第一節 八木沢村ほか十一か村と大田原領四か村の入会野争論

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 これは元那須領のうち幕府直轄領(天領)と旗本領となった十二か村、すなわち八木沢村(天) 中居村(天)三斗内村(天) 鷹巣村(天) 岡和久村(旗) 滝野沢村(旗) 若目田村(旗) 青木村(旗) 上沼村(旗)小種島村(旗) 三色手村(旗) 宇田川村(旗)の十二か村と、大田原領であった大田原宿、石上村、大貫村、荻野目村の四か村の争論で、前記十二か村がまだ那須領であった慶安二年(一六四九)から明治七年(一八七四)四月まで二百二十五年間、その地域も那須野原の西半部約二万町歩(約二万ヘクタール)におよぶこの近郷でも最大の争論である。
 しかもこの争論は、後に記す延享四年(一七四七)の下奥沢村、鹿畑村、倉骨村、新宿村、上蛭田村、下蛭田村、蛭畑村、佐良土村の旗本領八か村と、荒井村、舟山村の大田原領二か村の水源地争論、万治三年(一六六〇)から安政四年(一八五七)に至る湯宮村、百村 木綿畑村 鴫内村の幕府直轄領四か村と大田原領引沼村の山林境界争論、慶応三年(一八六七)片府田村 新宿村、宇田川村、倉骨村 奥沢村の幕府直轄領及び旗本領五か村と大和久村、赤瀬村の大田原領二か村との秣場争論のように、天領及び旗本領と大田原藩領との争いの源をなしたとみられる争論で、明治維新後政府が、那須野ケ原開墾を政府事業として企図し、問題解決のために努力し、明治七年(一八七四)四月この解決をみるに至るまで、永く争論の源をなしていたものである。
 なお大田原藩では後記のように、武力に訴えても自分の領域の確保と利益の擁護につとめており、さらにまたこのような争論の起りはいろいろな問題があったにしても、境界の不分明にもとづくものが最大の要因をなしていたようである。
 秀吉の天下統一、さらには江戸幕府の成立の後、各領主達には村単位の知行を許しており、当時はまだ人口も少なく、また一面広大な未開墾地が各地にあり、しかもその経済的価値も極めて低かったため、一部を除いてはそれ程境界を厳密に定める必要もなく、両村間の利用度の低い土地は入会地として、それぞれに利用し合っていた。しかし世の中が平和になり、農民達も一応生活の安定をみるようになると、人口も増加し、新しい土地の開発が進められ、それにつれて草木の利用も一層多くなったため、従来とは違った土地への関心が深まり、いよいよ境界設定の必要が急務となった訳である。しかも各人は自分達に有利な解決を得たいと望むことが人情で、両者の主張は容易に一致せず、ついに訴訟沙汰となることが多かったのである。
 この入会野争論の初めは、前記十二か村がまだ那須家領であった慶安二年(一六四九)と延宝二年(一六七四)におこっている。前者の場合は、大田原宿と八木沢村との争論にすぎなかったが、後者の場合には規模は次第に拡大して一大争論となってしまった。
すなわち、
 下野国那須領八木沢村、中居村、三斗内村、鷹巣村、岡和久村、滝野沢村、若目田村、青木村、上沼村、小種島村、三色手村、宇田川村、此拾弐ケ村と同国大田原領大田原町、石上村、大貫村、萩(ママ)之目村、入会野論之事令糺明之処那須領拾弐ケ村之者大田原町之野江入会之由雖申立慶安弐年八木沢村と大田原野論之節検使見分之上八木沢村之者大田原町之野江先規為入会之間可為如前々之由證(証)文出置之条弥可守其旨残拾壱ケ村於為入会者其節八木沢村一同ニ可訴之処不及其儀候之間向後弥不可入組寛文九年沢村、稗田村と石上村野論之節双方訴状之西箒川より東之村々者何々領ニ而茂箒川東之野江入会之由書記之上者拾壱ケ村之儀赤田横道より烏ケ森弐室迄限之川東之野江者可為入会赤田横道より西之原江者拾弐ケ村共ニ不可入右入会之野新畑之儀大田原町野者慶安弐年證文之通九反八畝拾六歩之外者可破之箒川東野ハ有来分ハ其儘可差置之自今以後入会之村々者勿論大田原領よりも新開新林一切不可致之且又領境之儀大田原領之者申立候境之内宇田川村之畑有之間那須領之者申所理運也為後鑑絵図々面境目墨筋引之各加印判双方江下置之就右之者堅相守之不可違失者也

  延宝弐年甲寅(一六七四)十一月六日
                               甲斐喜右印
                               徳五兵 印
                               杉内蔵 印
                               宮若狭 印
                               嶋出雲 印
                               本長門 印
                               戸伊賀 印
                               小山城 印
  (大田原市役所保管文書、森重氏文書、手塚誠治氏文書以上同一文書である。)
 
 この判決文書は前記大田原藩領の四か村から那須家領の十二か村の村民が、大田原藩領の野の秣の刈取をしたことに対して異議を申し立て、ついにはこれを幕府に訴え出たため、幕府では掛の役人を現地に派遣して、実地に検分を行ない、前掲文書のような判決となったのである。すなわちその内容は、大田原藩領方の申し立ての野については、慶安二年(一六四九)の争論の際、八木沢村のものは争論の場所への入会を認める裁決が下されたもので、その証拠書類があり、そのとおりこれを守るべきである。また、他の十一か村の者へは八木沢村からよくこの旨を話しておかなければならないのに、話をして置かなかったのだから今後は入会をしてはならない。但し、寛文九年(一六六九)沢村、稗田村(現矢板市豊田)と石上村野論の節の裁決では、箒川から東の村々は何領を問わず入会してさしつかえないとあるので、十一か村のものは赤田横道から烏ケ森、二つ室への一線、南部野へは入会ってもさしつかえはない。それから北西部の原野へは十二か村のものは入会ってはならない。なお、慶安二年(一六四九)争論の時大田原宿の者によって開発された九反八畝拾六歩(約一ヘクタール弱)のほかの耕地は全部これを取り消し、原野として利用すべきである。大田原領のものは入会野を新しく開発したり、植林をしてはならない。
 また大田原領内に宇田川村者が畑を開発しているが、これは領域を犯しているとの大田原領の者の言い分であるが、これは前々から宇田川村民が開発していたもので、決して大田原藩の領域を犯したものではない。との、宇田川村民の申し立ての方が正しい。今後はこのような争いは一切してはならず、後日の証拠のための絵図面に境い目を明らかにするため墨引したものを双方へ渡しておく。というもので、この裁決文でみる限りでは、大田原方は敗訴ともいえる裁決となっている。
 しかし以上のような裁決があったにもかかわらず、その後も両者ともこれを犯すものがあり、また双方からの訴もあったので延宝四年(一六七六)再び幕府役人が出張して実地検分の結果、次のような裁決を受けている。
一、あいの沢艮(うしとら)方奥州海道両方之原境相定之那須領八木沢村之外拾壱ケ村之者一切不可入、但長峰東之原、那須領宇田川、三色手、小種嶋、沼、此四ケ村と大田原領萩(ママ)之目村可為入会有来双方之畑合壱町歩ハ指置之自今以後新発新林不可致之事

一、大田原足軽町境を立堀を掘廻し境堀之外新立出不可致之事

一、八木沢村大田原背先裁許之旨大田原入会野之内双方新畑致開発之条大田原之者壱人八木沢村之壱人籠舎ニ付之候、但し新畑之儀ハ其儘可差置之就ハ大田原之畑九拾七町三反九畝拾壱歩八木沢村之畑壱町壱反弐畝拾五歩右の分双方可為進退此外向後新開新林一切不可致之勿論畑切替之儀停止之事

右今度那須領拾弐ケ村と大田原訴論ニ付而中川八郎右衛門手代町田甚左衛門小泉次太夫手代沢井半右衛門差遣見分之上評定之面々令相談裁断〓為後鑑先後図之面原境并入会之原境堀之通墨引済之各加印判表書令追加下置之条若及並犯ハ可処罪科者也

  延宝四年丙辰五月六日

秣場争論の絵図(上)と争論の裁決(下の左)
延宝4年丙辰(1676) 印南親義とある

 
 これは延宝二年(一六七四)裁決により十二ケ村の入会地域が一応決定されたが、さらに部分的な問題解決と入会地内の開墾を禁じたもの、即ちあいの沢の北東(艮(うしとら)の方)奥州街道、両側の入会許可の部分と不許可の部分の境を定め、不許可の部分へは十二ケ村の者の立入り一切を禁じたこと、但し長峰東之原へ那須領宇田川、三色手、小種島、沼の四ケ村と大田原領荻野目村が入会って開いた畑壱町歩はそのままに許すが、そのほかは今後一切開墾、植林は許さない。大田原藩の足軽達が勝手に堀を掘り、これによって境を改めんとする行為は許すことはできない。八木沢村と大田原のもの各一人、入会野を勝手に開墾したのは不埓に付き入籠(にゅうろう)させる。また切り替え畑もしてはならない、との裁決である。
 この裁決より見て足軽等が境堀を勝手に掘ったことはこの背後に大田原藩が関係していたことが考えられる。
 以上の裁決によって慶安二年(一六四九)以来の紛争も一応解決したかに見えた。
 その後、貞享四年(一六八七)那須氏は後嗣問題で改易となり、その領地は天領及び旗本領となってしまった(天領、旗本領の成立参照)。しかし五十年余は別に事もなく過ごしたが、延宝四年(一六七六)より五十六年後の享保十七年(一七三二)また問題が起こった。
 享保十七年(一七三二)石上村の百姓三人が大田原領東部の入会秣場に来て芝刈りをしているのを見つけた八木沢村農民六人が、ここは石上村民の入会地ではないとこれにせまり、石上村百姓の鎌三挺を取り上げてしまった。たまたま道普請のためそこに来合わせた大田原領民五~六十人はこれを見て、逆に六人の者の鎌及び砥石を取り上げた上これを打擲し半死半生にしてしまった。
 知らせを受けた八木沢村民は急ぎ現場に馳(は)せつけ、重傷の六人を竹かごに乗せて帰村した。この所は延宝二年(一六七四)の裁決で大田原町と八木沢村のほかは入会ってはならないと定められた場所であるので八木沢村ではその旨を大田原町に申し出たところ、大田原町では「大田原町と云う名前は大田原領全部を指すもの、したがって石上村も大田原領である故、そこへ入会っても差し支えがない」との町年寄の返事である。そこで八木沢村では享保十七年(一七三二)六月これが裁決を幕府に仰いだ。
 
  乍恐書付を以御訴訟申上候
       池田新兵衛御代官所
        下野国那須郡八木沢村
                               訴訟人 弥左衛門
                               同   伝左衛門
                               同   佐左衛門
                               同   彦七
                               同   孫左衛門
       大田原飛騨守様御知行所
      下野国那須郡上石上村
                              相手  藤兵衛
                                   元右衛門
                                 市郎右エ門
        同国同郡大田原町 年寄
 
一下野国那須郡、大田原飛騨守様御城下、大田原町、同国同郡八木沢村両所入会の秣場、慶安二丑年相極リ其後延宝四辰年出入に罷成其節御検使御下被成御見聞之上絵図御墨引御裏書并御証文被成下大田原と八木沢村両所入会秣刈来外村より一切入会不申候野江此度大田原領石上村之者共右秣場江入込芝草刈候所江八木沢村之者共六人秣刈ニ罷出見付候而致持参候鎌三具取上申候。其節大田原御領ニ道普請御座候而村々より人足大勢罷出居候付石上村之者共五六拾人欠集却而八木沢村之者共半死半生に打擲仕右之鎌奪取其上此方之鎌六具砥石共ニ取上右之者共打捨置候由承候ニ付私共方より迎人遣竹輿ニ乗せ漸連帰り申候。

右秣場之儀ハ先規より度々出入ニ罷成候得共絵図御証文ニ委ク御記被下置候ニ付先々之通御書面を以御裁許被成下唯今迄数年大田原町と八木沢村両所之外一切入会不仕候然処ニ石上村之者共我儘ニ御墨引之内江入会仕候ニ付其段大田原町年寄共方江相断候処右秣場之儀ハ大田原町と申名目ニ同領不残含有之候間村々不残入込可申筈之由改り候返答仕候。先年より出入之節御吟味之上御裁許相極り唯今迄数年相守同領ニ而茂御証文名目無之村より決而入会不仕候処ニ此度大田原之者共我儘相破申候尤那須領茂拾弐ケ村御座候得共八木沢村斗ニ而残拾壱ケ村ハ御証文之名目戴不申候故外之野ニ而秣刈来申候。殊ニ拾壱ケ村之内ニ中居村と申ハ八木沢村一村ニ而諸事私共村より支配仕候枝村ニ御座候得共名目含ニ罷成候ハハ是等ハ猶以入会可仕処ニ其外同領拾壱ケ村茂不残入会可仕筈ニ御座候得共御墨引之内大田原町、八木沢村入会と有之外村之名目無御座候間前々より御吟味之上弐ケ村之外一切入込不申候。尤委細御極御証文ニ御記被下置候。殊先年寛文九年箒川西佐久山領沢村、稗田村と川東大田原領石上村と秣場出入之節箒川を境ニ西東御分被遊石上村之儀ハ川より東ニ而地元之秣場ニ御座候故則川より東之野、私共秣場境之御墨引際迄秣場御極被下置候。然処此度理不尽之致方仕候私共境之儀ハ先規御墨引之通堀を掘境塚迄も築置候所手前地元之秣場を捨置右之境を乗越私共草刈場江入込我儘仕候ハ畢竟大田原町年寄共返答之通此度大田原町と申名目を以て私共を申掠め先々より之御裁許を破、御公儀様江茂不奉恐我儘之致方ニ奉存候御事

右申上候通先年御検使御見分之上野場御分被下置秣刈来候処御証文之外少茂偽不申上候。勿論別紙奉差上候御絵図御裏書並御証文ニ委御記被下置候間御僉儀之上何分ニ茂被 仰付被下置候様ニ奉願候。右延宝年中之出入相済候御証文大田原町年寄瀬左衛門、文四郎、十郎右衛門所持仕候並当人石上村藤兵衛、元右衛門、市郎左衛門寛文九年之御証文所持仕罷在候間右六人之者共被召出御吟味之上先規御証文之通被為仰付被下置候ハハ難有可奉存候此外委細口上ニ而可申上候以上

  享保十七壬子(一七三二)年六月
                    下野国那須郡八木沢村
                          弥左衛門
                        訴訟人 伝左衛門
                            佐左衛門
                            彦七
                            孫左衛門
 
    御奉行様
 以上の訴願に対して幕府奉行所より次のような通知があった。
 如斯目安指上候間致返答書来月二十五日評定所江罷出可対決若於不参ハ可為曲事者也
              筑後印
     御用ニ付無加印  兵蔵
     御用ニ付無加印  佐渡
              播磨印
              下野印
              越前印
              隠岐印
              河内印
              豊前印
                     下野国那須郡上石上村
                            藤兵衛
                            元右衛門
                            市郎右衛門
                            五人組
                            組頭
                            名主
                     同国同郡 大田原町
                            瀬左衛門
                            文四郎
                            十郎右衛門
                            五人組
                            組頭
                            年寄
                            名主
 
 八木沢村訴願の要旨は「右秣場は前々より度々出入に及び延宝二年及び四年の裁決により八木沢村と大田原町のほかは一切立入ってはならぬと極められた所である。それであるのにこの度大田原領上石上村の者が勝手に立入り、芝草を刈り取ったのは不埓である。その旨を大田原町年寄に談じたところ、町年寄等は延宝年中の裁決に大田原町とあるのは、大田原領残らず全域を意味したもの、従って上石上村の者達が立入っても少しもさしつかえがないとの返答だが、ここは先年出入の節、吟味の結果八木沢村と大田原町だけの入会地と裁断され、その後それが守られてきており、大田原領でも、他の者は一切立入っていない。那須領の方も近接十二ケ村あるが、八木沢村のほかは一切立入ってはいない。ことに中居村は八木沢村支配の枝村に過ぎないのにその村の者さえ立入っていない。もし大田原領の者が主張するようなら、こちらも十二ケ村全部が立入ってもよいはず、上石上村の者達はちゃんと境の堀や塚まであるのに地元の秣場を捨て置いて、境を乗り越えて立入ったのは、つまるところ大田原町年寄達がいうように、大田原町というのは大田原領全域を意味するのだとの言い分で我々を言いくるめることに依るものである。「なにとぞ先年検使見分に基づく裁決のとおりにしてもらいたい」とのことである。
 この訴願に対し幕府奉行所から回答を求められた上石上村及び大田原町の返答は「この争いの場所は大田原飛騨守(扶清)領内の原地で昔から同領弐拾八ケ村農民が自由に秣を刈り取りしていた場所、しかも延宝二年の裁決では墨引され西の方は八木沢村を除く十一ケ村、東の方は八木沢村だけが入会すべしとあり、そのため大田原の方では八木沢村入会にしてきたもの、そのため大田原では西の方は大田原領であるにもかかわらず大田原町のほかは入会わずにおったもの、それだのに八木沢村の者達はわがままをいい、そのため延宝年中の争いは八木沢村の者達が大田原町だけを相手にしたため大田原町だけを書いたものである。その子細は裏書に那須領ばかりを西の方、東の方と書き分けてあり、大田原領は地元なので、弐拾八ケ村は昔通り別に東、西の区別なく入会にしてきたもの、ことに伝馬役、助郷役をも勤めている五輪塚村、南小屋村はその場所内にある村であり、この墨引地内は長さ二里、横壱里もある広大な場所であり、松や柏等の実が落ちて生え、それを始末するのに困っている所である。是非前々のとおり二十八ケ村入会にして欲しい。」というのである。
 この訴訟は享保十七年(一七三二)十月二十五日、長さ二里、横壱里もある広大な場所を大田原町と八木沢村の二ケ村のみの秣刈場とは不都合、大田原方の言い分のとおり大田原領二十八ケ村と八木沢村の入会とすべしとの判決である。
 
  取替証文之事
一下野国那須郡八木沢村訴上候ハ大田原飛騨守知行同国同郡大田原之野慶安年中及出入又其後延宝年中八木沢、中居、三斗内、鷹巣、岡和久、滝野沢、若目田、青木、上沼、小種島、三色手、宇田川右十二ケ村と大田原領大田原町、石上村、大貫、荻野目村秣場入会之儀及出入御詮議之上絵図御裏書有之入会之場所ハ御墨引被成下八木沢、大田原町斗入会ニ可仕旨絵図御裏書を以御裁許被成下候処此度大田原領上石上村之者共右御墨引之内野江猥ニ入込秣刈取迷惑仕候間延宝年中御裁許之通大田原町、八木沢村斗入会外村ハ入会不申候様ニ古来之通仕度旨申上之候。

一同国同郡大田原領上石上村並大田原町答申上候ハ此度八木沢村申上候秣場ハ大田原飛騨守領内之原地ニ而往古より同領弐拾八ケ村之秣場ニ而御座候処慶安弐年大田原町と八木沢村境論仕候節御見分之上ニ而境御立被下候。其以後又那須領拾弐ケ村之者共八木沢村頭取ニ而右野江入込申ニ付大田原領より相防延宝ニ寅年及争論御僉議之上絵図御裏書を以御裁許被成下候処右絵図之面江那須領入会之野境被仰付同四辰年御書添御墨引被遊野境より西之方江ハ那須領之内拾壱ケ村、東之方御墨引之内江ハ八木沢村入会可仕旨絵図御裏書ニ委ク御取分ケ被仰付候故唯今迄大田原領ハ不及申那須領ハ八木沢斗入会ニ仕来候処右絵図ニ東之方ハ大田原町入会之由御書入有之を以大田原領たり共町之外ハ右之野江入間敷段八木沢之もの共近年ニ至り我儘成義申掛候得共右御裁許之儀ハ延宝年中大田原町を八木沢村相手取候故大田原町斗御書入ニ御座候其子細ハ御裏書ニ那須領斗御墨引より西之方東之方と入会之場所御取分ケ被仰付大田原領之儀ハ地元ニ而同領故弐拾八ケ村共ニ古来之通野境東西之無差別入会ニ秣刈来候処此度八木沢村之もの共都而地元之秣場を妨御伝馬助郷之村々ニ而大田原領五輪塚、南小屋村抔ハ右御墨引之内ニ致住居殊原地長二里、横壱里程之広野故年々松柏等之実ハヘ繁り難儀を尽程之場所ニ而御座候間前々之通弐拾八ケ村入会仕度旨申上之候

右出入御吟味之上八木沢村申上候ハ大田原野場之儀延宝弐年八木沢村と大田原町野論之節絵図裏書を以裁断有之候処右絵図面之墨引有之右墨引之内江ハ八木沢、大田原町斗入会候筈之先裁許有之由ニ候処此度右墨引之内ニ而大田原領上石上村之者共猥ニ入込秣刈候間前々之通大田原町八木沢村斗入会之様ニ仕度旨申上候ニ付慶安、延宝年中之先裁許絵図御裏書等逐一被遂御吟味候処延宝年中御裁許絵図之面ニ墨引有之八木沢大田原町斗入会来候由八木沢村申候得共右野ハ一円ニ大田原領地元ニ而其上長二里横壱里程有之場所之野ニ候ヘハ八木沢大田原町斗入会と申儀八木沢村申分一向難相立候ニ付依之被仰渡候ハ右場所地元ハ大田原領ニ而殊ニ野場広々有之候得ハ大田原領弐拾八ケ村、那須領ハ八木沢村斗延宝年中裁許絵図面墨引之内野江入会秣可刈取之旨被仰付双方奉畏候若被仰渡之趣相背重而出入ケ間敷義仕候ハ何分之御科ニ茂被仰付候。

 為後日取替証文連判差上申所仍如件
   享保十七年子十月二十五日
      訴訟方池新兵衛代官所
         八木沢村名主伝左衛門外
         年寄与頭百姓代 調印
      相手方大田原飛騨守知行
         上石上村名主藤兵衛外
         与頭百姓代  調印
         大田原町名主瀬左衛門並
         二名与頭太左衛外一名調印
 
 と、記されている大田原領二十八ケ村とは大田原南町村、大田原北町村、石林村、高柳村、富山村、上井口村、下井口村、東関根村、西関根村、東遅沢村、西遅沢村、下中野村、袋島村、戸ノ内村、船山村、荒井村、町島村、今泉村、中田原村、槻沢村、南小屋村、西戸ノ内村、上石上村、下石上村、五倫塚村、荻ノ目村、川毛村、上大貫村、下大貫村のことであるが、慶安期の判決は大田原町、八木沢村二ケ村のみの争論で、その場所も単に境界についての争いであったろうし、延宝期の争論も大体同様のものであったと思われる。そのためその裁決書は両村間の争い解決を主眼としたものであったが、やがて八木沢村の者と上石上村の者の争論を引き起こし、大田原方はこの際にと大田原町と記したのを大田原領と解釈するのが妥当であるとして争い、ついに所期の目的を達したものであろう。もちろんこの広大な場所を二ケ村だけの秣場とすることは不当であり、ことにその地域内にある五倫塚村や南小屋村さえ入会権がないとは正に不合理で、これらの点から大田原方の勝訴となったものである。しかしこの大田原方の背後には大田原藩がその領土の確保を考慮し、これを支援していたことは想像に難くない。それは後に記す大田原領船山村、荒井村、明宿村と新宿村その他の天領、旗本領村との水源地争論時にとった大田原藩の態度からも察せられる。
 この地域内における問題はその後どのように推移したのか、明治維新に至るまでの文献は未だ見当っていない。しかし何らの問題もなかったとはいいがたく。それは次に記す宇田川村ほか四ケ村の旗本領と大和久、赤瀬両村の大田原領間の争い、旗本領宇田川村と大田原領荻野目村との争論があり、それらを一括解決した明治七年(一八七四)四月の関係町村全体の議定書によって知られよう。
  入会秣場議定書
一那須野西ノ原一円入会地元廿八ケ村左之通
上石上村 下石上村 上大貫村 下大貫村 高阿津村 蟇沼村 宇都野村 金沢村 下田野村 関谷村 遅野沢村 横林村 折戸村 接骨木村 上横林村 南郷屋村 石林村 川下村 岡今泉村 関根村 東関根村 槻沢村 西戸野内村 荻野目村 高柳村 富山村 井口 下江口村 西遅沢村 東遅沢村

一赤田横道下墨引西入会
薄葉村 平沢村 三斗内 鷹ノ巣村 滝沢村 青木 若目田村 小種島村 三色手村 松原村 宇田川村 滝岡村 上沼村

一赤田横道下墨引内入会
大田原宿 中居 八木沢村 原町村 刈切村 平林村 大和久村 中田原村 町島村 荒井村 戸野内村 島村 方京村 船山村 袋島村 下中野村

一赤田横道上入会
上中野村 和田村 和田新田村 笹沼村 波立村 箕輪村 中内村 赤坂村 無栗屋村 高林村 洞島村

 
  議定書
今般地券御発行ニ付栃木県地券御係烏山、越堀両出張所ヨリ字那須西之原秣場入会実地取調絵図面可差上旨
被仰付候ニ付各村用係上石上村ヘ出張集会致尚又大田原宿ヘ出張共(協)議之上寛文、延宝、享保度御裁許面ニ基キ区別相定絵図面取調各村調印致相納候上ハ以来他村ヨリ入区秣苅取候ハバ相互ニ可防之万一火事訴等出来候節ハ入費等高半戸数割合ニテ無相違可差出候
為後来議定連印申処仍而如件

                               大田原宿
 明治七戌年                           担当人 江連政盛
    四月                         南郷屋村
                                 絵図師 君島安三郎
                               関谷村
                                 同   君島巌
                               下石上村
                                 同   長嶋宇作
                               上石上村
                                 担当人 薄井藤平
 
  入会組合村高戸数取調書
一高千弐百拾弐石八斗弐升弐合
   戸数五百九拾六戸 大田原宿
             江連政盛
             中島義則
一高弐百七拾石八升弐合
   戸数十九戸   平沢村
             渡辺利平
一高四拾石六斗六升六合
   戸数四戸      西戸野内村
              志鳥兵道
一高六百四拾弐石六斗弐升三合
   戸数廿五戸    三斗内村
              森三郎平
一高三拾四石弐斗弐合
   戸数七戸     南郷屋村
              君島安三郎
一高四百八拾五石七斗壱升弐合
   戸数五十三戸   上石上村
              薄井喜平
一高千七百三拾六石三斗壱升
   戸数百三戸    中居 八木沢村
              国井謹平
一高六拾弐石五斗壱升
   戸数十三戸    上横林村
              熊久保新八
一高四百七拾壱石八斗
   戸数五十七戸   下石上村
             長嶋宇作
一高四百九拾石弐斗四升九合
   戸数六十五戸   上大貫村
             和気森雄
一高七石五斗壱升四合
   戸数四戸     横林村
             東泉嘉瑞
一高三拾弐石八斗三升
   戸数八戸     折戸村
             織田儀平
一高四拾六石弐斗七升弐合
   戸数廿七戸    接骨木村
             大場彦三郎
一高八百八拾四石五斗
   戸数六十三戸   薄葉村
             印南彦作
一高弐百八拾三石五斗七升弐合
   戸数六十戸    関谷村
             君嶋巌
一高弐百六拾八石三斗弐升
   戸数三十戸    井口村
             薄井儀八郎
一高四拾弐石六升六合
   戸数拾七戸    蟇沼村
             高塩常三
一高四拾弐石六升六合
   戸数(不記)   遅野沢村
             八木沢久作
一高四百四拾七石九斗五合
   戸数七拾八戸   金沢村
             印南新三郎
一高八拾九石九斗一升弐合
   戸数十壱戸    東関根村
             久留生長三
一高六拾九石八斗六升五合
   戸数十壱戸    岡 今泉村
             磯松太郎
一高百三拾弐石九斗六升八合
   戸数十四戸    槻沢村
             郡司忠平
一高百七拾五石三斗三升五合
   戸数廿九戸    石林村
             磯巽
一高五拾九石八斗四合
   戸数十壱戸    高柳村
             植木源吾
一高六拾三石三斗七升六合
   戸数九戸     富山村
             相馬権平
一高弐百拾五石七升八合
   戸数十九戸    上沼村
             和久友四郎
一高弐百五拾九石
   戸数弐十戸    滝沢村
             高橋勇治
一高三百九拾九石
   戸数六拾五戸   宇都野村
             斉藤武四郎
一高百五拾七石壱斗八升七合
   戸数弐十戸    小種島村
             月岡六郎
一高三百八石五斗
   戸数弐十三戸   滝岡村
             平山伊三太
一高八百五石六斗壱升九合五勺
   戸数四拾弐戸   中田原町
             津久井平内
一高弐百四拾九石五斗弐升弐合
   戸数廿弐戸    荒井村
             君嶋久平
一高百弐拾石弐斗弐升
   戸数九戸     嶋村
             荒井倉吉
一高百三拾石壱斗九升八合
   戸数十壱戸    方京村
             薄井権作
一高五拾六石弐斗四合
   戸数十七戸    高阿津村
             印南伝庫
一高七拾九石三升六合
   戸数十三戸    船山村
             印南倉右衛門
一高三拾石四斗五升六合
   戸数十五戸    原町村
             渡辺利八
一高五拾七石弐升六合
   戸数五戸     袋嶋村
             鈴木鉄五郎
一高百四拾七石四升弐合
   戸数拾八戸    戸ノ内村
             磯金一郎
一高弐百七拾六石壱斗九升弐合
   戸数廿六戸    下中野村
             本沢倉吾
一高六拾石弐斗八升
   戸数拾三戸    荻野目村
             千本喜右衛門
一高三拾九石七斗弐升
   戸数四戸     川下村
             桜岡高造
一高五拾七石六斗九升八合
   戸数九戸     関根村
             大竹真治郎
一高八拾六石弐斗四升四合
   戸数十壱戸    東遅沢村
             小林吉一郎
一高七拾七石七斗六升
   戸数九戸     西遅沢村
             田代佐平
一高三拾六石九斗
   戸数拾戸     松原村
             佐藤伊造
一高百四拾四石三斗
   戸数拾戸     青木 若目田村
             平山恒三
一高九百三拾六石四斗九升八合
   戸数五拾五戸   宇田川村
             藤田利平
一高百七拾四石九斗七升四合
   戸数十三戸    三色手村
             増渕源十郎
一高三百七拾三石八斗五升
   戸数三十九戸   下大貫村
             藤田宇平
一高五拾石壱斗弐升弐合
   戸数九戸     苅切村
             桜岡笹一郎
一高六拾八石弐升八合
   戸数(不記)   大和久村
             桜岡久馬
一高(不記)
   戸数(不記)   赤瀬村
             五月女金造
一高七拾石壱斗六升
   戸数六戸     平林村
             相馬代蔵
一高(不記)
   戸数(不記)   七軒町村
             藤原宇八
一高八拾壱石七斗五升
   戸数十壱戸    笹沼村
             滝田仙八
一高百四拾三石六斗七升四合
   戸数十五戸    上中野村
             磯庄一郎
一高百六石五斗弐升弐合
   戸数十五戸    波立村
             田代孫平
一高百六拾石壱斗四升八合
   戸数十五戸    和田村
             福島太平次
一高六拾五石三斗弐升弐合
   戸数七戸     (不記、上郷屋村か)
             渡辺善三郎
一高百六石九斗七升四合
   戸数拾壱戸    中内村
             相馬九平太
一高七拾壱石四斗八升弐合
   戸数十三戸    無栗屋村
             室井定八郎
一高三拾五石弐斗壱升六合
   戸数十四戸    洞島村
             藤原金太郎
一高百三拾三石三升四合
   戸数廿弐戸    箕輪村
             人見久平
一高三拾七石七斗弐升四合
   戸数五戸     赤坂村
             山家平七
一高弐百三拾七石弐升八合
   戸数四拾弐戸   高林村
             川嶋吉平
(以上宇田川文書)

 明治六年(一八七三)七月政府は地租改正条令を公布、従来の田畑石高制を廃止、地価を定め、それによって税を徴する方針とした。そのためには土地所有権及び境界の明確化が必要で従来の争論問題地の解決が第一となり、そこでこの地域について、政府から関係町村に対し速かな解決を迫られ、明治七年(一八七四)四月、二百二十五年間に及ぶ問題解決をみるに至ったものである。