金沢家の初代は忠兵衛といい、高橋家初代とは義兄弟である(忠兵衛の妹が喜平の妻)藤沢移民は、高橋家の入植よりややおそく、藤沢村名主諏訪家の世話で潰れ家に入ったという。初代忠兵衛は加賀金沢在の出身で、金沢の姓は出身地の名を姓にしたものであるという。現在では分家、分家より更に分家と分かれ金沢姓は八軒あり、現在では四代目、石田家は初代を重右衛門といい、現在で五代目ぐらい、出身は越中で潰れ家に入った分家四軒が藤沢地内にあり、詳細は不明である。
諏訪家文書に安永三年(一七七四)の藤沢村の田畑持高帳が保存されているが、それによると家持が九軒あり、安永以後の天明の大凶作、その後の寛政・天保の凶作等から、藤沢にも潰れ家ができ、荒廃したことは、他村と同様であり、その後の嘉永六年(一八五三)の藤沢村宗門御改下帳によると、佐久山正浄寺門徒として、家主重右衛門、喜平、忠兵衛とあり家族の名も記されている。いずれも高橋家・金沢家・石田家の初代である。
嘉永六年以前の宗門改帳は見出すことはできなかったが、移住の年代は大体天保・弘化(一八三〇~一八四八)の頃と推定される。なお嘉永六年(一八五三)の藤沢村の軒数は九軒であり、安永三年(一七七四)の戸数と一致し、これから三戸の潰れ家ができたように思われる。
諏訪家文書に安永三年(一七七四)の藤沢村の田畑持高帳が保存されているが、それによると家持が九軒あり、安永以後の天明の大凶作、その後の寛政・天保の凶作等から、藤沢にも潰れ家ができ、荒廃したことは、他村と同様であり、その後の嘉永六年(一八五三)の藤沢村宗門御改下帳によると、佐久山正浄寺門徒として、家主重右衛門、喜平、忠兵衛とあり家族の名も記されている。いずれも高橋家・金沢家・石田家の初代である。
嘉永六年以前の宗門改帳は見出すことはできなかったが、移住の年代は大体天保・弘化(一八三〇~一八四八)の頃と推定される。なお嘉永六年(一八五三)の藤沢村の軒数は九軒であり、安永三年(一七七四)の戸数と一致し、これから三戸の潰れ家ができたように思われる。
高橋村の入植も大体藤沢村と同年代であり、潰前入百姓の形がとられたものと推定される。これは一方の高久家は実取と同様佐久山禅宗実相院の檀家であり、一方の高久家は正浄寺門徒であるところから、潰れ家の高久家に入ったのが正浄寺門徒であり、北陸農民の移住者ではなかろうかとも思うのである。