第五節 上石上村ほか七か村の農民騒動

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 これは元大田原藩領(上石上村、下石上村、上大貫村、下大貫村、関谷村、高阿津村、宇都野村、金沢村)の農民三百余人が、明治二年(一八六九)明治新政府に向って農民の窮状を訴えようとして起した騒動である。
 当時この地は鹿野(かの)の一部であり、明治二年にはまだ大田原県の治下にあった。それにもかかわらず直接日光県に向って訴えようとしたもので、前年の会津戦争にはここからも人夫として、あるいは戦士(猟師を戦士として参加)として大田原藩の指揮のもとに参加している。ことにこの騒動の主謀者の一人である二宮勝衛(元主計)は大田原藩士並に遇され、農民出身の人夫達の指揮者となっていた。
 このように直接会津征討に参加してみて、小藩の微力さや、新政府の力の大きさを知った彼等は、今になっては藩に向って要求してみても、到底自分達の望みを達することは困難であると考えたか、直接明治政府の出先機関である日光県に向って要求しようとしたものではなかろうかと考えられる。
 騒動の起ったのは明治二年(一八六九)十一月二十四日(太陽暦十二月二十六日)主謀者は二宮勝衛(主計)と藤田新之助(後信之助)の二人、彼らはこの日の早朝箒川原に集合し、大挙して矢板市川崎、館ノ川を経て河内郡今里についた。
 急を聞いた大田原藩では人見某、浅見某の二名の藩士に後を追わせた。また日光県からは仁平和三郎という役人が出張して、彼らの説得につとめ、一方主謀者を取り押えようとした。二人はいち早くそこを逃れ、二宮は千葉県銚子へ、藤田は茨城県の某地へ行って身をかくした。後の者達は藩の役人の説得により、その場で願書を認め、これを差出した。願書は上石上村問屋小野崎東助氏と後藤悟の両人が作製したと伝えられているが、願書の内容がどのようなものであったかは不明である。主謀者を失った彼らは間もなく解散した。
 銚子に逃れた二宮勝衛はその後ひそかに妻子を呼び寄せ、その地で寺小屋塾を開き、子弟に読み書きを教えていたが、明治十年(一八七七)秋、水戸裁判所栃木支庁に自首し、次のような判決を申し渡されている。
               橡木県那須郡
                   上石上村二宮勝衛
其方儀明治二年収穫凶荒 村民難治歎減租等受庁旧大田原藩江請願允許無第ニ掲傍制禁犯衆聚訴構科改定津例二百八拾七条依徴百日可申処艮亡罪以徴役八拾日論決申ニ罪倶厳例照例罪通計徴役ニ拾申付

    明治十年十一月八日
        水戸裁判所
           橡木支庁
(二宮勝衛墓碑裏面)

 首謀者の一人藤田新之助(後信之助)は暫らく茨城県に身をかくし、追手をのがれていたが、後矢板市山田関根の万蔵宅に妻子と共にかくれ住んでいたが、明治十七~八年(一八八四~五)頃帰郷した由である。新之助は那須ケ岳と名乗って相撲もとった人である由で、大正八年十月二十日八十七才で没している。
 上石上法善寺の墓碑銘に、
   義照院殿良勇弓誉徳新大居士
 と記されている。