、代官、千代の者引つれ馬上にて罷出申候
夫より町方人足町木戸に相詰可申由被申渡町人棒、とび口杯持参いたしかため居る。三奉行、代官、場所に罷越色々利解申聞候処大勢之事即ニ手向も無覚束相見以無拠願筋聞済可申由被 仰出候処頭取摂しき物罷出願面差上る。早速取上可申上由ニ候間寄手者差控居然処西郷江廻文廻次第惣百姓押出し烏ケ森に六百余人余、大貫山ニ三百人余都合九百人程寄手有且三奉行、三代官、御家老、御用人一家中集メ願書開封ス
大田原宿にて年々賃銭五割増し助郷江割出し不申百姓難儀及候事、其外ニ七ヶ条阿(あ)り御家中差合有之右願取上宿村ニ一人荒井村、大和久村壱人宛入路(ママ)ふ(牢)町方年寄、町名主、問屋、馬さし等問屋随心の者皆入路ふ(牢)諸家中或ハ病気或ハ出奔御吟味自身ニ被遊大和久、荒井御免ニ成其後御吟味殿様(愛清)自身ニ被遊候
頭取申上義ハ是迄問屋取込金子六百両余有之候越問屋の私欲に致し居候越取出し殿様江も差上度恐多くも右之筋取斗候と申上ル右頭取之儀ハ私壱人ニ相違無之候と申上ル右ニ口書定御領追払ニ成る。

 この手記文面では騒動の原因は助郷役に対する百姓達の難儀と不作時における町の悪徳商人に対する不満によるものであるが、その背景には天保期の不作がその起因であることは間違いない。
 この期の悪天候と不作、それに伴う各種の問題について、郡司太郎右衛門(前記)は次のように記している。
  癸巳(天保四年)(一八三三)凶作之事
 田方実入―三歩(分)~四歩(分)
 畑方―――四歩(分)~五歩(分)
 四月十七日―日輪血之如し、必違作と東方朔ニ有疑なし。
 当秋米直(ママ)段
 一金壱分ニ付 白米八升
 一金壱分ニ付 稗(ヒエ)米九升
 一金壱分ニ付 麦米壱斗弐升
 一金壱分ニ付 小麦壱斗八升
 一金壱分ニ付 大豆壱斗五升
 一金壱分ニ付 花石(?)壱斗七升
 穀物高値世の中騒敷
十二月十三日大雪降事五尺余、風よど(吹溜り)杯(など)九尺余、乞食、非人多ク死ス。盗人きたらず。巳(天保四年)暮より午(天保五年)の春迄雪有、正月雪上氷なる。渡り通る。

 栗木の実多くなる。
 このような凶作であったため百姓達は重役方へ作柄調(検見)を願い出ている。
 御検見之事
 重役方検見 村役人内見之上
合毛付帳面取調引米勘定村役人ニ而仕立江戸表差上申事、但シ於地頭所(領主久世氏出先役所―佐良土)ニ手不足故御検見ニ不相成ならし引

 一御引方漸(ようやく)四分五厘
 一御拝借有
 午の年(天保五年)定免御上納いたし候
 
 このように作柄調べを願い、そして上納減額を請うたが、広い地域全体を調査するに足る数の役人もなかったため、平均四分五厘引とし、上納の米と銭とは翌年春やっと済ませている。
 翌天保五(午)年(一八三四)も天保六(未)年(一八三五)も不作で、天保六年(一八三五)には三分引を認められている。明けて天保七年(一八三六)(申)は前の天明三年(一七八三)にくらべられる悪天候と天災、それにつれての大凶作、郡司家文書にはこの年のことを次のように記している。
申の年(天保七年)(一八三六)凶作之事
四月中日輪血の如し、必違作と東方朔に相見い(え)申候
七月大風の次第十八日朝より雨降り、辰巳(南々東)風吹夫より南方へ廻る。大風いしをうこかし、砂をとはし、家をやぶる。大木倒れ諸作いたむ。
当村の家を破りし事
嘉右衛門家二~三尺裏イ(ヘ)まがる。弥惣右衛門同段(断)、伊右衛門同段(断)
御高札場破レ、粂右衛門隠居吹潰レ、喜右衛門あまや同段(断)重吉あまや同段(断)
御林立木松凡千本余吹倒
川々満水、田畑水おし
追々諸作あしく、九月三日より九日迄六日の間大霜降

 
 これに記されている九月三~九日は陰暦で大体現在の十月初旬、当時はこの時期頃が稲の成熟期、そのような時期に六日に及ぶ大霜、稲作に及ぼした大被害がいかに甚大であったかが想像されよう。ために久世氏の領民一同は作柄取調方を願い出ている。
御検見願之事
村役人内見帳面差出し、重役方内見の上坪刈等いたし、引米勘定取調江戸表差出し申事、江戸御屋鋪(ママ)御手不足ニ付、御検見御見合ならし引
十ケ村御引方の事
佐良土村、亀山村 九歩(分)御引方
倉骨村      七歩(分)引
宇田川村、三色手村、青木村、若目田村、桜井村、上山田村、下山田村、六分五厘引永方御上納行届兼、天明年中の例を以て田畑起返し、手宛金十ケ村江金百弐拾三両願立叶わず、但し御年貢米御払相場金拾両ニ付六俵位之処、金拾両ニ八俵ノ安直(ママ)段

 
 以上によってこの年の悪天候と不作の状況を知ることができる。即ち甚だしい所は一分作、大田原地域内は大体三分作、しかもこれは領主側の見積りで実情はさらに甚だしかったかとも思われる。そしてこれは久世領内のみでなく、大田原領全域も同様であったことは明らかなことである。
 なお同書には当時の主食物相場及び状況を次のように記している。
 申ノ暮(天保七年)(一八三六)
 一金壱分ニ付 白米 五升五合
 一金壱分ニ付 稗米 右同断
 一金壱分ニ付 麦米 七升
 一金壱分ニ付 小麦 九升
 一金壱分ニ付 大豆 壱斗
 盗人多し
 乞食多し
 これを前記天保四年(一八三三)に比べるといかに暴騰したかがわかる。さらに他の参考書によると天保三年(一八三二)の二倍余となっている。
 次いで同書に天保八年(一八三七)のことを次のように記している。
 酉春(天保八年)御救米下され候事
 十ケ村窮民の者御救米代金三十両被下右村々割合
  御救米頂戴致し候もの左の通
 一家内三人 鉄蔵   一家内壱人 半右衛門
 一家内六人 金太郎  一家内三人 与右衛門
 一家内四人 幸内   一家内三人 嘉右衛門
 一家内三人 勇吉   一家内弐人 利右衛門
 一家人三人 粂蔵
 一平井弥五太夫様勤役中御仕法差米之義ハ飢饉之砌り御下ケ下さるはづゆゑ奉願上処相叶
 
 当時倉骨村は十八軒、内半数の九軒は右のように救米によってやっと露命をつないだようである。なおここで注意しなければならないことは、当時の宗門人別改帳が見当たらないため詳細は不明であるが、右の記録で見ると九軒の総人数は二十八人で、一戸平均三・一人に過ぎぬ。これは己自身の食物さえ差し支えているありさまゆえ、生まれる子は堕胎、または闇から闇へ葬るいわゆる間引が行なわれたためで、いかに当時農民達が困窮していたかを知ることができる。
 次いでこの年の主食物相場について次のように記されている。
 酉(天保八年)(一八三七)春米値段之事
 一金壱分ニ付 白米 四升五合
 一金壱分ニ付 申年悪米 五升
 一金壱分ニ付 麦米 六升五合
 一金壱分ニ付 小麦 七升
 一金壱分ニ付 稗米 四升五合
 稗粕百文―三升 塩百文―六合
 これは天保期の前、文政期の三倍の高相場である。また食料としてはほとんど考えられぬ稗(ヒエ)粕がこんな相場となっている。しかもこれさえ買い入れる金銭がなく、村中連印の上やっと借入れをしている。
 申合
 一金十両 荒井村忠七殿より借用村方連印金米首尾
 一金五両 村太郎右衛門より借用是ハ安利足
 申御払米八俵売置酉春村方のものたすかる、苗代よとみ申候
 荒井村忠七は当時荒井村の名主、現在大田原市大字荒井白井良一氏の曽祖父、村太郎右衛門は倉骨村総名主、現在大田原市大字倉骨郡司勇一氏の高祖父に当たる人である。
 この期には農民達は食料に困ったばかりではなく、せっかく播いた苗代も不良籾のため満足な発芽もせず(苗代よとみ申候)、「いかにすべきや」と困り果てた上次のような願書を領主に差し出している。
 且種籾扶食願之事
  乍恐以書付奉願上候
一御知行所那須郡倉骨村窮民之者共一同奉願上候義ハ当二月より五月迄之間家内人別ニ応し為扶食壱人前ニ付大麦一日ニ壱升宛奉願上候。外ニ種穀種軒ニ応し左之通奉願上候

 一種籾八斗五升 願人 百姓 幸内
  扶食大麦四石八斗 家内四人
 一種籾壱石   同     喜右衛門
  扶食大麦三石六斗 家内三人
 一種籾八斗   同     与右衛門
  扶食大麦三石六斗 家内三人
 一種籾壱石壱斗 同     金太郎
  扶食大麦七石弐斗 家内六人
 一種籾壱石弐斗 同     嘉右衛門
  扶食大麦四石八斗 家内四人
 一種籾五斗   同     鉄蔵
  扶食大麦三石六斗 家内三人
 一種籾三斗   同     半右衛門
  扶食大麦九斗
 一種籾三斗   同     利右衛門
  扶食大麦弐石四斗 家内弐人
 一種籾壱石弐斗 同     勇吉
  扶食大麦四石八斗 家内四人
 一種籾九斗   同     粂蔵
  扶食大麦三石六斗 家内三人
 一種籾九斗   同     金吾
  扶食大麦なし
 一種籾壱石弐斗 同     粂右衛門
  扶食右同断
 一種籾九斗   同     清右衛門
  扶食右同断
 一種籾壱石   同     大吉
  扶食右同断
 一種籾壱石弐斗 同     重吉
  扶食右同断
 一種籾壱石   同     忠次
  扶食右同断
 一種籾六斗   同     太四郎
  扶食右同断
 
 種籾 〆(しめ)拾四石九斗五升
 扶食大麦〆(しめ)三拾九石三斗
 
前書名前之者共一同申上候ハ去ル秋中内見合毛積を以て夫々御引方頂戴仕り早束(速)作方取仕舞罷在候処初秋之見詰と抜群之相違大凶作ニ而一切取実無之甚タ当惑難渋至極仕り候得共重御上納之義種籾迄皆払不足之者、農具等質入ニ仕り米永皆御上納仕り罷有候間直様扶食一切無之必至と難渋仕り候。無拠名主太郎右衛門方作貯穀米六俵弐斗借受、其上葛(くづ)、蕨(わらび)等之野粮(糧)(野の食べ物)を取集め扶食仕り、漸く露命相凌ぎ当正月迄取続き罷有候間、為扶食大麦前書之通り奉願上候。且亦稲籾之義ハ当暮迄御拝借奉願上候。誠ニ以去秋中より重々之御願筋恐多く奉存候得共飢饉之当節餓死も覚束なき始末故何卒格別之御慈悲之御勘弁之程幾重ニも奉願上候
右小前之者窮民一同申上候通り誠ニ飢饉之当節、飢人多く、餓死も心元なき仕合故御重忍もかへりみず奉願上候。右願之通仰せつけられ成し置かれ候ハハ一命相助かり、御百姓出精仕り度偏ニ奉願上候以上

 天保八丁酉(一八三七)正月日
  御地頭所様
     御役所
 
 右願筋不叶
 
 右の願書を見ると彼ら農民達は種籾と称して食料を得ようとしたことがうかがえる。すなわち当時の種籾の壱反歩当たり播種量は大体六~七升、それなのにやっと二~三反歩程度の水田耕作しかやっていなかったと思われる(検地帳、名寄帳等各個人の耕地面積を知る史料が目下見当たらないため確かなことは記すことはできないが、潰れ百姓の耕地等から推察)者が壱石余の種籾借用方を願っており、また扶食用として壱人一日当たり大麦壱升を願っている点である。しかしこの願いはついにかなえられなかった(右願筋不叶とある)。領主も無制限の貯穀があるはずもないし無理もないことである。ただ注意すべきことは葛、蕨等の野草を食用として露命をつないだという点である。これらはいずれもその根茎を掘り採り、よく水洗いしてゆでて食べるか、或はそれをつぶし、そこに含まれている澱粉を食用にしたものである。なお葛、蕨のほかの野草が食用に供されたことが未だに老人達の間に言い伝えとして残されていることは前に記した通りである。
 この年二月大坂天満与力大塩平八郎を主魁とした乱が起こっており、驚いた幕府はその捕縛のため全国に人相書を配布している。郡司家文書にもそれが次のように記されている。
 当二月十九日以来大坂逃去候もの人相書
  大塩平八郎
 一年齢四十五才  一額細ク月代青キ方  一顔細ク色赤キ方  一眼釣候方  一眉毛細薄間方
 一はな常躰  一丈常躰中肉  一鍬方付の甲着用  一言葉さわやかにして大き方 但し上方言葉
 一黒き陣羽織着用 其余着用不分  一其外着用の品
 
  大塩格之輔
 一年齢二十七才斗  一はな常躰  一顔短ク色黒キ方  一眉毛厚き方  一丈低き方  一は□上向候方
 一言葉静成方  但し上方言葉  一其節着用不別
 
  瀬田済之輔
 一年齢弐十五才斗  一顔の色浅黒き方  一背高く肥肉  一眼丸くニ皮ニ而大成方  一眉毛厚き方
 一月代薄小鬢有之  一言葉不弁成方  但し上方言葉   一其節着用不分
 
  渡辺良左衛門
 一年齢四十三才  一丈低き方  一顔色青白キ方  一は□出候方  一眼出目ニ皮ニ而大成方
 一月代常躰  一其節着用不別  一言舌静成方 但し上方言葉
 
  近藤梶太郎
 一年齢四十才斗  一顔丸ク赤黒方  一丈低き方  一眼丸ク常躰  一月代常躰額際抜ケ有之
 一疱瘡之跡有之  一其節着用不別  一言舌常躰 但し上方言葉
 
  河合郷右衛門
 一年齢四十才斗  一顔細白き方  一はなの上疱瘡之跡有之  一眉毛常躰  一眼常躰玉少し赤き方
 一はな常躰  一月代薄く髪赤き方  一右之耳たふ(ぶ)色あさ(ざ)有之 一言舌常躰 但し上方言葉
 一其節着用不別
 
右之通大坂町奉行組与力謀叛之上大坂中物持江放火致し焼払候事、夫より大坂城下押寄城中厳鋪かため居る躰を見て引退ク

 
 この問題もその後間もなくかたづき、それについての状報も次々こちらに伝えられている。
陣取の事
 先陣大将    十匁筒具足大塩格之輔
         〃    大井正一郎
         〃    白井数右衛門
 籏 桐紋救民  〃    広嶋郡□□司
   民たすけ       杉山三□□平
 幡 天照大神宮      河部政之輔
   八幡大菩薩      曽我養五郎
              同忠五郎
 
 中陣           梶尾源右衛門
  具足          同 政七
  長抜          橋本忠右衛門
  高籠 鍬形兜黒陣羽織り 大塩平八郎
              西村利三郎
              同 喜三郎
              同 七輔
              河合郷右衛門
            凡人足五十人余
 
 跡押         具足瀬田済之輔
    申ノ十二月廿三日  今井大太郎
    出生外ニ添人有   駒木井太郎
              渡辺良右衛門
              近藤銀五郎
            右五人ニ付人
            百五十人余
  大坂放火之躰
 丁酉二月廿六日(天保八丁酉年(一八三七)
 
 和州竹之内往来右ニ而手嶋言処ニ
                    切腹 大塩平八郎
                    〃  〃 格之輔
                    〃  近藤振五郎
                    〃  庄司儀左衛門
                    〃  河合郷右衛門
                    〃  渡辺良左衛門
                    〃  瀬田織之輔
                    〃  神主志摩守
 右之者切腹御役人御改 坂部様
 外ニ夫々御地頭より差押深守村六十軒
 三月廿九都御召捕ニ相成申候。中ニも瀬田事ハ切腹不及首しめ死ス。大笑なり
  大坂より北在吹田村
 
 天保八酉(一八三七)三月十九日以来
 右名面々之者切腹とも有、召捕とも有、但し船ニ而逃去とも言何れ三せつなり
 
 以上が大塩平八郎の乱について、この地に残されている史料である。ただこの史料面では平八郎の乱の起因、そして平八郎の人間像は明記されておらず、この地の人々はそれをどのように受け取ったかは不明であるが、ある程度それを感得したのではなかろうか。
 前に記した大田原領農民騒動はこの翌年の天保九年(一八三八)である。この年にはこの久世領では領主及び家臣達による巡視と厳重なる鉄炮改めが行なわれている。これはひとり、この領内ばかりではなく天領、旗本領、さらには藩領においてもこれを行なったものであろう。
七月(天保八年七月)鉄炮御改
関東御取締御出役ニ成鉄炮玉目寸法御改有之申候。猶亦是迄之猟師者勿論かくし筒たりとも差出スにおいてハ御免之筋仰付けられ候義も有之をの趣細度御触有之候得共差出ス村方も有之当村者かくし筒無之猟師鉄炮三挺差出し候事、但し内改玉目寸尺印鑑返り

(郡司家文書)

 
 また宇田川文書にも次のように記されている。
 天保八酉年(一八三七)三月御達書
当二月十九日以来大坂逃去りもの人相書
「大塩平八郎、大塩格之助、瀬田済之助、渡辺良左衛門、近藤梶五(太)郎、河合郷右衛門」(以上郡司家文書に同じ、ほかに庄司儀左衛門、大井正一郎の人相書がある。)
右之通り之もの於有之は其所に留置御料は御代官、私領は領主地頭江申出夫より於江戸内藤隼人正方へ可申出候 若し及見聞候ハハ其段も可申出候 尤家来又者等を入念可懸吟味若し隠し置候脇より相知レ候ハハ可為曲事者也
 天保八酉(一八三七)三月
 
当二月十九日不容易企および大坂市中所々致放火反乱妨候元大坂町奉行組与力大塩平八郎ニ荷(加)胆いたし候大坂玉造り口御定番組与力大井傅治兵衛久離忰大井岩太郎事正一郎、大坂町奉行組同心河合善太夫忰ニ而先達而致出奔候河合郷右衛門等人相書
大井正一郎

一年令廿五六才  一顔細長ク色赤キ方  一眼常躰  一眉毛濃キ方  一鼻高キ方  一耳常躰
一脊高ク痩候方  一言葉静ナル方  一其節着用もの不分
 河合郷右衛門
 (前記に同じ)
右之通りのもの於有之は其所ニ留置早々大坂町奉行所可申出若見聞候ハハ其段可申出候 隠置脇より相知候ハハ可為曲事候
 酉三月
 
別紙之通御触書写相廻し候其筋宿村共急度入念心付茶屋旅籠屋共へも別而無洩落様申付似寄之もの休泊又見当り候ハハ不取逃様留置自分共廻村先へ大急刻付ヲ以可被及注進且見聞およひ候共其段も急速可被申越候別紙写取組合村々へ早々廻達方可被取斗候 以上
 酉三月十日   関東取締出役
                   畔柿良四郎
                   森信兵衛
                   堀江与四郎

 
 この年も天候不順で諸作の実り不十分であった。そのため久世領では役人巡視検見の結果、佐良土四分、亀山五分、その他の村々は三分引と貢租の減免を行なっている。
 田方
 一上々田壱反歩取米六斗四升 分米十三
 一上田 壱反歩〃 六斗一升 〃 十二
 一中田 壱反歩〃 五斗七升 〃 十
 一下田 壱反歩〃 四斗九升    八
 一下々田壱反歩取米四斗七升    七
 畑方
 一上々畑壱反歩ニ付取永百 文 分米 九
 一上畑 壱反歩  〃 九十文 〃  八
 一中畑 壱反歩  〃 八十文 〃  七
 一下畑 壱反歩  〃 六十文 〃  六
 一下々畑壱反歩  〃 五十文 〃  五
 これで見るとこの年の米の壱反歩当たり収穫量は、上々田で壱石三斗、上田で壱石弐斗、中田で壱石、下田八斗、下々田七斗である。以上の中からみると常年ならば五公五民即ち半分を上納する貢租であるが、ここでは上々田だけは百姓の取り分が半分よりわずか下だが、その他はそれが多くなっている。普通の年では上々田壱反歩収穫量は壱石八斗、上田壱石六斗、中田壱石五斗、下田壱石弐斗、下々田八斗程度である。もっとも大田原では宝永年間(一七〇四~一七一一)は上田壱石弐斗、中田壱石、下田八斗、下々田六斗を基準とし貢租計算をしている。上田より以下の田の分の百姓取分を多くしていることは、取りも直さずこの年の減少を物語っている。
 次にこの年の主食物価格は
 一金壱分ニ付 白米九升
 一金壱分ニ付 稗米壱斗弐升
 一金壱分ニ付 大豆壱斗八升
 一金壱分ニ付 大麦弐斗
 一金壱分ニ付 小麦弐斗八升
となっており、これを前年に比較してみると米は半額、その他は半額未満となっているがまだまだ平年に比べて高価であった。
 このような年の暮れ十二月二十八日に起こったのが大田原領農民騒動である。この記録では農民不満の原因として「年々賃銭五割増し助郷江割出し申さず、百姓難儀に及候事、其外七ケ条あり」とだけで詳しいことは記してないが、頭役となった百姓代表と町年寄、町名主も入牢しており、問屋は不当なるもうけをしたとしてその分を取り上げられている点から、助郷役にからんだ金もうけをしたことは明らかだが、そのほか天明期と同様、穀商人達の暴利問題も付随したかも知れず、要は常々過重の負担、搾取の対象となっていた農民達の不満が、ついに大田原領総農民の決起となったものであろうと思う。
 なお藩の驚きようは一方ではなく、常には面接など到底許されない農民に、藩主(愛清)自らが会い、彼等の言い分を聞き、この事件の処理に当っている点からみても実に重大な出来事であったことが察せられる。ただ天明騒動の時のように、代表者を断罪に処するということをせず、領外追放の軽い処分にしたことは、今後の藩治を考慮しての上のことと考えられる。