倉骨村も北関東農村荒廃の例にもれず、天明の大飢饉、つづいて寛政、天保の凶作のあとをうけて、貢租の過重、助郷等の課役にたえかねた貧窮農民は次々と村から欠落していき、潰れ家ができ、荒地、手余田のできたことは前記の通りであり、郡司家文書によれば、天保十三年(一八四二)に地頭所に差出した退転人の荒地手余田は、荒地弐町三反四畝六歩、手余田所二町三反二畝一歩とあり、安永五年(一七七六)までは家数三十五軒、人別百五十人あった村は退転による潰れ家が十四軒もでき、人別七十一人、荒地、手余田所が四町六反も生じてしまったのである。