安政三年(一八五六)二月、増昭天折のあとを嗣ぐ聟養子として丹波篠山藩主青山忠良の五男鉚之助(増徳)を迎えることが決定を見て、二月二十五日には幕府から養子縁組の正式許可をとりつけ、その後にようやく増昭の喪が公にされたのである。増徳は四月になって家督を相続した。そして増徳が黒羽へ初入部したのは七月になってからであるが、すでにこのとき、藩内には不穏な状態があり、不満をもった百姓達が、藩主の代替りを機会に新藩主増徳に対し、直訴しようとする動きがすすめられていた。
天保期(一八三〇~一八四四)以来、いまだに荒廃と貧窮から立ち直りきれない百姓達が、無尽講や高利貸付にいためつけられ、質地や家財、農馬まで引き上げられ、そればかりか板材木国産で重要な農間余業を奪われた上に、夫役や御用金の過重な調達にさらされていた。そして今や国産政策は他商品の上にまで拡大されようとしているのである。これらのうらには文化文政期(一八〇四~一八三〇)の改革以来、何等積極的な改革を試みることもなしに、無為無策のまま時日を費やした、反動的、高利貸的藩権力の渋滞、堕落した本質がよこたわっていたのである。
上納期の近づいた九月になると、各所で秘密裏に集会がひらかれ、上納御免を要求する百姓徒党の計画が次第に進められつつあった。
徒党の頭取は北金丸村の八右衛門 須賀川村の五右衛門 須佐木村の正左衛門らであり、九月中に八右衛門より何カ村か連合の集会を催すための廻状がまわった。これに呼応して須賀川・須佐木の各組が立ちあがり、やがてこれらの動きが他村にまで拡大していったものと思われる。かれらの要求は「借財多分に付難渋之旨」を訴え、いくつかの歎願書に認められ、御領中惣百姓惣代の名において藩に向って箱訴のかたちで目安箱に投げ込まれたり、家老の門内に投げ込まれたりしたものと思われる。しかし、目安箱に投げ込まれた歎願書は領主には届かなかったため、十一月に入って代表を江戸に送り、新藩主増徳の実家である青山家へも投げ込まれたが、その効果はなく、遂に十一月中旬をすぎてようやく公然たる一揆の様相をおびてきた。
この模様を当時郷奉行であった三田地山(称平)は直接この事件の取締りにあたっていたので、自分の日記の中に書き残してあったのを略述すると、
十一月十九日の夜のことであった。那珂川西岸のいわゆる川西地方の余瀬・白旗山・羽田・檜木沢・境上の台のあたりに須佐木・須賀川のものが頭取となって、百姓が大勢徒党を起した。かがり火をたき、強訴をくわだてる相談をしている、郷廻りの役人をさぐりにいかせて見ると、だんだん徒党のうわさが大きくなっていくようである。
夜中ではあるが、家老、奉行その他の重臣連中が急ぎ集って内談した結果、明け七ツ時(午前四時頃)郷奉行の称平等が鎮圧に出馬することになった、これにひきつづき代官、郷廻りらも徐々にかけつけてくる手筈である。那珂川を西岸にわたり、向町まで出馬して様子を調べてみると、徒党の人数も追々逃散するものがでてきて少くなったが、そのうちから十四、五人ほどをつかまえてとどめおいたとのことである。
やがてそれらに幾人か加わり二十人程の人数が段々宿にひきとってきたので、これに郷廻りを通じて、要求の内容を尋ねさせたところ、要求の下書を差し出したので、これを受け取らず、さらに仲間うちでよく協議し、各人が認印を押して提出するように申し付けた。しかし一揆をすることは法で禁止されていることであるから、外の村々でも、もし願いがあれば、どんなことでも名主を通じて役人に願書を取りついでくるように申し付けた。また、この二十人の者にも一揆の指導など決してせぬように申し聞かせたので、二十人の者も、今後は各々名主を通じて、要求の内容を提出したいとのことであった。
さらに北方遠隔の村々でもある寺子、高久湯本などからも、要求をもって百姓がやってくるとのことであるので、これを鎮めるべく即刻、代官(荒牧)市之助、郷廻り源蔵らを派遣することとなった。
これ以後も、箱訴や各種の訴状、願書の類がおびただしく提出され、藩の秩序が乱れ、甚しく混乱した、家老以下、物頭、大目付、郷奉行等の藩役人が藩主の御前に集められ、これについての評議が行なわれた。
以上の記録によると、黒羽城や武家屋敷のある前田、堀之内と那珂川を間に挾んだ西岸の余瀬、白旗山附近を中心にして集った百姓が強訴について協議をしたが、事前に藩兵の威力によって鎮圧され、強訴の計画を中止し、各村毎に願人一同連印した願書を名主を通じて合法的訴願運動に切替えざるをえなかった。
この騒動の中心となった頭取は名主その他の村役人以外の小前百姓であってその対象は在町の富豪や村役人ではなく、領主権力との戦いが意図されていた。
これは県下に起った農民騒動とは好対照をなしている。
次に騒動に当って提出された願書について見ると二つの種類に分けられる。一つは、差出人が匿名のままで、日付は安政三年(一八五六)十月、標題は「乍恐以書付御愁訴奉申上候」「御領中惣百姓惣代」となっている。
(上包上書)
乍恐以書付御愁訴奉申上候
御領分村々惣百姓共一同御愁訴奉申上候義者、一体御分村々御年貢米之義、先前者正米納も有之、全納も有之、土地柄ニ寄、附出津出し、遠近等時宜に随ひ、村々百姓難渋不相成様、御憐愍御弁利之御取扱御座候処、先年津田武前様御勝手役被仰付候後者、御仕法替ヲ以御年貢米之義、土地柄難渋之無差別、不残正米納ニ而一切金納不相成候ニ付、所々寄附出し津出し不弁利、又は米怔合不宜米不足旁悉難渋之村々も有之候得共、御仕法替正米上納被仰付候義ニ付、無拠一同奉承伏上納仕来候得共、右御年貢米御払入札相場御取計方甚タ難心得候事ニ而、毎年十月より十一月御払米入札三度ニ被仰付、右平均相場より壱俵高之御値段を以、御年貢御払代金御取立被遊候得共、右入札之仕方以之外、如何之御取斗ニ而武前様思召ニ不相叶相場之節者、他邦之者或者日光表商人共名前ニ而、時之相場ニ不引合、格外高相場之入札有之、右様世間通用ニ不引当高相場之入札、商人共可差入筋無之、何共難心得不審至極之事与者心得候得共致方無之、右之相場を以御払代金御取立相成候故、百姓銘銘多分内様ニ相成難渋仕何分ニも世間通用相場ニ不引合、余り不都合之義ニ付追々先々承り合候処、右入札之義、正路之御取計候無之、武前様より内実熟意之もの共、内通示し合取計候義も有之、又者御用人様拵入札間々有之候由相聞、既ニ近年之落札者、金拵へ札江而己落札相成候ニ相違無之趣、其証者、眼前日光辺之者江落札相成候得者、御年貢米可附送処、其義無之一切不附送内実拵札之証拠顕然ニ御座候。古体時之相場不引当如何之相場御取扱御年貢御取立被遊、御組内百姓へ難渋相懸候段、御領主様御役人之御取計共不奉存候。
商利売益ヲ以露命ヲ保候賤敷商人ニも有之間敷御非道奸曲之御取計ニ而、既ニ外商人共江御払之節者、御年貢金納御払相場より者、格別安直(値)段御払被成、古者入札取拵故之義ニ而、御領内百姓而巳難渋之筋ニ落入申候。元来津田武前様御義ハ、御自分勝手御利欲之思召而巳ニ而、御領内百姓何様御非道之義申付候而モ、上納致し候者与被思召、右様如何之御取計被成候義ニ可有之、左候而ハ御領内村々一同惣百姓難立行、乍恐人気騒立候基ニ而、必至与難渋仕候。何卒右武前様御非分御取扱之次第、御賢察之上、御用人様御勝手役不相成以前之御仕法江、御取直し被成下、御年貢米金正路明白之御取計被仰付、御領分惣百姓相助り候様伏而奉願上候。
一、御領内より伐出し候板材木之義、前々より売払代金之内壱割五分山年貢として山主より上納仕、伐木之上荷主勝手次第運送仕来候処、昨年以来前書武前様御計ヲ以、板材木類御国産荷物ニ被成、江戸問屋御取扱、荷主より代金百両ニ付金三両ツツ新規御過役運上御取立被成候得共、右材木之義利益薄渡世ニ而、荷主共義聊之損失ニ而、既ニ御領内ニも潰および候荷主も数人有之候程之仕合ニ候処、尚又新規百両ニ付三両之御取立相成候而ハ、弥以利潤薄不引合故、夫丈ケ之分者、是非共、山方下直(値)ニ買取候様相成、左候へ者、右新規百両ニ付三両も矢張山持主方ニ而相納候次第ニ成行、元代金壱割五分之売木御運上共、都合ニ重ニ上納いたし候次第ニ落入、自然御領内衰微之基ニ而必至与難渋至極仕候。尚又御領分之内原方村々之義者、別而難渋之場所柄ニ而、農間板材木挽出し、最寄大田原宿、或者白川宿其外江持出し売捌、永方御上納之足合又者日々暮方手当ニいたし漸く取続来候処、板材木之義、前書之通去年以来御国産ニ被仰出候ニ付而ハ、江戸運送之外、相対最寄売買御差止メ相成候ニ付、原方村々之義、最寄売捌往古より之稼ニ相離、左候迚江戸運送致候程之力も無之、殊不弁(便)利之場所柄与差支村々、此上何様可成行与十(途)方ニ暮し罷在候仕合ニ御座候間、何卒格別之以御仁恵売木並ニ板材木類之義、古来より之仕来通、売捌出来候様、御憐愍之御沙汰奉願上候。
一、去卯十月中江戸表大地震ニ付、御普請御材木懸り瀬谷善次郎様御取計ニ而、当御城下より板貫材木類為御登ニ相成、右者悉急御用之趣を以、道法八里余有之候阿久津川岸迄、御役馬を以附通シ被仰付候ニ付、乍恐御殿様大切之急御入用御材木与心得、百姓共万事を差置、必至之丹誠ヲ以八里余之遠場、役馬附通し御運送之上、定而御入用ニ相立冥加成ル御義与心得罷在候処、如何之義ニ御座候哉。
右木品江戸着之上、御払木ニ相成候趣承、誠ニ驚入候義ニ御座候。右者御都合之義ニも御座候哉、何程能キ直(値)段ニ買入有之候共、御領内不残役馬ヲ以八里余之場所附通し、急御用与心得御運送相成候木品御払相成候段、余り無御情事之様、愚昧之百姓共悲歎仕、右者津田様並御懸り善次郎様御取計難心得奉存、其上十二月中尚又火急ニ材木類附送被仰付、江戸着当春ニ相成、御普請御間ニ合不申候由、是又難心得奉存候、且又当正月中下之庄ニ而御普請御材木割立被遊候ニ付、職人共御役ニ而罷出数日多人数相懸り候処、右御材木之儀、御入部後之御普請御入用之品之由、左候得者、右体正月中火急ニ職人御遣立無之候共、相済候義、殊ニ正月中者、松皮も用立不申、削捨ニいたし候故、多分之御損毛相成、右を三月後ニいたし候へ者、松皮十分ニ用立、是而己も凡金四十両余ニも可相成処、御取急被成候故、御損失ニ相成、右ニ准シ万事御差略違ひ御費而己多、既ニ下之庄木品今以同所ニ積立有之候由、病痛木出来候ハ歴然ニ御座候。且高久組より栗土台献納相成候得共、金者去年中善次郎様高久多一郎宅江御出、強而献木相勧メ無余儀配下村々江割付、御領内多分之人足相懸ケ、右入用見積り候得者、余程之高料ニ相成候儀ニ而、善次郎様御勤振り御差略之御取計ニ而、下々ハ難渋仕候もの多御座候。其上北山御林立木御伐出し相成、御領内元山木挽職之もの壱人ニ付十五日つつ夫役罷出可勤旨、善次郎様御取計ヲ以被仰付候ニ付、定テ御普請御用木之御伐出しニ相成候御義与心得、職人共銘々罷出被仰渡通り、相勤御伐出し相成候処、右者御普請木ニ無之江戸問屋江御積出し御払相成候趣承知仕、奉驚入候御事ニ而、一体御普請木之趣ヲ以、職人共夫役被仰付候ニ付、冥加与相心得、銘々相勤メ候処、無其儀御売木被遊、御普請材名目ニ而、無賃夫役ヲ以、御城続大切之御林より御切出し被成候段、難得其意御取計有之、善次郎様御義右材木御掛りニ相成、悉御権威ヲ以百姓共非道ニ夫役ニ御遣ひ被成、少々之手落越度等有之候而も、悉大造ニ御咎被成、日々之様御叱り受候もの多分有之候ニ付、小泉豊後様定式御詫ニ懸り被成候仕合ニ而、全善次郎様義御権威御気儘之御取計被成、殊ニ材木板類等之御取計御不馴之事故、御損失被成候而己ならず、下々之痛得不益筋之義も出来候義ニ御座候間、此上長々右御懸り御勤ニ而ハ、乍恐御上様御為ニも相成申間敷、御領内下々難儀仕候間、御材木御懸り之義者、可然正路之御仁江被仰付被下置度願上候。
一、是迄御用金被仰付候節も、津田武前様御取計御見込ニ而ハ、悉甲乙依枯之御取計有之、然ニ追々御物入相嵩り候ニ付、不遠御領中御用金被仰出候趣承知仕候得共、前書之通武前様御計ニ而者、御見込不同甲乙有之難渋之もの数多御座候。既ニ御用達之内者、武前様之別懇ニ立入候もの共、子分或者名付親杯与唱候もの者、格別身勝手相成候様御取計有之、右ニ引替、平常御出入も不致ものハ、正路ニ而も是迄御取扱違ひ之義有之候義ニ付、此上依怙ひゐきの御見積御座候ハ歴然之義、左候而者身分立行がたく、難渋之もの出来可申候間、武前様御見込御信用無之、得与御吟味之上、大勢之もの難儀不相成様被仰出被下置度奉願上候。当春中被仰付候御用達之内ニ者、御見込違ひニ而内実難渋之身元之もの御座候。
一体武前様御義御身柄ニも不似合、悉利益而巳御勧被成、既ニ御役柄御威勢ヲ以取退無尽御取立被成、御威光ヲ以強而加入相勧メ、会日者町方江御出張り町内者勿論近在不懸出もの共当日呼付、厳敷御利害等有之、遠在者態飛脚ヲ以、懸金御取立被成、瀬谷善次郎様義も取退無尽御企有之、是又御威光ヲ以加入為致候次第ニ而、難渋仕候もの大勢有之、愚昧之百姓共兼テ承リ候ニ者、無尽之儀者乍恐御公儀様ニ而も御取上ケ無之、別而取退無尽之儀者博奕も同様厳敷御法度之趣承知仕候処、津田武前様瀬谷善次郎様義者、聟舅之間柄ニ而御両人様共、御役柄之御権威ヲ以、御領内百姓町人無体ニ御勧メ被成、右様之無尽御催し被成、御領内之もの難渋御厭ひ無之段、以之外之義与奉存候。右無尽之義、懸ケ金式分ニ而籖数弐百本余、年弐会ニ而廿四会致、終会之節残り籖江配当之金凡七八千両程ニ相成、会主徳金千両余ニ相成、悉大造之御企ニ而、往々御領内惣百姓衰微退転之基有之、第一不容易御催し之事故、早々御差留、是迄之懸ケ金割返候様被仰付度、且又武前様御義平常之御咄しニ百姓共者、何様厳敷取扱候共、百姓之騒動ニ而大名之潰与申義者無之、御領内より出候諸品者不残御国産ニいたし十分ニ運上取立候而も子細無之、不遠たばこ荷物も国産ニいたし、百姓共自由ニハ為致間敷思召之様、専風聞有之、万一此上煙草等迄右様之次第ニ被仰出候様成行候而ハ、御領内一統百姓共潰退転之基ニ而、何連ニ而も右体下々難渋渉少も御厭ひ無御座御非道之御取扱被成候武前様御勝手御役、長く御勤仕被成候而ハ、御領中一同難相助往々人気騒立変難出来、乍恐御上様江奉懸御苦難候段、奉恐入候間、一同挙而御愁訴奉申上候。何卒格別之以御賢慮御仁恵前文難渋之廉々逸々御明察被成下置、御領中惣百姓相助安堵農業出精相続出来候様、被下置度、偏ニ奉希上候以上
安政三辰年十月
御領分
村々
上 惣百姓
御領分村々惣百姓共一同御愁訴奉申上候義者、一体御分村々御年貢米之義、先前者正米納も有之、全納も有之、土地柄ニ寄、附出津出し、遠近等時宜に随ひ、村々百姓難渋不相成様、御憐愍御弁利之御取扱御座候処、先年津田武前様御勝手役被仰付候後者、御仕法替ヲ以御年貢米之義、土地柄難渋之無差別、不残正米納ニ而一切金納不相成候ニ付、所々寄附出し津出し不弁利、又は米怔合不宜米不足旁悉難渋之村々も有之候得共、御仕法替正米上納被仰付候義ニ付、無拠一同奉承伏上納仕来候得共、右御年貢米御払入札相場御取計方甚タ難心得候事ニ而、毎年十月より十一月御払米入札三度ニ被仰付、右平均相場より壱俵高之御値段を以、御年貢御払代金御取立被遊候得共、右入札之仕方以之外、如何之御取斗ニ而武前様思召ニ不相叶相場之節者、他邦之者或者日光表商人共名前ニ而、時之相場ニ不引合、格外高相場之入札有之、右様世間通用ニ不引当高相場之入札、商人共可差入筋無之、何共難心得不審至極之事与者心得候得共致方無之、右之相場を以御払代金御取立相成候故、百姓銘銘多分内様ニ相成難渋仕何分ニも世間通用相場ニ不引合、余り不都合之義ニ付追々先々承り合候処、右入札之義、正路之御取計候無之、武前様より内実熟意之もの共、内通示し合取計候義も有之、又者御用人様拵入札間々有之候由相聞、既ニ近年之落札者、金拵へ札江而己落札相成候ニ相違無之趣、其証者、眼前日光辺之者江落札相成候得者、御年貢米可附送処、其義無之一切不附送内実拵札之証拠顕然ニ御座候。古体時之相場不引当如何之相場御取扱御年貢御取立被遊、御組内百姓へ難渋相懸候段、御領主様御役人之御取計共不奉存候。
商利売益ヲ以露命ヲ保候賤敷商人ニも有之間敷御非道奸曲之御取計ニ而、既ニ外商人共江御払之節者、御年貢金納御払相場より者、格別安直(値)段御払被成、古者入札取拵故之義ニ而、御領内百姓而巳難渋之筋ニ落入申候。元来津田武前様御義ハ、御自分勝手御利欲之思召而巳ニ而、御領内百姓何様御非道之義申付候而モ、上納致し候者与被思召、右様如何之御取計被成候義ニ可有之、左候而ハ御領内村々一同惣百姓難立行、乍恐人気騒立候基ニ而、必至与難渋仕候。何卒右武前様御非分御取扱之次第、御賢察之上、御用人様御勝手役不相成以前之御仕法江、御取直し被成下、御年貢米金正路明白之御取計被仰付、御領分惣百姓相助り候様伏而奉願上候。
一、御領内より伐出し候板材木之義、前々より売払代金之内壱割五分山年貢として山主より上納仕、伐木之上荷主勝手次第運送仕来候処、昨年以来前書武前様御計ヲ以、板材木類御国産荷物ニ被成、江戸問屋御取扱、荷主より代金百両ニ付金三両ツツ新規御過役運上御取立被成候得共、右材木之義利益薄渡世ニ而、荷主共義聊之損失ニ而、既ニ御領内ニも潰および候荷主も数人有之候程之仕合ニ候処、尚又新規百両ニ付三両之御取立相成候而ハ、弥以利潤薄不引合故、夫丈ケ之分者、是非共、山方下直(値)ニ買取候様相成、左候へ者、右新規百両ニ付三両も矢張山持主方ニ而相納候次第ニ成行、元代金壱割五分之売木御運上共、都合ニ重ニ上納いたし候次第ニ落入、自然御領内衰微之基ニ而必至与難渋至極仕候。尚又御領分之内原方村々之義者、別而難渋之場所柄ニ而、農間板材木挽出し、最寄大田原宿、或者白川宿其外江持出し売捌、永方御上納之足合又者日々暮方手当ニいたし漸く取続来候処、板材木之義、前書之通去年以来御国産ニ被仰出候ニ付而ハ、江戸運送之外、相対最寄売買御差止メ相成候ニ付、原方村々之義、最寄売捌往古より之稼ニ相離、左候迚江戸運送致候程之力も無之、殊不弁(便)利之場所柄与差支村々、此上何様可成行与十(途)方ニ暮し罷在候仕合ニ御座候間、何卒格別之以御仁恵売木並ニ板材木類之義、古来より之仕来通、売捌出来候様、御憐愍之御沙汰奉願上候。
一、去卯十月中江戸表大地震ニ付、御普請御材木懸り瀬谷善次郎様御取計ニ而、当御城下より板貫材木類為御登ニ相成、右者悉急御用之趣を以、道法八里余有之候阿久津川岸迄、御役馬を以附通シ被仰付候ニ付、乍恐御殿様大切之急御入用御材木与心得、百姓共万事を差置、必至之丹誠ヲ以八里余之遠場、役馬附通し御運送之上、定而御入用ニ相立冥加成ル御義与心得罷在候処、如何之義ニ御座候哉。
右木品江戸着之上、御払木ニ相成候趣承、誠ニ驚入候義ニ御座候。右者御都合之義ニも御座候哉、何程能キ直(値)段ニ買入有之候共、御領内不残役馬ヲ以八里余之場所附通し、急御用与心得御運送相成候木品御払相成候段、余り無御情事之様、愚昧之百姓共悲歎仕、右者津田様並御懸り善次郎様御取計難心得奉存、其上十二月中尚又火急ニ材木類附送被仰付、江戸着当春ニ相成、御普請御間ニ合不申候由、是又難心得奉存候、且又当正月中下之庄ニ而御普請御材木割立被遊候ニ付、職人共御役ニ而罷出数日多人数相懸り候処、右御材木之儀、御入部後之御普請御入用之品之由、左候得者、右体正月中火急ニ職人御遣立無之候共、相済候義、殊ニ正月中者、松皮も用立不申、削捨ニいたし候故、多分之御損毛相成、右を三月後ニいたし候へ者、松皮十分ニ用立、是而己も凡金四十両余ニも可相成処、御取急被成候故、御損失ニ相成、右ニ准シ万事御差略違ひ御費而己多、既ニ下之庄木品今以同所ニ積立有之候由、病痛木出来候ハ歴然ニ御座候。且高久組より栗土台献納相成候得共、金者去年中善次郎様高久多一郎宅江御出、強而献木相勧メ無余儀配下村々江割付、御領内多分之人足相懸ケ、右入用見積り候得者、余程之高料ニ相成候儀ニ而、善次郎様御勤振り御差略之御取計ニ而、下々ハ難渋仕候もの多御座候。其上北山御林立木御伐出し相成、御領内元山木挽職之もの壱人ニ付十五日つつ夫役罷出可勤旨、善次郎様御取計ヲ以被仰付候ニ付、定テ御普請御用木之御伐出しニ相成候御義与心得、職人共銘々罷出被仰渡通り、相勤御伐出し相成候処、右者御普請木ニ無之江戸問屋江御積出し御払相成候趣承知仕、奉驚入候御事ニ而、一体御普請木之趣ヲ以、職人共夫役被仰付候ニ付、冥加与相心得、銘々相勤メ候処、無其儀御売木被遊、御普請材名目ニ而、無賃夫役ヲ以、御城続大切之御林より御切出し被成候段、難得其意御取計有之、善次郎様御義右材木御掛りニ相成、悉御権威ヲ以百姓共非道ニ夫役ニ御遣ひ被成、少々之手落越度等有之候而も、悉大造ニ御咎被成、日々之様御叱り受候もの多分有之候ニ付、小泉豊後様定式御詫ニ懸り被成候仕合ニ而、全善次郎様義御権威御気儘之御取計被成、殊ニ材木板類等之御取計御不馴之事故、御損失被成候而己ならず、下々之痛得不益筋之義も出来候義ニ御座候間、此上長々右御懸り御勤ニ而ハ、乍恐御上様御為ニも相成申間敷、御領内下々難儀仕候間、御材木御懸り之義者、可然正路之御仁江被仰付被下置度願上候。
一、是迄御用金被仰付候節も、津田武前様御取計御見込ニ而ハ、悉甲乙依枯之御取計有之、然ニ追々御物入相嵩り候ニ付、不遠御領中御用金被仰出候趣承知仕候得共、前書之通武前様御計ニ而者、御見込不同甲乙有之難渋之もの数多御座候。既ニ御用達之内者、武前様之別懇ニ立入候もの共、子分或者名付親杯与唱候もの者、格別身勝手相成候様御取計有之、右ニ引替、平常御出入も不致ものハ、正路ニ而も是迄御取扱違ひ之義有之候義ニ付、此上依怙ひゐきの御見積御座候ハ歴然之義、左候而者身分立行がたく、難渋之もの出来可申候間、武前様御見込御信用無之、得与御吟味之上、大勢之もの難儀不相成様被仰出被下置度奉願上候。当春中被仰付候御用達之内ニ者、御見込違ひニ而内実難渋之身元之もの御座候。
一体武前様御義御身柄ニも不似合、悉利益而巳御勧被成、既ニ御役柄御威勢ヲ以取退無尽御取立被成、御威光ヲ以強而加入相勧メ、会日者町方江御出張り町内者勿論近在不懸出もの共当日呼付、厳敷御利害等有之、遠在者態飛脚ヲ以、懸金御取立被成、瀬谷善次郎様義も取退無尽御企有之、是又御威光ヲ以加入為致候次第ニ而、難渋仕候もの大勢有之、愚昧之百姓共兼テ承リ候ニ者、無尽之儀者乍恐御公儀様ニ而も御取上ケ無之、別而取退無尽之儀者博奕も同様厳敷御法度之趣承知仕候処、津田武前様瀬谷善次郎様義者、聟舅之間柄ニ而御両人様共、御役柄之御権威ヲ以、御領内百姓町人無体ニ御勧メ被成、右様之無尽御催し被成、御領内之もの難渋御厭ひ無之段、以之外之義与奉存候。右無尽之義、懸ケ金式分ニ而籖数弐百本余、年弐会ニ而廿四会致、終会之節残り籖江配当之金凡七八千両程ニ相成、会主徳金千両余ニ相成、悉大造之御企ニ而、往々御領内惣百姓衰微退転之基有之、第一不容易御催し之事故、早々御差留、是迄之懸ケ金割返候様被仰付度、且又武前様御義平常之御咄しニ百姓共者、何様厳敷取扱候共、百姓之騒動ニ而大名之潰与申義者無之、御領内より出候諸品者不残御国産ニいたし十分ニ運上取立候而も子細無之、不遠たばこ荷物も国産ニいたし、百姓共自由ニハ為致間敷思召之様、専風聞有之、万一此上煙草等迄右様之次第ニ被仰出候様成行候而ハ、御領内一統百姓共潰退転之基ニ而、何連ニ而も右体下々難渋渉少も御厭ひ無御座御非道之御取扱被成候武前様御勝手御役、長く御勤仕被成候而ハ、御領中一同難相助往々人気騒立変難出来、乍恐御上様江奉懸御苦難候段、奉恐入候間、一同挙而御愁訴奉申上候。何卒格別之以御賢慮御仁恵前文難渋之廉々逸々御明察被成下置、御領中惣百姓相助安堵農業出精相続出来候様、被下置度、偏ニ奉希上候以上
安政三辰年十月
御領分
村々
上 惣百姓
右のように一揆鎮圧以前にひそかに集ってつくりあげた願書は非常に長い文章であるので内容を検討し、その要点のみを箇条書にして見ると次のようになるであらう。
一、場所の遠近に怐らず一律に正米納が強制されていることについての不満
二、藩の払米入札に際して不当な拵え札による米価引き上げがたくらまれていることに対する非難
三、材木国産とそれに伴う新規運上の廃止要求
四、御用材入用のための諸々の夫役撤廃要求
五、公正を欠く家中無尽講の強制反対とその懸け金の返済要求
六、私情にからむ不公平な御用金調達の反対
七、たばこをはじめとする諸商品に対する国産政策適用反対
八、その問題の責任を負うべき者としての津田武前と瀬谷善次郎に対する批判と罷免要求
この歎願書は藩仕法が村方困窮を招いたものであり、その廃止又は転換を要求すると同時に、その責任者として、勝手方を担当する物頭大吟味役の津田武前と国産懸りの瀬谷善次郎の罷免を要求している。この歎願書が果してどこの村の誰によって、どのようにして書かれたかは不明であるが、一揆鎮圧以前に書かれたために、このようなぼう大なものとなり藩政批判の政治的性格をおびるにいたったのであらう。
他の一つは一揆屯集が藩兵によって未然に鎮圧され、役人の説得によって合法的運動に切替えられ、村ごとに差出人が連署連印し、この差出人各々に組内から一名宛請人が添えられ、最末尾には村毎に名主が署名捺印し、各村より提出されたものと思はれる。又日付はいずれも安政三年(一八五六)十一月となって前者のものより一カ月遅れている外は内容が殆んど同じ文書にまとめられており、村々の間で協議申し合せの上、ヒナ型に従って書かれたものであることは明白であり、標題は「乍恐奉願上候口上覚」の形式をとっている。その願書を左に記す。
当御領内所々村々弐拾ケ年以来、衰微仕り候事は、御家中様御金貸あそばされ候あいだ、困窮の者思ひ思ひに拝借仕り候て、ありがたき様ニその節は心得候之共、三月躍り或は月賦等御貸なられ、日限遅滞の節は、御飛脚つかわされ、厳重の御催促、飛脚銭或は逗留銭お取なられ、其レのみならず、加判人ヲ呼留メ置き、弁金申付、手隙ヲ農業障りもいとわず、利足の分も出来かね候ところ、余計の御取立ニ預り、必死と難渋差しつのり、借財のためニ村々欠落或は引払いこれあり、潰弐年増しニ相成行き、末は亡所と相成べくと存候。
さりとも、御会所役、道中往来役などはお引きニは相成らず、同じく高へ御割付ニ相成候あいだ、自然と、とも潰れニ相成候、それヲ申し候えは、御金貸あそばされ候ひとは、何も無理ニ貸しはいたさず、お貸し下されと申ニ付貸し候と仰せられ候は、至極ごもっともニ候え共、之を申サハ、在町共金貸し候様成者ニは、御用金仰付けられ、金ヲは皆もって御取上ケあそばされ、御家中様はそのままお構いなく、その上御家中様ニて講と申事ヲこしらへ、在町の物持等を勧メ、多分之金子ヲ巻き上ケ、御家中様ばかり金持ニ相成候あいだ、在町ニて金貸候者これなく、よんどころなく御家中様へ願い拝借仕り候。
それ故所々村々減少仕候、これにより願上奉り候は恐入候え共、是迄拝借金之分は、質物金にいたる迄、来ル巳暮よりこれ亦弐拾ケ年賦ニ御返納仕候様、願い上げ奉り候、何卒御上様厚キ御仁恵の御憐愍ヲ以、右願いの通り御付けられ下置かれ候はゝ、あげて相助り亡村ニも相成らず、農業出精仕り、自然ニ御上様御利徳ニ相成、偏ニ有難き仕合せ存じ奉り候 以上
安政三年
辰十一月
余瀬村
願人 左前印
五人組 茂左衛門印
願人 源左衛門印
五人組 重右衛門印
願人 又左衛門印
五人組 茂右衛門印
願人 竹左衛門印
五人組 友右衛門印
名主 要蔵印
さりとも、御会所役、道中往来役などはお引きニは相成らず、同じく高へ御割付ニ相成候あいだ、自然と、とも潰れニ相成候、それヲ申し候えは、御金貸あそばされ候ひとは、何も無理ニ貸しはいたさず、お貸し下されと申ニ付貸し候と仰せられ候は、至極ごもっともニ候え共、之を申サハ、在町共金貸し候様成者ニは、御用金仰付けられ、金ヲは皆もって御取上ケあそばされ、御家中様はそのままお構いなく、その上御家中様ニて講と申事ヲこしらへ、在町の物持等を勧メ、多分之金子ヲ巻き上ケ、御家中様ばかり金持ニ相成候あいだ、在町ニて金貸候者これなく、よんどころなく御家中様へ願い拝借仕り候。
それ故所々村々減少仕候、これにより願上奉り候は恐入候え共、是迄拝借金之分は、質物金にいたる迄、来ル巳暮よりこれ亦弐拾ケ年賦ニ御返納仕候様、願い上げ奉り候、何卒御上様厚キ御仁恵の御憐愍ヲ以、右願いの通り御付けられ下置かれ候はゝ、あげて相助り亡村ニも相成らず、農業出精仕り、自然ニ御上様御利徳ニ相成、偏ニ有難き仕合せ存じ奉り候 以上
安政三年
辰十一月
余瀬村
願人 左前印
五人組 茂左衛門印
願人 源左衛門印
五人組 重右衛門印
願人 又左衛門印
五人組 茂右衛門印
願人 竹左衛門印
五人組 友右衛門印
名主 要蔵印
右願書を検討してみると、村々の困窮の原因は家中貸金している。その方法に「三月躍り」月賦等の貸し付け方の不法性が訴えられている。さらに過酷な御用金調達や、家中の無尽、講などによる収奪が非難され、最後に、これ迄の借金の返済を巳の年より二十ヵ年賦にしてくれるよう訴えている。
また、これと全く同じ文章であったものは北金丸村湯坂組、須左木村上組、中組からも提出され、これらの村の間に一定の協議や協約があったことを感じさせられる、また、これとほとんど同じ内容であるが少しだけ文章が違うものが何通かあるが、その要求内容において共通しているものは家中高利貸や講、無尽によって各村の百姓が困窮していることと、その借金返済には質物についても二十カ年賦とすることである。
このように十月には愁訴で差出人が匿名であったものが、十一月十九日を境として一揆の様相から一転して名主を通じて合法的に願書を出すこととなり、具体的には「口上覚」となって現れてきている。
一般に発生している一揆とは異なり、単なる年貢減免などでは承服できない根の深いものが感じられる。
その後も訴願運動が続き、十一月二十四日家臣団の給人知行取と切米取の中堅層に当る大関篤之助、渡辺監物(一五〇石取)大塚久太郎(一七〇石取)松本織之介、山上兵衛、板倉政一郎、鹿子畑早太(一〇人口)簗瀬兵右衛門ら八名が給人筆頭や同僚にことわりなしに藩主にいきなり直訴するという異状事態が発生した。かれらが藩主へ直訴を行なったときの口上手控を記すと、
口上手控
今度、御領内百姓共、願の筋これあり、数人相集り候儀ニ付、驚き入り奉る、かれら示談仕り候趣意追々伝承仕り候処、是迄士分の者より金子借用致居り候処、利足積り立ち、困窮の者より元利取納候ニ付、返済の手段ニ尽き候てよんどころなく歎願の相談ニ及び候様ニも察し奉り候
右ニ付、愚昧の私共申上候も恐れ多く存じ奉り候え共、御家御為筋と愚考仕り候あいだ、申上ざるも不忠の至りと思慮仕り、愚昧をかえりみず、存じ付き候儀左ニ申上奉リ候。
申上候迄もござなく候得共、当御領内の御儀は御本領の御地ニて他家様御新領と違ひ、往古よりの御領地ニあらせられ候得は、四民共ニ御代々様御仁徳ニ相懐き、上を尊敬仕り、御下知等を相守り候儀、御他領のたくひニは御座なき儀と存じ奉り候、しかるところ、今度、恐れをもかえりみず相集り候儀は、前文申上候通り、士分の者より貸出候金子ハ高利のみにもこれなく、利に利を加ひ候仕法もこれあり、あるいは金子の代ニ山林田畑ならびに農馬等迄も引き上げ候次第にて、追々困窮相募り、其上先年凶作以来貧村ニも多く相成、困窮、飢寒に相せまり、第一の御年貢上納ニも差遣ひ、欠落退転致し候ものも少なからず、結構なる御領地も次第に衰微仕り、正路の民も、年を追ひ減少仕り亡所、潰家等も相嵩、誠に以御大変の御事と存じ奉り候。
右様の御場合故、百姓共も、相騒き候儀と存じ奉り候、右様騒動仕り候儀ハ全く士分の者の所為よりおこり候儀ニ御座候得共、いはれもわきまへざる他邦の者ハ、御家政のからき所よりおこり候哉と存じなし申すべし、左候得は誠に以勿体なく候儀、私共深く恐怖奉り候儀は、この一事ニ御座候、この上、公辺の御聞へは勿論、御他領の者伝聞仕り候所なげかわしく、ついては、この度の御処置、百姓共願いの筋御取り揚げ御座なく候ては、かれら途方ニくれ絶対絶命の場より、如何様の大事出来仕るべきやも計りがたし。実ニ恐れ入り候御時節と存じ奉り候、今般の儀、品能き御下知ニも相成候は、向後利勘の僻事も相改り、上下能く熟し、百姓共も安堵仕り、亡所亡戸の跡も追々かまとをおこし候様罷り成り申すべく、誠に御仁慈の御政道と、かれらもいかばかり有難く存じ奉るべく候。
公儀御法度の高利を貸し付け、御領分衰微、費弊仕り御収納減少仕り候儀も存じながら、相恐れず御百姓を取り潰し、騒動の基を開らき候者の罪と、困窮に相迫り歎願のため徒党仕り候者の罪と、いずれか重く御座あるべき哉、私共愚考ニは、御領内取り潰し候者の罪、御先祖様。
御当代様へ対し奉り重きかと愚案仕り候、右の段、恐れながら後賢慮の程、御肝要の御儀と存じ奉り候、右之条条微忠の志にて申し上げ奉リ候 以上
十一月二十四日
後に、これら八名の給人に対する処分を要求する同僚達の文書の中に次のように記されている。
去ル冬十一月中、御百姓共徒党致し御領内さわがしき折柄、私共仲ケ間の内八人なお又党を挙ケがましき申合、御家老中迄まかり出、その後、御為筋と申し、御直々言上いたし候趣、私共へはその節相談もいたさず言上ニおよび、その後ニ至り筆頭方申聞かされ候…… (以下略)
この記録からして給人の直訴事件に対する反動がかれらを襲うことを覚悟した上でのことであろう。しかし口上手控を見ると、騒動を起した原因が、家中士分の者による高利貸付にあることをはっきりと述べ、これが村方の貧窮、潰れ、亡村の根本的原因であり、これをなくさずして、百姓騒動はおさまらないし、領内の荒廃化をおしすすめるばかりであることを指摘している。実はこの家中高利貸が、家中の要人によって行なわれている事実は公然たるものであったから、この直訴は、事実上、その者達の責任追求を要求するものであり、おだやかな話ではすまされぬ内容のものであった。だからこそ、かれらはいきなり藩主への直訴をもってこれを訴えざるをえなかったのである。
安政三年(一八五六)十月から十一月にかけて起った百姓騒動と、これに関係して起った給人等の藩主直訴事件は、黒羽藩はあまりに事が重大なため、その事後処理は遅々として進まなかった。事件の中で家老を含む要人等が百姓達より激しい批判を受けているところからこれをどう処理するか、また、直訴した八人の給人の処分はどうするかなど難問が山積していたのである。
こうした中で藩は家中切米取以上の者全員に対し、今回の百姓騒動の取り鎮め方に対し一人ひとりに意見書をもって答えさせることとし、公開の席で議論することは至難なことであるので文書によって各自の意志を自由に述べさせることにしたのであるが、このようなことは黒羽藩にとって未だかつてない異変事であった。このような黒羽藩の政策に対し、各藩士から提出された意見書が、いまも数十通残っている。
その中で藩主直訴事件に関係した八人の給人と大小姓小山守之介らがきわめて明確に藩政を批判し仕法改革と責任者の処分を求めているのが注目される。
たとえばそのうちの一人である渡辺監物は、士分より貸出候金子の儀は、先達て御直ニ申上奉リ候手控書ニくわしく相認め置候ニ付、この度は申上げず候、さりながら百姓願上奉り候通ニ、弐拾ケ年賦仰出され候ては貸出し候者の欲心相残り候て、永年の内ニ、如何様の謀ヲ相発し、猶御外聞の儀出来候哉もはかりがたく存じ奉り候あいだ、残らず棄捐仰出され候様、恐れながら存じ奉り候。且、高利の金子貸出置無体ニ農馬等引揚げ候、大沼半太夫、津田武前の類の者、厳重の御沙汰ニ仰付られ候様、おそれながら存じ奉り候事、さも御座なく候ては百姓共帰伏仕りまじく候。 (以下略)
借金返済については百姓の主張している二十カ年賦よりも、全部棄捐の実施に踏切り、高利貸付の責任者の処分を強く主張している。また、国産政策については、
去ル卯年の暮、新規仰出され候板材木等御国産之儀、自然と〆買ニ相成、山持共難渋の由風聞仕り候、猶、格別の御為筋ニは相成らず候由、その上、佐藤官太夫、瀬谷善次郎、右御産物掛り仰付けられ、相勤め罷りあり候、善次郎儀は兼て利欲ニ迷ひ、御国産掛りの役威を以、百姓の難渋をかえりみず、私曲のみ相勤め候由、風聞仕り候、左ニ御座候得は、いささかの御利徳ニて百姓共の人気相捐い候ては、かえって御為筋ニ相成らず候様ニ存じ奉り候あいだ、御国産の儀、御止メニ相成り是迄の通り売木仰付けられ、しかるべき哉と存じ奉り候(以下略)
国産掛りの不正を述べ、国産政策を廃止して売木するよう訴えている。
これに対し瀬谷善次郎らの意見書は次のように訴えている。
徒党仕候頭取は、天下の大法仰付けられず候ては、アメリカ後、追々不時の儀出来、人気相立ち居候あいだ、御後難の程はかりがたく存じ奉り候、万の一御番所御軍役等、仰せをこうむられ候節は、是迄の御振り合ニて、さだめて御用金仰付けられ候儀と存じ奉り候得共、その節はこの度のお仕置あまりと御勘弁あそばされ候ハバ、又々徒党仕るべくと存じ奉り候。 (以下略)
対外的問題のおこりつつある中で藩の出費の増大に対し、現実的な政策による利益の拡大につとめ、これに反抗する領民に対しては、厳重な処分をしておかないと後難のうれいありと主張している。さきに記した渡辺監物のものと比べてみると両極端の意見と言わざるをえない。
また、当時、国産掛りの任に当たっていた佐藤官太夫は高利貸、講、無尽について、
「是迄貸出し重り候金子、利分の儀は棄捐仰出され、元金ばかりの義は消し方仰出され」ることを勧めている。また又国産政策については、昨年中御国産御仕法立仰出され、壱ケ年諸材御益、およそ金三百両ニも御見出を存じ奉り候、一方の御用ニも罷成り申すべし、しかしながら、当時の人気ニては御益もわきまへず、私の人欲ニて故障等御耳入れもはかりがたく存じ奉り候得共、金百両ニ付、御割金三両ニ問屋方より納候儀ニ御座候、たとへ、山元へ掛り候とても誠ニいささかの割合難渋と申候程の儀は御座なく存じ奉り候、近来御物入莫大の御場合故、思召次第ヲ以永続仕るべく、此上御益をわきまへ、御国産すべて御仕法相立て申し候ハハ、多分の御益と存じ奉り候、万一御止メニも罷成候ては、はなはだ歎かわしく存じ奉り候。
と国産仕法は私欲によるのではなく黒羽藩にとっては重要な財源であり、一年で三百両という新収入は黒羽藩の運上金額が総額五百両ほどにすぎないのであるから、たしかに無視し得ぬものがあったであろう。これは幕末に生じた新たなる財政危機にたちむかうべき経済政策と貧窮没落にひんした百姓を救済する仕方と著るしい矛盾に遇わざるを得なかった。
これらの意見書を討議し、触書の内容を決定して領内に触れ出されたのが二月三日であった。
一、近年金銀貸借多分に相成り困窮の者、家業に怠り年増奢に長し、身分不相応の借財いたし、行々潰退転に成り候義をも不相応、弥立行相成り兼候場より相互実意を失い候儀もこれあり、もっての外悪風候ニ付、今般重て御評議の上、御法令仰出され候間、在町一統もれ落ちなく急度相心得べく候。
一、御家中より在町へ是迄かし出置き候金子返済方の儀、貸し方にて成丈ケ勘弁いたし百姓潰れに相成らざる候様、御沙汰これあり候間、借用人共は右の趣厚く弁まえ御沙汰振ニ相なずみ申さず、専ら精々いたし不実の義これなき様返済いたすべく候。
一、利足の儀は自分以後取立候□□□公儀御定を過べからず、勿論利畳月躍等決て致すまじく候事
但、是迄相済候分ならびに元金の結ひ入れ、証文相改候分は御取訳これなき候事。
一、御家中ならびに在町共男女質物身代金是又貸金同様利下ケいたすべき事。
一、貸方にて樽代、飛脚銭、逗留銭等取受け候儀、以来堅く無用となすべき事。
但、借方ニても右の趣相弁まへ成丈け飛脚等受けざる様、精々いたすべき事。
一、山林田畑家財農馬其外共借金滞りのため、是迄金主へ相渡し置き候分、今更容易に御取訳これなく候。
但、其品ニ寄候義と心得申すべき事。
一、当分書入れの内田畑之儀ハ百姓相潰れの基に候間、成丈ケ取り失わず金子にて返済に及び候様いたすべき事。
一、自今以後田畑書入れにいたし金子借受け永代に相渡し候義は御法度の旨、急度相守るべき事。
一、御家中より在町へ利付貸金ならびに寺院月賦貸金以来無用仰出され候間、其旨相心得べく候事。
一、去り候年仰出され候御国産材木、此度御止メ相成り候間、何方へ売木いたし候共、前々通り山奉行へ願の上正路に取計い申すべき事。
一、在方にてはかりしと唱え、材木渡世いたし候者、農業の怠りに相成り候に付、先年も相触候通り追て御制禁仰出され候積りニ付、其節差支えこれなき様心懸けまかりあるべく候。
一、漆ならびに柏皮買入れ是迄相定め置き候処、以来勝手売仰付けられ候間、村々名主にて取調べ漆は□□方申立てられ、柏皮は山奉行へ申立、前々の通り運上納むべき事。
一、当分企て置き候講ならびに取退無尽の義は御糺の上、近々仰出され候筋もこれあり候間、暫時の間見合候様いたすべき事。
一、御家中ならびに在町御改めの駒、〓駒前みだりに内買いたし候ものこれある哉に相聞え心得違の事に候、以来御法の通、明白に売買いたすべき事。
右之通急度相心得、第一公儀御法の条々堅く相守り、上を重し、御年貢諸役大切に相勤め子は親に孝行を尽し、親も子に行儀作法を教え放埓ならざる様にいたし、夫婦兄弟親類にむつまじく、村内まちまちにこれなき様、実義ニ附き合い、他人に対シ無礼雑言つかまつらず、銘々農業を出精いたし、身分不相応の義仕まじく候、若し違背の族これあり、或は徒党がましき義仕り候者これあり候ハハ、御法の通り急度御仕置の上、組合役人頭立候者迄、知らず不行届候条越度に申付べき者也
巳二月
称平
海老之助
文太夫
同日家内士分宛に発せられた仕法替の触の内容もほとんどこれと同じであるので、この内容から、事件処理に関する藩の公式の態度を知ることができるであろう。
この仕法改革の触書の冒頭に百姓の困窮の原因は百姓自らの怠りと奢侈、身分不相応の借財であるとし、藩の政策の責任ではないとしているが、家中の高利貸、講、無尽が当分禁止され、あわせて利子の引き下げと樽代、飛脚銭、逗留銭の取立の禁止を命ぜられ、田畑の質入や永代売りの禁止が改めて強調され、借金取立に当たっては百姓の潰れが出ないよう配慮すること、また、材木国産の中止と漆、柏皮等の自由売買が認めざるを得なくなった。しかし、その反面、百姓の要求していた借財の二十カ年賦返済すること、質物として引き上げられていた田畑山林家財農馬等の返還等については解答を得られなかった。
一方この事件の責任者の処分は四月四日百姓側が正式に申し渡され、翌五日には家中士分の者家老以下二十名余にわたっての処分が発令された。
百姓側として、北金丸の八右衛門、須賀川の五右衛門、須佐木の正左衛門らが騒動の頭取として重刑の永牢を申し渡されたほかは比較的軽い処分であったが、この対象となったのは三十二名にものぼった。(表1)このような結果となったのは増徳初入部直後であって、また大雄寺への欠入歎願の故をもって罪科を一等減ぜられたのである。
徒党百姓の処分(益子信彭「御用留記」) |
村名 | 人名 | 刑罰 | 処分理由 |
北金丸村 古町組 | 八右衛門 | 永牢 | 徒党頭取 |
須賀川村 中組 | 五右衛門 | 〃 | 〃 |
須佐木村 上組 | 正左衛門 | 〃 | 〃 |
余瀬村 | 茂左衛門 | 宅押込 | 隣村之者起候 |
須賀川村 上組 | 市右衛門 | 〃 | 徒党之人数へ相加候 |
於多賀村 | 治郎兵衛 | 牢舎12日 | 〃 |
〃 | 嘉助 | 〃 | 〃 |
須賀川村 上組 | 万之助 | 〃 | 徒党へは加らず候得共廻状打捨置候 |
北金丸村 古町組 | 武右衛門 | 組預け御免、鉄手鎖12日 | 徒党の人数相加候 |
〃 湯坂組 | 市太郎 | 〃 | 〃 |
〃 〃 | 政三郎 | 〃 | 〃 |
〃 〃 | 太郎右衛門 | 〃 | 〃 |
〃 〃 | 藤左衛門 | 〃 | 〃 |
須賀川村 上組 | 礒左衛門 | 〃 | 〃 |
〃 〃 | 忠兵衛 | 〃 | 〃 |
〃 〃 | 金作 | 〃 | 〃 |
〃 下組 | 文平 | 〃 | 〃 |
須佐木村 中組 | 幸之助 | 〃 | 〃 |
余瀬村 | 左前 | 〃 | 〃 |
彦左衛門 | 〃 | 〃 | |
又左衛門 | 〃 | 〃 | |
升右衛門 | 〃 | 〃 | |
市左衛門 | 〃 | 〃 | |
北金丸村古町組名主 | 金左衛門 | 戸〆10日 | 徒党に不心附打捨置下知不行届 |
〃 湯坂組名主 | 利平 | 〃 | 〃 |
須賀川村 上組名主 | 六右衛門 | 〃 | 〃 |
〃 中組名主 | 式右衛門 | 〃 | 〃 |
〃 下組名主 | 作右衛門 | 〃 | 〃 |
須佐木村上中組名主 | 善右衛門 | 戸〆10日、名主役願により御免 | 〃 |
余瀬村 名主 | 要蔵 | 〃 | 〃 |
於多賀村 名主 | 政右衛門 | 戸〆10日 | 〃 |
大塩(引橋村)名主 | 石川嘉有 | 戸〆12日、名主役御免 | 徒党廻状打捨置、一応の申立も不仕候 |
頭取であった北金丸古町組の八右衛門の処分は次のような内容であった。
北金丸古町組
八右衛門江
申渡覚
其方儀借財多分ニ付難渋之旨願立仕るべくと去九月中、村々集会仕るべくの廻状差出、其後十一月五右衛門、正左衛門一同徒党相催候段、御法度を背重々不届至極ニ候、これにより、御法之通厳科申付るべき処、御初入猶又此度重御法事これ有るニ付、組親類大雄寺へ欠入歎願申出候ニ付御慈悲を以永牢申付もの也
次に四月五日に出された家中士分への処分は別表の通りである。
役職 | 人名 | 刑罰 | 処分理由 |
家老 | 大沼半太夫 | 御役取上蟄居 | 在町へ高利貸金出候こと |
物頭大吟味役 | 津田武前 | 〃 | 高利貸金並無尽講催し候こと |
大目付 | 松本源太夫 | 〃 | 高利貸金出候こと |
給人格 | 大関篤之介 | 閉門 | 百姓徒党に際し、これに同調し、不容易なるたちふるまいのありしこと |
〃 | 渡辺監物 | 〃 | 〃 |
〃 | 大塚久太郎 | 〃 | 〃 |
〃 | 松本織之介 | 〃 | 〃 |
〃 | 山上兵衛 | 〃 | 〃 |
〃 | 板倉政一郎 | 〃 | 〃 |
〃 | 鹿子畑阜太 | 〃 | 〃 |
〃 | 簗瀬兵右衛門 | 〃 | 〃 |
大小姓 | 小山守之助 | 〃 | 〃 |
〃 | 瀬谷善次郎 | 〃 | せり駒前内証買致候こと |
小児姓 | 津田岩太郎 | 〃 | 高利貸金並に無尽致候こと |
〃 | 松本多仲 | 〃 | 〃 |
物頭 | 瀬谷兵左衛門 | 遠慮 | 世忰へ御沙汰に付 |
大目付 | 小山新平 | 〃 | 〃 |
筆頭家老の大沼半太夫、物頭大吟味役津田武前、大目附松本源太夫等黒羽藩の重臣でありながら、高利貸、無尽、講を催して百姓騒動の原因をつくったもので、いずれも御役取上蟄居を命ぜられたことは注目に値する。
また、一方、大関篤之介以下八名の給人と意見書提出の際、藩政批判と仕法改革と責任者の処分を強く求めた大小姓の小山守之介の処分内容は次のとおりである。
給人 大関篤之介
大塚久太郎
渡辺監物
松本織之介
板倉政一郎
簗瀬兵右衛門
山上兵衛
鹿子畑阜太
大小姓 小山守之介
其方儀去る冬中百姓共徒党愁訴に及び候節、申聞度儀これ有る趣に付任過候得共、差し急ぎ直に申達候程の趣にもこれ無く、役人共迄申達候ても相済むべき事柄に候処、事々敷申し達し候、且つ又其節の書取りにも不容易の儀相認め不敬至極の事に候、其上数人申合せ徒党がましく、百姓共騒の折柄如何敷事にて重々不届至極に候、これにより申し付け方もこれ有り候得共、家督後初ての在邑中に付き格別の憐愍を以て閉門申し付け候、急度相慎罷りあるべく候
巳四月(安政四年)(一八五七)
これは安政の騒動に際して起った給人徒党に対する処分である。かれらは黒羽藩家臣団の中で中堅層にあって、この騒動に同調して真向から藩政批判の行動に出たことは藩秩序そのものの否定であり、藩にとって重大なでき事であった。この事件以後、藩内の農民闘争は、黒羽藩にとって無視することのできない大きな影響力を持つに至った。
《参考文書》
滝田家文書
益子信彭「御用留記」宇大図書館所蔵
幕末の農民一揆
益子信彭「御用留記」宇大図書館所蔵
幕末の農民一揆