大田原市倉骨は、はじめ幕府直轄領であったが、後旗本久世丹後守の知行地となり、明治維新に及んでいる。
元禄十二年(一六九九)の古記録によると、那須郡における幕府直轄領は、五十八か村あり、これを年貢収納、その他の便宜のため地域別に八組に分けた。倉骨村は片府田組に属し、文政の頃は既に旗本領になっていたようであるが、その年代は判然としない。文政七年(一八二四)の倉骨村名主郡司家文書によると「久世丹後守知行所、石高百八十八石七斗六升六合」とあり、これによってみても当時すでに旗本の知行所であったことがわかるのである。現在の倉骨は、東坪、笹原、折橋からなり、旧村は東坪で西側の笹原、折橋は後に開けた土地であるといわれている。