第六節 琵琶池移民

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 琵琶池も亦北陸の農民によって荒蕪地が開拓されたところである。この地の移住史について藤田倉男氏は次のように述べている。その移住農家田口家についての調査をまとめると、初代藤四郎は越中を出国、常陸笠間にいちおう落着き、新たな入植地を求めていた。当時湯津上村蛭田に越中よりの先住者村井家があったので、これを頼って藤四郎は妻と三男三女を連れて蛭田につき、無人の現住地を発見、蛭田より通って住居を整えてから入植したという。同時に入植したのが高栖利助、宇田徳右衛門で、三戸で開拓を開始し、粒々辛苦、万延元年(一八六〇)宇田徳右エ門の長女を長男藤造の嫁に迎え一家は安定の域に達したという。文久二年(一八六二)に至り佐久山領主福原公にはじめて開墾起業を請願許可を得て、純農として立つに至った。続いて大谷与助、橋本三六の両氏も入植し、用水溜池の堤塘築造に着手した。
 春の作付期と秋の収穫期以外は、農耕作業は妻子が一手に引受け、男子は用水溜池堤塘作業に恵念し、貧しい生活と戦いつつ十余年にして、築堤工事は完成した。
 これが現在の琵琶池であってこの溜池の貯水によって水田の灌漑ができるようになり、現在のように安定した生活ができるようになったという。云々、
 そして次に琵琶池開墾碑の碑文がのせてある。
 
  琵琶池開墾碑
下野国那須郡藤沢村有荒蕪原隰称琵琶池、文久二年高栖利助氏相此地請開墾起業於領主佐久山君領主嘉納其請使開墾掛諏訪米吉監其事於此高栖氏謀田口藤四郎、宇田藤吉、橋本三六、大谷与助四氏協心戮力通溝渠築障堤艱苦経営有年於此既而獲水陸田十二町余得成一村落至尓後明治二年加藤竹蔵氏加之同十四年田口末吉、宇田長次郎、二氏加之戸口蕃殖田野益拓至現今及耕地二十九町余殖林五十町余矣今茲有志者相謀建石盟敷琵琶池開墾創業諸氏偉績永伝後昆云

   明治三十一年六月
                               大内青鸞蒙額 印南嵐撰
                                  鶴亭書 陽鶴泉刻
と記されている。
 然しながら田口家の調査結果と開墾碑文の内容には詳細に検討すると幾つかの矛盾があることに気付き、碑文そのものにも疑の個所があることに気付くのである。すなわち、田口家の調査では田口藤四郎が蛭田から通って開墾を始め、高栖利助、宇田徳右衛門がこれに参加したことになっているが、碑文によると、文久二年(一八六二)高栖利助が中心となって領主福原家の許可を得て、諏訪米吉監督のもとに開墾を始め、田口藤四郎、宇田藤吉、橋本三六、大谷与助の四氏がこれに協力し、十二町余の水陸田を得たことになっている。又、加藤竹蔵は明治二年(一八六九)に、田口末吉と宇田長二郎は明治二十年(一八八七)にそれぞれ入植したものであると碑文は言っている。しかしこの碑は現在琵琶池のどこにも見出すことはできなかったし、琵琶池開墾については同部落加藤氏の家に次のような古文書が残っている。
 
  乍恐以書付奉願上候
御領内字名琵琶池ト申不毫之地にて候処私共一同精々御田地開発仕御当地百姓ニ永住仕度此段奉願上候処願之通御聞済被成下候者溜堤等も築置不申候而者相成不申候 人足手間等も多分相掛り申候得共御上様に御手当等御無心ヶ間敷儀御願不申上一同自力ヲ以精々丹情仕候間何卒私共行立相成候迄御年貢御上納并諸役等之儀御猶予被成下度奉願上候 且又連名之者共御領内百姓永続奉願上候而茂国元者不申及脇郷ヨリ拒障ヶ間敷儀申者一切無御座候万一如何様之儀出来仕候共
御上様之御苦労筋預申間敷候 何卒願之通被仰付下置候者一同重々難有仕合ニ奉存候  以上

   文久二壬戌二月十二日                  竹蔵 印
                               佐助 印
                               藤四郎印
                               理助 印
                               嘉四郎印
                               定助 印
                               藤吉 印
                               常右衛門印
                               直右衛門印
  佐久山
   御役所 様
 
二、佐久山役所ヨリ竹蔵宛の口達書

琵琶池開墾に関する書類
(二枚とも加藤武氏蔵)
上 開墾許可願と年貢諸役の猶予願


下 許可証にかわる口達書

   口達書
  字琵琶池開発之儀は其
方始 格別精々百姓取立度旨
喜特之至り追押入迄不及上
納一同力ヲ尽し可申境界秣
場申越之通相心得尚不弁
之儀は其時々可申出もの

   文久三年  佐久山
     四月   役所印
    琵琶池
      竹造 どの
 以上のうち一の文は開墾許可願と年貢、諸役の猶予願とをかねたものであり、これによると願出人の筆頭は竹造であり、従って琵琶池の開墾は前記古文書でみる限りでは、竹造を中心とする九名のものとみることが妥当であるように思う。なお連名の中の竹造は加藤家の先祖、藤四郎は田口家の先祖、理助は高栖家の先祖、藤吉は宇田家の先祖であるということである。
 これらの願書や口達書の文面からみると文久二年(一八六二)から三年(一八六三)にかけて琵琶池の堤塘もおおむね完成に近く、文久三年二月十八日には佐久山役所役人および隣村名主立会の上で境界の決定をしている。(加藤家文書)その折に立会った者は、
 佐久山宿役人福原十牧、関谷啓左衛門、吉田円蔵、伊藤牧右衛門、鷲大道、大久保栄三郎、渋井喜八郎の七名と、曽根田村の七郎右衛門、北の内村の与五郎、藤沢村の弥五兵衛(藤沢村庄屋、諏訪家の祖)の十名であった。
 このようにして水に恵まれることの少なかった琵琶池村(部落)もようやく今日の基礎ができた訳である。
 
 以上は本地方の移民の状況の一部を古文書そのほかの調査によって解明したものであるが、資料の不足もあり市内全般に及ばなかっことを遺憾とするものである。