第三節 三斗内・鷹巣村の移民

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 大田原市実取の三斗内村・鷹巣村は江戸時代には、幕府の直轄領で、元禄十二年(一六九九)の記録には高六百四十一石七斗一升一合が記されている。
寛政・文化・文政年代(一七八九~一八三〇)は、代官山口鉄五郎の支配下におかれたのである。三斗内・鷹巣の二地区をもって一村を形成していた。現在実取には十軒程佐久山正浄寺門徒があり、その初代は越中の出身者で、いずれも成功して経済的にも恵まれた生活を送っている。
三斗内・鷹巣村の名主森家の古文書により移住農家の入植を調査してみると、高品支配の文化中(一八〇四~一八一八)には八木沢中丸に北陸農民を入植させた記録もあり、親園地区にもかなり早くから移住者がいたことを知るのである。
実取地区の移民は弘化(一八四四~一八四八)、嘉永(一八四八~一八五四)の年代と推定され、天保時代(一八三〇~一八四四)の古記録に、
「那須郡の儀者、薄作人少困窮ニ付、手余地弁納多の相成其上奥州道中助郷相勤極難渋ニ付何程農業ニ出精仕候モ百姓相続難相成、先支配中モ度々願出候処不容易儀ニ付難存上由(下略)

これは幕領五十八か村名主総代による定免の引方、助郷課役の軽減を代官所に歎願した書状の前文であるが、那須郡五十八か村の幕府領も退転人が多く年貢の過重や助郷課役に困ったことがよくわかるのである。
また、
「天保二卯年凶作より極困窮に陥、其上度々の類焼に付追々退転したる者数多有之、宝暦年中の頃は、家数百九軒、人別男女四百六十二人御座候、当今家数六十七軒、人別三百四十人に相成(下略)」

これは天保十四年(一八四三)に鍋掛宿助郷十八か村の総代によって代官所に差出された歎願書の一節で助郷課役の軽減を歎願したものである。天保年間の凶作に、前から疲幣していた農村は、幕領、大名領、旗本領をとわず農村の荒廃はその極に達した感があり、退転人の続出により潰家、手余地が数多くできたことは前記倉骨村と同様であった。
嘉永二年(一八四九)三斗内鷹巣村のうち三斗内組の宗門人別書上帳に「高八十七石三斗五升四合、退転人持地三分」とあるところからも、この地も退転人が多かったことがわかるのである。こうした農村の荒廃に幕領でも積極的な入百姓政策がとられたことは当然であり、当時の文書によると、入百姓願書の様式が代官所から示された廻状があり、また天保十一年(一八四〇)の代官所から村々への触状に、
 「去未年(天保六年、一八三五)中欠落人跡掛願イ候分ハ相応之相続人見立二月五日迄可願出候。早速相続可致クモ、引受人取極是又 二月五日迄可申出候」とある。
これによってみると、欠落人(退転人)によって絶家となった家の相続は、適当なものがあれば願出によって容易に許されたようであり、引受人は、各村とも名主がなったようである。
 実取地内の移住は、当時の代官川崎平右衛門のこうした施策により、潰家に入ったいわゆる潰前入百姓であったようで、古老の話や、古文書等或は移住農家の調査から察して大体間違いないようである。
 移住農家森家の当主談によると、初代の二男は同じ実取地内に分家しているが、これは潰家に入ったもので、現在その家の姓を名乗っており、墓地もそのまゝ継承したようである。嘉永二年(一八四九)の宗門改入別帳によると佐久山正浄寺の門徒が一軒であり、安政年代には四軒にふえていることから察してこの地の移民は弘化・嘉永の頃(一八四四~一八五四)と推定してあやまりはないように思う。