四、平山の移民

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 平山部落は現在二十軒ほどあるが、いずれも佐久山正浄寺の門徒であり、幕末の文久・元治の頃(一八六一~一八六五)北陸の農民によって荒蕪地が開拓されてできた部落ではなかろうかと思う。
 古文書に類するものは何も残っておらず、従って正確は期し得ないがいずれも先住の移住農家を頼って徐々に入植したもののようである。
金山家は前述の藤沢の高橋家を頼って入植しており、青木家は佐久山の森家を頼って来たという。北原家は先に入植した青木家を頼って入植したと言われている。
 平山部落共有の冠婚葬祭用の膳、椀入の古い箱には、北原両家、青木、多島、金山、松本、石崎七氏の名が記されている。これによって考えればこの七氏も入植の時期には多少の相違はあるが、最初この七軒によって開拓が進められたとみるべきであるように思う。入植者の血と汗の努力によって水田灌漑用の平山溜が作られたが後述のように極めて微々たるものでほとんど飯米を充す程度のものであったため、高橋、平山、藤沢、大神南部の四部落は共同して用水の導入をはかっている。この用水導入と耕地整理の完成により、四部落は長い間の夢の実現が果された訳である。
 耕地整理記念碑
完全なる用水の導入と耕地整理は蓋し水田経営発展の根幹也 由来高橋、平山、藤沢、大神南部の郷は僅かに高橋、平山の両溜を天水に依存して植付不能を状態とし六十二町七反八畝歩の原始田は飯米にも足らぬ農家経営を己むなくせしめたり、明治四十四年憤然蹴起せる耕作者は同年十二月二十三日本組合を創立し請負人青木六郎をして箒川の水を野崎村沢より延長三千二百九十七間(約六キロメートル)内隧道二千百五間(約三・八キロメートル)の水路工事を明治四十五年二月十日着手、翌大正二年十月二十日竣工せしむ、工費総額五万七千二百円内水路工費二万五千円、次いで耕地整理工事は大正二年十一月着手、同四年十二月竣工し土地の換地交付も同六年完了、増反すること四十四町(約四十四ヘクタール)にてその面積実に百六町八反七畝歩(約百六ヘクタール)に及ぶ。
此の工に当り組合長諏訪種次郎(当時三十七歳)以下役員十一名は組合員七十名と倶に終始凡ゆる艱難に先んじ障碍を克服し能く今日の盛を創む、惟ふに先覚の見識と勇断は永く不滅の光明と□を□る後志□計りて深く之を訓し以て頌す

  昭和二十六年十月
                               佐久山町長 森大暁撰文
                               渡辺喝山 蒙額並書

佐久山高橋部落の入口(北)にある
耕地整理記念碑

 尚碑の裏面には、
    組合長諏訪種次郎他役員十一名の氏名及び組合員七十名の名が刻されている。
 
 強い北陸移民の艱苦のあとを物語る好資料であるように思うのである。