第十一編 農村における各種の争論

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 農村における争論には入会野争論、水源地確保争論、立木伐採に関する争論、神社祭礼時における座席争論、堂宇所属に関する争論、特殊行事の宿に関する争論等各種各様の争論があった。
 中でも入会野争論と水源地確保争論とは最も深刻なもので、両者は武器を取って争ったことさえあると伝えられ、しかもその背後にはつねにその所属する領主があり、ひいては領主間の争いとなることが普通であった。
 入会野争論は農民の立場からは秣場(まぐさば)確保と新開可能地確保との二目的に基づくもので、領主の立場からは所領確保に基づくものがほとんどである。秣場の確保は肥料原料の確保とつながるもので、当時農地の肥料は、山野の草木であり、初夏から秋口までに刈った草をそのまま田にすき込むか、または家畜の飼料としたりあるいは残りを家畜に踏ませて堆肥とし、よく腐熟したものを畑の肥料としたり、未熟のものは水田の肥料とすることが通例であった。また田植前には若葉のついた小枝を水田に踏みこむことが行われ、これも冬季の落葉とともに極めて重要な肥料源であった。
 江戸時代の初期、中期頃の肥料はほとんどがこれであり、後期には魚粉や骨粉(馬骨)も施用されたが、海に遠いこの地方で高価な魚粉などを十分に施すことなどは到底望むこともできなかったようである。大豆粕の施用は明治中期以後のことであり、そのため肥料源の確保は個々の農家にとっても、あるいは農産物をもって経済の根源としていた領主達にとっても最も大切な問題であった訳である。
 江戸時代には大田原市内の耕地の大部分は畑であり、水田は極めて少なかったようである。一例をあげると次のような状態であった。
 承応二年(一六五三)吉際村(大田原市富池吉際上坪)の検地帳(村上静男氏蔵)によると、
  家数     六戸
  水田     七反壱畝拾弐歩
  畑    拾町壱反六畝拾弐歩
 
 宝永五年(一七〇八)  (村上静男氏蔵)
  家数     九戸
  水田     八反三畝三歩
  畑    拾壱町九反弐畝拾八歩
 
 明治四年(一八七一)  (大字富池蔵)
  家数     九戸
  水田     壱町壱反三畝弐拾七歩
  畑    拾壱町六反二畝拾八歩
          (他村持分を含む)
 以上をもってみても水田面積がいかに少なかったかを知ることができ、なおこの文書からは宝永五年(一七〇八)から明治四年(一八七一)までの百六十三年間に農家戸数は一戸も増しておらず、耕地面積もほとんど変っていないことに気付くのである。
 水源地に関する争論も秣場争論と同様水田耕作に欠くことのできぬ水の問題であるため深刻な争いとなっている。山林は建築用材や燃料供給源として欠くことのできないもの、従ってこれに関する争論も各地に起っている。
 神社祭礼時の座席の争論は、規模がその神社の氏子に限られるため、それ程大規模なものは見当らないが、これが原因となって部落が二つに分れたり、家と家との出入りや交際を絶つなどの場合もあり。封建社会では階級の制度が厳しいため、自分の家を少しでも上位におこうとする気持が強く、それが公開の場所にあらわれ、上席に座ることによって満足を得ようとしたことがうかがえる。しかも古くからの神社では宮座の慣行があり座席はほとんど一定されていたし、しかもその座席も何か落度でもあればその席は追われ、その後への座席をめぐって種々の争いが起ったようである。
 堂宇所属の争論は部落と部落との争いであり、この争いの起る場合は、それ以前から両部落間に何等かの問題があったものがほとんどである。