第四節 明治二年、天領、旗本領内の農民騒動(一名ヤーヤー騒動)

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 明治天皇を擁して幕府を打倒、新体制の樹立をはかった薩長を中心とする朝廷方は、鳥羽、伏見の戦の後東征軍を発して進撃した。しかし二百六十余年にわたる江戸幕府の治制下にあった全国を、新しい体制下に治めることは容易なことではなく、ことに関東以北の地をどのように収めるかは重大な問題であった。
 そこでその手段として第一に採ったのが、進撃に先立って進撃予定の村々の人心の収らん策であった。その方法は、高度の理想論をもってきても到底その目的を達することはできないので、最も一般人に、ことに農民達のわかり易い貢租半減あるいは全免の布令を出し、新政府への加担をうながした。それまで苛酷な貢租、諸掛りに苦しみ続けてきた農民は、布令を信じ、新体制に賛成して西軍方に協力するようになった。しかしこのような政策が長続きすることのないことは明らかなことであるが、単純な、そして従来甚だしい苛酷な治制下におかれた農民達が、一途にこの新体制下に馳せさんずるようになったのも当然なことであった。
 やがて、戊辰の戦も一応片付き、農民達は御一新、御一新と新政府を謳歌し、豊かな政治の実施を期待した。しかし結果は完全に彼らの期待を裏切り、むしろ前時代をなつかしむ者さえあらわれ、彼らの不満のはけ口は強訴あるいは打ちこわしなどの形となって、新政府へ反抗を表わすようになった。
 大田原地域でもこのような反抗騒動が、明治二年(一八六九)に二回起っている。一つは付近の天領及び旗本領二十九か村の農民騒動であり、一つは上石上を中心とする大田原領八か村の農民騒動である。前者はヤーヤー事件またはヤーヤー騒動ともいわれ、参加の村数、人数は後者に数倍する大騒動であった。
 なぜこのような騒動が起ったか、次の文書を追って明らかにしたいと思う。
   乍恐一同奉歎願候
  下野国那須郡村々歎願之始末左ニ奉申上候
一今般奉申上候義は当巳年之義作方稀成(まれなる)不熟ニ御座候間先般御検見御苅様之上格別之御引ニも相成候段一同 御仁政難有仕合奉存候 然ル処昨年之義は不及申上御軍役鴨敷不限昼夜ニ宿詰は勿論白川并ニ会津御進軍之人足ヲ相勤メ農事之暇更ニ無之田畑手入方自然不行届唯仕付候而巳ニ而悉ク違作仕候処御年貢米之義御引方も無御座前々之通被仰付其外高掛り諸夫銭莫大ニ相掛り難渋仕居候 折柄困窮之者共も御救助米頂戴仕難有農業仕付精々仕候処七月中大嵐ニ而田方は勿論畑作迄取実薄雑穀使喰之手当無之御上納御候得共来ル午ノ種穀并ニ扶喰米更ニ無御座様成行百姓丹精可致尽力茂無御座村々一同難渋仕候間当巳之御上納米之内半高来午ノ種穀并ニ使喰為手当年陟拝借被仰付百姓相続相成候様 御仁恵之御沙汰被仰付候様奉歎願候

一御年貢米東京浅草御蔵納に被仰付候而は一同難渋仕候間旧来之通時相場払代金納被仰付候様奉願上候

一先般国家融通之為金札御下ケ渡相成候ニ付高割ヲ以正金銀ト引替御上納可致旨被仰聞敬承候得共窮貧之村々之義故正金貯候者無之有徳之者ヘ無心仕金壱両ニ付金弐朱宛歩合金ヲ差出し漸才覚上納仕候処悪金ニ付御下ケニ相成請金口前御下ケ相成候金札ニ而早々引替可申旨村々役人より厳重被申聞早速金主方ヘ替金申談事候得共一切取敢不申他ヘ差向候ても 御上様より悪金として御下ケ相成候上は強而通用不相成村々必至之才覚ヲ以金札返納は仕候得共右御刎(はね)金ニ相成候分所持仕通用不相成一同取続方ニも差支極々難渋罷有候間右金子融通相成候様御仕法被下置度此段奉歎願候

一去ル寅年より当巳迄貧民共田畑質地ニ相渡置候分追々違作続旁難渋弥増金子調達不相成耕地不足仕潰退転之分無御座難渋仕候間恐多キ御儀ニは御座候得共今般難有 御一新之折柄質地請戻し金年賦拝借被仰付被下置度此段偏ニ奉願候 弥御聞済ニ難相成候義ニ御座候ハハ金主共より地主共地面差戻し被仰付質地金之義ハ来午より無利足拾ケ年賦ニ済方被仰付被下置候様幾重ニも奉歎願候

一貧民一同下々方借金之義難渋困窮相嵩(かさみ)候間御上様ヘ来ル午之種穀使喰未迄奉拝借程ノ時勢ニ御座候得は利子は不及申上元金迄茂更ニ返済手段無御座必至難渋仕候間金主共ヘ無利足拾五ケ年賦済方被仰付候間窮民御救被下成度此段奉歎願候

一村々役人之義ハ村々限り小前一同集会之上人撰入札ヲ以相定役人奉願上候様被仰付度奉願上候

前書ケ条之簾々御時節村々惣百姓難渋相迫り挙而奉歎願度出郷仕候ニ付何卒以御仁恤ヲ前書歎願之始末御聞済被成下置此段惣代ヲ以奉願上候 以上
    片府田村  新宿村  上蛭田村
    下蛭田村  蛭畑村  浄法寺村
    小川村  福原村  大神村
    中居 八木沢村  滝の沢村  岡和久村
    青木 若目田村  上沼村  小種嶋村
    三色手村  宇田川村  三斗内 鷹巣村
    薬利村  山崎村  佐良土村
    大久保村  山田村  矢倉村
    上 下滝村  小船戸村  倉骨村
    鹿畑村  奥沢村
                右村々惣代
                   片府田村 文平
                   青木 若目田村 善蔵
                   同村   常蔵
                   岡和久村 伊右衛門
   明治二巳年十一月日(一八六九)
    御当方様
(藤田隆蔵宇田川文書)

この願書の内容は、
 一番目は明治元年(慶応四年)に引続き明治二年の不作、前者は戊辰戦乱に伴う人災のため、後者は天災により、種穀、食料にも困るありさま、それにもかかわらず前年の約束の貢租軽減どころか却って負担増大のありさま、そこで農民達は本年(明治二年)産米の内貢租分の半分を来年の種穀及び食料として貸し与えてほしいとの願いである。
 二番目は貢租米はこれを江戸送りとせず、是非地元へ元して置いてもらいたい。そして旧来の相場による代金納にしてもらいたいとの願いで、これは貢租米を江戸送りにしてしまってはいよいよの場合餓死騒ぎとなりかねないことを考慮してのことであり、旧来の相場による代金納の願いは、明治二年の引続く不作は米その他の食料品の価格暴騰を起こし、その値段での代金納では困難なことを考えてのことである。
 三番目は新政府が金札を発行して置きながら上納は正金銀をもってせよとの命令、農民達はやむなく裕福な者から壱割弐分五厘の両替金を払って才覚し納付したが、それは悪銭であったため政府は受け取らず、そこで借財者達は金主に正金に代えてくれるよう談じても、また借用銭と渡した金札と取り換えてくれるよう談判しても埓(らち)が明かず、そこで悪銭としたものの通用を認めてくれるようにとの願いである。
 四番目は慶応二年(一八六六)(寅)より明治二年(一八六九)(巳)までの間の、借金質入れ田地の請戻(うけもど)し金を貸してもらいたい、そして十か年賦償還にしてもらいたいとの願いである。
 五番目は借金返済について、今までの借金はこれは今後十五か年、無利子で年賦償還方の命を出してもらいたいとの願いである。
 六番目は従来村役人はほとんど世襲であったのを、村人による公選にしてもらいたいとの願いで、ここに封建的世襲制より民主制への一歩が踏み出され始めたことがうかがうことができ、きわめて注目すべきことである。
 当時栃木県内の天領、旗本領は日光県に属しており、この近郷の日光県出張所は佐久山町にあった。彼らはこの願書(要求書)を佐久山出張所に提出したがついに許されず、そこで小前百姓達は総決起して、十一月十五日夜一部はこの事件の主謀者となった文平の住所近くの片府田村合郷の芝地へ、一部は同主謀者善蔵、常蔵、伊右衛門の住所近くの上沼村(花園)の秣場に集合、それぞれ要求貫徹について相談をした。
 これを知った各村役人達は大へん驚き、現場に行き彼らの説得にあたったが承知せず、百姓達は合同して十六日夕刻佐久山宿に出てヤーヤーと大喚声を挙げつつ、さらに日光県庁に向かおうとし、その晩は日光街道沢村(矢板市沢)の原中に野宿、篝火をたき、焚出しをして、翌早朝県庁に押し寄せようとした。
 佐久山出張所役人達は大いに驚き、急ぎ現地にかけつけ、彼らを鎮撫しようとしたが、容易に従わない。そこで一応彼らの願意を聞き届ける旨を申し渡して押し鎮め、主謀者四人を捕縛して日光県庁へ引き立てて行った。なおここに記された願書は沢村原中の現地で記したもので、元の願書は願文の周囲に輪形に彼らの名を記し、何人が主謀者であるかを不明にしたものと言い伝えられ、役人達が抜刀して主謀者を究明した際、前記四人が自ら名乗り出て、その席で前記願書を書かされ、そして捕縛されて行ったものであるといわれている。
 その後村役人達は次のような弁明書を県に対して差し出している。
  乍恐以書附奉申上候
一今般佐久山宿ヘ御出役被遊村々役人并ニ小前惣代之もの被召出去ル十五日夜上沼村秣場并ニ片府田合郷と申芝地ヘ百姓共多人数屯集致同十六日佐久山宿ヘ右百姓共大声ヲ揚ケ通り掛リ候ニ付佐久山役場ヨリ御差留相成リ候一件右百姓共趣意柄并ニ村役人共心得方御糺御座候ニ付左ニ申上候

一村々役人共義小前百姓共前書合郷之台江相集り候趣追々承知仕候ニ付各村方ヘ引戻し度ト存其場迄趣申諭候得共何分多人数ノ義ニ付相〓(制)し候而も聞入不申彼是心配仕候中時刻押移り十六日暮合ヨリ右場所引払佐久山宿方ヘ相掛り候間役人共ニ於テモ是悲(非)差留度追掛候得共中々以相留り不申其内宿内通り掛り大勢之もの大声ヲ揚ケ候事故夥敷相聞候ニ付佐久山御役場ヨリ役人中御出役被成日光街道沢村通之原中ニテ御差留被下候趣追々承知仕右場所ヘ村役人共駈付猶又御出役御役人中ヘ相縋り連而是ニ而御差留メ被下度段一同御願申上候ニ付御同家御家来中程々御利(理)解被成下候上寒夜ノ義ニ付多分之薪御取寄二拾五―六所モ〓焚百姓ヲ図居いたさせ其上宿内ヘ被仰付多分之焚出し御運送ニテ百姓共ハ勿論私共迄も食用致候様多人数ヘ御配り被下置夫より右百姓共ヘ趣意柄申上候様被仰聞百姓共之内ヨリ書取ヲ以申上度旨申上候ニ付御聞済被成御猶予有之漸書取出来差上候処御認印之上惣百姓共之内ヨリ〓(ママ)取ヲ以四人御召連其場所ヨリ御家来中御三人日光表ヘ御出立ニ相成其節大勢之百姓共義は御利解承知仕何分ニモ相願候旨申上退散之義奉畏候ニ付其場所ヨリ各村方ヘ引取申候右之通り之次第ニテ村役人共儀小前共如斯体ニ及候ヲ取押方不行届佐久山宿御役場之御威光ヲ以引留り相成候次第何共不行届之段奉恐入候 前書申上候通り佐久山御役人中様御厄介ニ相成リ候ニ付村々役人之内ヨリ多人日光表ヘ随従致差出し申候

右之通り之次第ニ御座候間村役人共ハ小前百姓共之願意モ不相弁且制方も不行届恐入奉存候此上何分寛大之御所時(処置)奉願上候

右申上候通り相違無御座候仍而役人共一同連印ヲ以此段奉申上候以上

                               (村役人名不記)
(宇田川文書)

 この騒動に参加した人数がどのくらいであったかは不明であるが、村数二十九カ村、当時の倉骨村は約四十戸、宇田川村五十八戸、もちろん村に大小があり、これらをもってそのまま村戸数を推定することは誤りもあろうが、二十二~三戸平均位と見れば大差はないように思うし、これからみて大体この騒動に加わった人数は六百余人位と考えられる。
 これに対して村役人達は大勢のものが大声をあげたので夥しい人数に見えたとしている。またかがり火を焚(た)いて気勢をあげたのは、寒夜の故としている。もちろん陰暦十一月十六日は陽暦十二月十八日にあたり、夜間は相当寒くもあったであろうが、単に暖をとるためのみでなしに気勢をあげる一手段としたことも事実であろうし、さらに焚き出し食を自分も食したとしているが、はたしてどうであろうか。最後に百姓達はよく理解したとしているが、正直な百姓達は願意がそのまま聞き届けてもらえると考えたものではなかろうか。
 これについてはどの程度その目的が達せられたかについての記録は未だ発見されていない。ただその後前期二十九か村の内、二十二か村の村役人及び小前惣代連印の請書は次の通りである。
  差上申御請書之事
一今般私共村方小前之もの共参会致候所入御聴連御廻村之上其始末御糺有之候処素ヨリ党ヲ出願致義ハ毛頭無之候得共社中ニ相漏候村々ハ難捨置杯ト無屋ヘ廻達も怖レ無維と沼村原中江集り合談候段申上候ニ付御被申渡候は御維新之折柄言路被為開何事ニ不限無忌憚可申上旨兼而御布令も有之且幾重ニモ被為救候御主意ニ候得は村々ニ於テ願向等有之候ハハ神妙ニ惣代之者ヲ以テ可申上候徒党は不容易事ニ候得は以来何様ノ廻状等到来候とも決テ動揺仕間敷は勿論風来之廻状継キ来り候得は留置早速其段御役所ヘ御訴可申上候 若相背キ廻状ニテ無余義罷出候杯申出候族有之候ハハ厳重ニ御取調とも相成可申候間村役人ニ於テモ無油断取締筋相弁ヘ心得違之もの無之様精々小前共ヘ教諭可致候 若不相用者有之候ハハ其段御訴可申上候小前ニ於テハ村役人の差図ニ随ヒ不慎之挙動無之様第一生業相励可申候右被申渡之趣一同承伏奉畏候不罷出もの共ヘは不洩様篤と可申通旨是又被御申渡承知奉畏候因テ御請ケ証文差上申処如件

  明治二巳年十一月十九日
           御支配所 野州那須郡
                            中居村 八木沢村 福原村
                            大神村 上沼村  滝之沢村
                            青木 若目田村  小種嶋村 三色手村
                            三斗内村 鷹巣村 片府田村
                            荒宿村 上蛭田村 下蛭田村
                            鹿畑村 小川村  浄法寺村
                            倉骨村 宇田川村 蛭畑村
                            下奥沢村
                          右村々役人
                           小前惣代
                               連印
    聴訟掛り
                野村権大属 殿
(宇田川文書)

 
 これでみると願意を聞き届けてもらったことについては何も記されてはなく、ただ徒党を組んで願い出るようなことについては今後も取締るということだけである。もっともこの請証は事件を起してから三日後のことであり、その後どのような処置が行なわれたものかも全く不明である。しかしこの騒動は、明治新政府に対する不満と従来の村役人や村の裕福者と小前百姓との長い間の感情問題に起因する騒動であったように思うのである。