古老の話では渡辺家の入植が最も早く、渡辺家の初代は前記花塚の移住者石崎家を頼ってしばらく石崎家の世話になり、そこから大沢の開墾地に通ったといわれている。
察するに大沢開墾の初代は直接越中から大沢に入植したものではなく、那珂川・江川等を朔り先住者を頼って上江川・小川・薬利・志鳥と次第に北上し、佐久山を中心とした新たな開墾地を求めていたもののようである。上江川の金枝村は那須郡における北陸移民の最初に入植した地であり、その後の移住者も、金枝をはじめ南和田・東和田・曽根田・河戸附近に先住移民が定着しており、下江川・志鳥附近・小川町薬利にも潰前入百姓と思われる北陸の先住者がいたようである。また佐久山には前記の藤沢・高橋・花塚部落などに先住者のいたことは前記の通りである。
大沢移民の大体の入植経路は常陸北浦、笠間辺を目指して関東に入り、さらに芳賀郡真岡・茂木へと那珂川を北上して烏山藩に入り散在的に入植していた先住者を頼って北上したものではなかろうかと思う。
大沢部落は昭和三十四年に「大沢開墾百年祭」を催し、祖先の労苦をしのび「大沢開墾百年史」も刊行された。
百年史に曰く、
「関谷倉太は佐久山町大字佐久山の人なり。夙に意を殖産事業に用う。佐久山西方半里許りの所に荒蕪地ありて之を耕すものなきを憂へ、郷人手塚善八、渡辺平左衛門、平沢村渡辺順作、鶴野平右衛門、渡辺又蔵等と相謀り万延元年領主福原資功に之が開拓を出願して允許を受け、且領主より其の助成費として金五十両を下賜せられ、又年々米二十八俵を下給せらる。庫太等感激して誓って主恩に報ぜんと欲す。茅茨を誅し滝圃を設け、溝渠を穿つこと一里、箒川の水を引きて以て灌漑の用に供し、加賀・越中より移住民を招きて鋭意開墾に従事す。着手してより七年を閲し慶応二年功全成る。水陸田を開くこと実に六十町歩、手塚善八費す所五百余両、庫太等五人二百余両なりという。移住するもの十三戸、新たに一小部落を得て大沢坪と称す。領主福原四郎資生其の労を賞せんとせしが、会々廃藩となりて果さず依て郷人其徳を不朽に伝えんと欲し、明治二十二年大沢開拓の豊碑を建立せり。」とある(原文は漢文)
又碑文に曰く、
大沢開墾之碑
下野国那須郡佐久山駅西半里有荒原同大沢曽無人耕之者駅人手塚善八首唱墾闢与同駅関谷庫太・渡辺平左衛門、平沢村渡辺順作・鶴野兵右衛門・渡辺又蔵謀万延元年請之領主是年七月受允許且賜金五拾両又年々給米二十八葱以助其挙皆感激誓欲報主恩達素志誅茅夷苅以設隴献作溝渠一里穿隧道二所引箒川水以使灌漑依之開拓水陸田者実六十町余段也 文久元年始設民家慶応二年功全成此門凡七年矣善八所費五百余両庫大等五人二百余両日此古来棄而不畊者非地不美全為乏水也自一与灌漑之使用圃相接禾〓満野人家既及十三戸乃隷佐久山称大沢坪領主意在賞労会廃藩而不果焉 郷人欲靱其功徳徳千石使余之余顧創業之功固雖大然領主之徳絡有不可道者領主為誰福原四郎資生也 創業者大又蔵既歿余皆現存
明治二十二年八月
従三位子爵五条 栄〓額
野口勝一撰并書
又碑の裏面に
開業祖 出身地
前田久治郎 越中国礪波郡前田村
八塚滝三郎 越中国礪波郡川井田村
澳原徳三郎 越後国中蒲原郡村松
小谷兼吉 越中国礪波郡川井田村
山口治平 越中国礪波郡土生新村
西川和太郎 越中国東礪波郡西大見村
石崎与与八 越中国礪波郡泉村
泉田五三郎 越中国礪波郡泉村
田向善平 越中国礪波郡泉村
小泉政吉 越中国礪波郡山崎村
山崎竹三 越中国礪波郡山崎村
清水太平(小林) 越中国礪波郡梅原村
渡辺重吉 越中国礪波郡広瀬村
大沢開墾記念碑
(明治二十二年八月建立)
澳原(おきはら)家の越後国を除いては全部が越中国礪波郡(となみ)の出身である。現在の富山県礪波郡福光町を中心とした村々であり、礪波郡は綽如によってはじめて北陸布教の行われた所で、明徳三年(北朝、一三九二)綽如は礪波郡井波に瑞泉寺を建て、そこを中心として布教につとめ、多くの門徒を得たところであり浄土真宗の信仰は古く、もっとも盛んな土地柄であったように思われる。
出身地との交流は、百年祭以前にも行われていたようであるが、百年祭を執行するに当たり祖先の出身地の詳細な調査が行なわれ、この百年祭を機会に旧交を復した家、または苦心の末祖先の出身地をさがしあて新しく交流の行われた家等いろいろであったようである。
山口仲吉氏の場合
明治三十二年に出身地の吉波吉次郎氏からよせられた年賀状をもとに調査し、福光町土生新村であることを知り、しばしば富山県の出身地を訪問し、または富山県からも大沢を訪れるなど、遠くはなれた北陸との交流が子孫によってつづけられているとのことである。
開墾経営一百年 荒蕪十里化良土
梅花馥郁恵風麗 盛天謳歌仰祖先
越中福光八十四翁吉波愷堂
祖先遠自越中来 粉骨焦心拓草茅
今日余慶祀典盛 雍煕春色気佳哉
追想佐久山開拓一百年祭盛儀賀
山口家一門隆昌寄此
富山県福光八十四翁吉波愷堂
吉波愷堂翁 大沢開墾百年を祝し山口家に送った書
吉波愷堂翁 米寿を記念して山口家に送った書
右二枚 山口栄氏蔵
これは一百年祭挙行にさいして山口家の親戚にあたる吉波彦作氏が同家に寄せられた漢詩である。愷堂吉波彦作氏は、富山県の漢学の大御所といわれ、旧制礪波中学校長を長くつとめられた方で九十才の高令をもって他界された由である。