(二)北陸農民の移住

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 現在倉骨には、浄土真宗忍精寺檀家が四十軒程度あり、初代は何れも越中、越後の出身で現在では四代から五代目になっている。最初の移住者は大体七、八軒位と推定され、それが分家、分家より更に分家へと分れ現在の軒数となっている。(他からの入植者も幾分あるようである。)
郡司家所蔵の安政二年(一八五五)の永納方御蔵貢帳と御高帳には左表のような記載がある。
安政二年 石高帳
家持石高附記
石 斗 升 合 勺 才
温泉大明神除地一・一・六・九・六・三除地
郡司太郎右衛門一五・一・三・八・三・〇名主
太右衛門四・三・一・三・二・〇
寅蔵六・八・八・八・二・〇
駒之助七・七・二・一・六・〇
常蔵四・二・七・二・九・〇
新松六・四・七・五・九・九
金作三・九・四・九・二・〇
庄三郎三・九・八・三・四・〇
伊右衛門三・五・二・一・三・〇
文左衛門四・一・四・六・二・〇
庄三郎三・九・八・三・四・〇
庄右衛門四・八・二・四・〇・〇
綱吉一一・二・五・八・七・〇
弥三郎一一・一・九・三・四・〇
雲之助後家六・七・一・六・七・〇
長右衛門九・二・三・九・一・〇
藤吉八・九・一・四・四・〇
忠作八・五・〇・四・八・〇
郡司粂蔵四・三・四・一・一・〇
源蔵六・四・〇・六・三・七
伊三郎四・五・〇・〇・〇・〇新百姓
久八四・八・〇・八・〇・〇
与三郎五・八・〇・六・〇・〇
亀七三・八・三・一・〇・〇
松蔵五・四・五・七・九・〇
忠助一・五・二・四・〇・〇
伊助〇・九・六・一・〇・〇
清蔵三・〇・五・七・〇・〇
伝左衛門一・二・九・八・〇・〇退転人
太郎兵衛一・五・三・一・五・〇
藤右衛門八・四・九・五・六・〇
忠左衛門〇・六・一・六・六・〇
幸門三・八・三・四・〇・〇
半左衛門一・〇・五・〇・七・七
重兵衛八・五・七・五・〇・〇
勇治三・一・九・五・三・〇
利右衛門三・四・一・四・〇・〇
清兵衛三・二・三・八・〇・〇
治助二・一・一・九・三・〇
忠右衛門二・五・七・一・〇・〇
藤兵衛〇・四・七・二・〇・〇
(安政二年御高帳、郡司家所蔵)

 この石高帳からは十三人の者が村から退転し、新百姓が八軒入ったことがわかるのであるが、北陸からの移住者を土着の人達が「新百姓」と呼んで軽蔑していたことは北関東全般のことであったことからみて、この八軒も北陸からの移住者と考えて差支えないと思われるのである。これによってみても安政二年(一八五五)にはすでに八軒の北陸農民の入植者があったわけである。
 入植年代は古文書より察して天保(一八三〇~一八四四)、弘化(一八四四~一八四八)、嘉永(一八四八~一八五四)年中と推定されるのである。倉骨村の入植方法は移住農家の調査により、潰前入百姓の形がとられたようであり、入植の経路については各戸とも不明で、わずかに初代は越中、越後の出身であることを知るだけである。
 大田原市忍精寺住職談によると、門徒として最も古いのは、倉骨地区の門徒であったという。「真宗大谷派栃木県下各寺院誌稿」の「光明山・忍精寺」の項に、
「由緒縁起 忍精寺門徒は越中、越後、信濃、高田、茨城より移住せるものにして、その移民の時期は、明治以前に来りし者は拾指に満たずして、その大多数は明治二十四、五年頃より大正初頭頃である。最も越中、伯耆より移民するものが門徒の七割を占む。淳生代には檀家数僅かに二十七軒のみ、現在の移住者は第三代目第四代目である」
「創立文政二年(一八一九)
系譜

「一代 道林  二、三代 不明  四代 淳生  五代 大忠  六代 淳忠  七代 正山  八代 巨也

第一、二、三代目までは浅草本願寺の掛所、四代淳生の時に京都本願寺より忍精寺の寺号が授与されたのである。」

 とある。忍精寺の過去帳を調査すると川西町、黒羽町、亀山村(黒羽町・片田)余瀬村刈切村の門徒が僅かであるが文政、天保年代に見られ、倉骨地区の門徒の名は弘化三年(一八四六)頃から見られるのである。
 忍精寺の創建は、北陸農民とはきりはなしては考えられないものであり、「明治以前に来たりし者は拾指に満たずして……」とあるのは、前記北陸移民の門徒を指すものと推定される。
 北陸農民は浄土真宗の信仰があつく、たとえ関東に移住しても絶対に宗旨を変更することはなかった。そして真宗の寺院のあるところから遠くはなれたところに入植した者たちは、必ず心の故郷である真宗寺院の創建を強く望んだのである。
 真岡市西念寺の創建を一例にあげると、真岡市東郷代官岸本武大夫は、寛政年間、支配地である下野、上総、下総の農村復興のため多数の北陸農民を領内に移住させたが、これ等農民の乞により心のよりどころである真宗の寺院を建てたのであるが、これも最初は浅草本願寺掛所として建てられ、やがて西念寺の寺号を本山より授与されたのであり、忍精等の場合と全くその経緯を同じくするものである。