三、花塚移民

788 ~ 789
 佐久山花塚部落には、現在十一戸の佐久山正浄寺門徒がある。
花塚も現在の石塚姓の祖先の移住前に開けていた形跡があり、移住農家の古老の話によると、移住前に開けていたらしい古屋敷がいくつかあり、又古い墓地もある。墓石には享保年中(一七一六~一七三六)のものもあるという。
 これらのことから考えると、天明の大凶作、或はその後の凶作などによる餓死または退転によって一部落懐滅したのではないかとも思われる。事実北関東にはこうした一部落が全部懐滅したところのあることは、前に述べたとおりである。
 移住者の初代はいずれも越中の出身者で、最初の四軒から分家した家と、その後の入植者とあわせて十一軒となっている。
入植は大体安政年間(一八五四~一八六〇)と推定される。石崎姓を名乗る者が多く、幕末の移民は花塚の先住者を頼って、大沢・平山へと入植していったように見受けられるのである。