大和久、赤瀬方では、この所は大田原藩の御用茅場で八か村の入会地ではなく、ここに立ち入ったのは不埓であるから詫証文を書けと迫った。しかし宇田川方では入会地に入ったのであるから詫証文を出すことはできないと答えたので、大和久、赤瀬方は馬と一緒に佐吉を赤瀬村名主の家にとめて置き、この旨を藩庁に届け出た。届け出を受けた大田原藩庁からは役人が出張、佐吉を引き立てて帰り、取調べたところ、「乱暴な言葉を使ったことは申訳がなかった。」と詫びたので、馬と一緒に当人を帰し、事件五日後の七月十四日、松野孫八郎方の地方役人へ次のような書翰を送っている。
慶応三年七月宇田川村百姓佐吉論地ニ而萩苅致大田原様ヘ御引立ニ成同人地頭所ヘ掛合文
一筆啓上仕候 然ハ其 御許様知行所宇田川村百姓佐吉ト申者当七月九日当領分赤瀬村茅場ニ申付置候場所萩苅ニ馬ヲ〓(ママ)参り萩草苅致居候処ヘ赤瀬村之者罷越相調名前等承り候処雑言過言申募候間赤瀬村兼帯名主方ヘ人馬共同道致居村并ニ名前等承り候処矢張前同断不法申聞候由ニ付宇田川村役人方ヘ赤瀬村より申遣し候処先方村役人下役民治外四人罷越候間赤瀬村兼帯名主病気ニ付下役元右衛門証及其村方人別之者ニ相違無之哉承り候処相違無之趣左候得ハ領主ニ而用茅場ニ申付置候場所ニテ萩草苅候間差押候処不法申候ニ付以来心得違無之様書面差出引取候様致度申し候処宇田川村役人下役挨拶ニハ書類差出引取兼候間赤瀬村兼帯名主下役方ヘ預ケ候趣申ニ付預り置候様ニハ難相成用茅場之義も有之候間領主地方廻り之者も罷出候間領主役場ヘ相届候得ハ引立ニ可相成趣挨拶及候処勝手ニ可取斗旨申聞帰村いたし候ニ付無余義相届候旨申出候間右佐吉当役場ヘ引立相調候処全用茅場ヘ立入萩苅取候ヲ被差押其場ニ而不法雑言過言申乱妨候段何共恐入候旨申立候間其御許様御役場ヘ右佐吉馬共御引渡申渡以来右地所ヘ心得違無之様宇田川村ヘ御利解有之度此段得御意度如斯ニ御座候恐惶謹言
一筆啓上仕候 然ハ其 御許様知行所宇田川村百姓佐吉ト申者当七月九日当領分赤瀬村茅場ニ申付置候場所萩苅ニ馬ヲ〓(ママ)参り萩草苅致居候処ヘ赤瀬村之者罷越相調名前等承り候処雑言過言申募候間赤瀬村兼帯名主方ヘ人馬共同道致居村并ニ名前等承り候処矢張前同断不法申聞候由ニ付宇田川村役人方ヘ赤瀬村より申遣し候処先方村役人下役民治外四人罷越候間赤瀬村兼帯名主病気ニ付下役元右衛門証及其村方人別之者ニ相違無之哉承り候処相違無之趣左候得ハ領主ニ而用茅場ニ申付置候場所ニテ萩草苅候間差押候処不法申候ニ付以来心得違無之様書面差出引取候様致度申し候処宇田川村役人下役挨拶ニハ書類差出引取兼候間赤瀬村兼帯名主下役方ヘ預ケ候趣申ニ付預り置候様ニハ難相成用茅場之義も有之候間領主地方廻り之者も罷出候間領主役場ヘ相届候得ハ引立ニ可相成趣挨拶及候処勝手ニ可取斗旨申聞帰村いたし候ニ付無余義相届候旨申出候間右佐吉当役場ヘ引立相調候処全用茅場ヘ立入萩苅取候ヲ被差押其場ニ而不法雑言過言申乱妨候段何共恐入候旨申立候間其御許様御役場ヘ右佐吉馬共御引渡申渡以来右地所ヘ心得違無之様宇田川村ヘ御利解有之度此段得御意度如斯ニ御座候恐惶謹言
大田原鉎丸内
卯(慶応三年)七月十四日 江連幸三郎
兼貞(花押)
松野孫八郎様
地方御役人様
(宇田川文書)
これに対し宇田川村役人は大田原藩へ次のような回答書翰をよこした。
口申書
孫八郎知行所野州那須郡宇田川村役人共方ヘ其 御許様御知行所大和久村大内蔵方ヨリ最寄八ケ村入会秣場字上平野と申場所之内大和久村御用茅場有之候而右場所ハ入会難相成段当五月中初而掛合有之候得共宇田川村而己之入会ニ無之八ケ村入会ハ往古より秣苅来候場所ニ有之候得ハ一村限り相答候義も不相成候段申断置候処其後当七月九日宇田川村百姓佐吉ト申者右場所古来より秣苅来り候義ニ付無何心苅場ヘ罷越候処大和久村役人并ニ小前等罷出右場所ハ御用茅場ニ有之同所ヘ立入候迚直様召押大和久村佐吉并馬共引立其段孫八郎知行所宇田川村役人に案内有之候ニ付早速為掛合村方之者罷越右佐吉義ハ小前之者ニ而往古より同所之秣場苅来候間無何心立入候者ニ付差戻呉候様且右論所之義ハ八ケ村入会場ニ付何卒申談御掛合ニ及可申様相答候処左候ヘハ佐吉差戻可申候間右御用茅場ヘ一切立入申間敷と詫書差出べく挨拶有之候得共入会場之義ハ八ケ村ヘ掛合中宇田川村より其御領地御用茅場杯ト申書類差出兼候段相答候処左候ハハ佐吉馬共難差戻と被申聞候得共右佐吉義ハ素より入会之秣場故秣ニ差支候ニ付論所中不心得立入候丈ケ之義為差多罪とも難申筋ニ付差戻し呉候様再応掛合及候処大内蔵挨拶ニハ免角難被用挨拶候趣被申聞候ニ付今般不得止其段孫八郎方ヘ届出候ニ付而ハ知行所之百姓壱人被押差留被置候義ニ付其 御許様ヘも早速相届且佐吉取斗等も相伺候義と奉存候右ハ前条之通り年来入会之場所と心得佐吉秣場立入候迄之者ニ付当節農業手抜ニ相成候而ハ百姓壱軒〓家ニも及孫八郎ニも甚タ〓然ニ存且八枚納方ニも差闇候様成行可申旨深心配仕候間佐吉ヘ相尋有之候節ハ何時ニ而も罷出候様可為致候間同人義ハ早速差戻候様大和久村大内蔵方ヘ申達有之右入会場掛合筋之義ハ右壱人ニ掛リ儀訳ニも無之八ケ村之掛合ニ可及筋ニ付其義ハ何連とも双方和談相整候様其御許様よりも御説諭申度候間右佐吉戻し馬之義ハ速ニ御差図有之様仕度右之御掛合可得御意被申付候 以上
孫八郎知行所野州那須郡宇田川村役人共方ヘ其 御許様御知行所大和久村大内蔵方ヨリ最寄八ケ村入会秣場字上平野と申場所之内大和久村御用茅場有之候而右場所ハ入会難相成段当五月中初而掛合有之候得共宇田川村而己之入会ニ無之八ケ村入会ハ往古より秣苅来候場所ニ有之候得ハ一村限り相答候義も不相成候段申断置候処其後当七月九日宇田川村百姓佐吉ト申者右場所古来より秣苅来り候義ニ付無何心苅場ヘ罷越候処大和久村役人并ニ小前等罷出右場所ハ御用茅場ニ有之同所ヘ立入候迚直様召押大和久村佐吉并馬共引立其段孫八郎知行所宇田川村役人に案内有之候ニ付早速為掛合村方之者罷越右佐吉義ハ小前之者ニ而往古より同所之秣場苅来候間無何心立入候者ニ付差戻呉候様且右論所之義ハ八ケ村入会場ニ付何卒申談御掛合ニ及可申様相答候処左候ヘハ佐吉差戻可申候間右御用茅場ヘ一切立入申間敷と詫書差出べく挨拶有之候得共入会場之義ハ八ケ村ヘ掛合中宇田川村より其御領地御用茅場杯ト申書類差出兼候段相答候処左候ハハ佐吉馬共難差戻と被申聞候得共右佐吉義ハ素より入会之秣場故秣ニ差支候ニ付論所中不心得立入候丈ケ之義為差多罪とも難申筋ニ付差戻し呉候様再応掛合及候処大内蔵挨拶ニハ免角難被用挨拶候趣被申聞候ニ付今般不得止其段孫八郎方ヘ届出候ニ付而ハ知行所之百姓壱人被押差留被置候義ニ付其 御許様ヘも早速相届且佐吉取斗等も相伺候義と奉存候右ハ前条之通り年来入会之場所と心得佐吉秣場立入候迄之者ニ付当節農業手抜ニ相成候而ハ百姓壱軒〓家ニも及孫八郎ニも甚タ〓然ニ存且八枚納方ニも差闇候様成行可申旨深心配仕候間佐吉ヘ相尋有之候節ハ何時ニ而も罷出候様可為致候間同人義ハ早速差戻候様大和久村大内蔵方ヘ申達有之右入会場掛合筋之義ハ右壱人ニ掛リ儀訳ニも無之八ケ村之掛合ニ可及筋ニ付其義ハ何連とも双方和談相整候様其御許様よりも御説諭申度候間右佐吉戻し馬之義ハ速ニ御差図有之様仕度右之御掛合可得御意被申付候 以上
松野孫八郎
卯(慶応三年)七月 家来
伊藤忠蔵
原東馬
大田原鉎丸様
御内 江連幸三郎様
(宇田川文書)
回答の要旨は「あの秣場は前々から最寄り八か村の入会地で、それを去る五月中大和久村大内蔵方から、ここには大田原藩の御用茅場があり、その部分には入会はできないとの話しがあったが、ここは八か村の入会地であるから宇田川村だけでは答えることはできないと返答して置いた。佐吉がその場所へ立入ったのは前々からのしきたりによったもので、それを馬と一緒に差し押え、返して欲しいなら不法に立ち入ったのは申し訳がないと詫証文を書けといわれたが、その言い分には従う訳には行かない。このような不埓なことをいう大和久、赤瀬村の者達へそちらで充分説諭をしてもらいたい。」というものである。
大田原藩から宇田川村の役人達へ申し送った書翰は表面は穏かなものであるが、真意は大和久、赤瀬村の者達の主張をそのまま認めさせようとしたもので、これに対し宇田川村の方ではこのような主張は絶対認め難いとしての返答であり、問題が起こると直ちに江戸幕府へ他の関係村と共に次のように問題解決の訴願をした。
慶応三卯年上平野秣場出入為御訴訟七月十三日国元出立則九月十六日御差日之御高判頂戴相手方ヘ相付九月七日出立同十一日江戸着銘々御地頭所ヘ着御訴申上候同十三日都築駿河守様御役所ヘ着御訴申上候事
乍恐以書付ヲ御訴訟申上候
山内源七郎御代官所
野州那須郡
片府田村
同御代官所
松野孫八郎知行所
同州 同郡
新宿村
松野孫八郎知行所
久世下野守知行所
同州 同郡
宇田川村
久世下野守知行所
同州 同郡
倉骨村
奥沢村
右五ケ村小前村役人惣代
右片府田村
訴訟人
名主清左衛門
不法出入 右宇田川村
孫八郎知行所
同
同 滝左衛門
大田原鉎丸様御領分
同州 同郡
赤瀬村
大和久村
相手方
名主大内蔵
同
同 元右衛門
同
村代和三郎
同
同 文之助
右訴訟人片府田村清左衛門外壱人奉申上候私共五ケ村秣場之義相手方両村并鹿畑村共都合八ケ村入会ニ而字上平野と唱貞享年中及出入境界聢(ママ)(掟か)と相定居其以来無差支秣苅取方差妨田畑相続罷在候然ル処当卯春中右鹿畑村ニ而入会場之内同村最寄之方内野之趣申紛し秣場苅取方差妨候ニ付組合八ケ村一同立会境界相改候処多分ニ囲込有之候ニ付掛合中扱人立入猶種々掛合候処鹿畑村之義穏便熟済致旨申之ニ付立入人取扱ニ相任置候処当五月中相手両村之者共義私共村々秣苅方俄ニ差妨候ニ付難心得掛合候処相手大和久村之義ハ右上平野入会場之内奥沢村地境塚より稲荷森峰通りヲ境ニ見通し御領主御用茅場御取建且赤瀬村之義も右御用茅場并鉎丸様御家来阿久津長十郎様御林御仕立相成候趣ニテ御同人御差図ニテ右村役人境界案内致候処片府田村地内阿ま久保迄境筋相定同村御高受荒畑迄囲込右境内私共五ケ村之もの難為立入旨申之以之外之義ニ付右秣場之義ハ往古より従来八ケ村入会来り候秣場ニ而大和久、赤瀬両村境ニハ松並木顕然有之眼前当春迄村々立入来候場所右躰新規被相狭候而ハ村々一同秣場差支田畑相続ニ〓り候ニ付其段精々及掛合候処境筋彼是申紛し双方共相互ニ村々所持之証拠書類見届決心致度旨申候間私共村々所持之書類ハ不残相手ノ者共ヘ為見届候上相手両村所持之書類披見可致と掛合候処相互ニ為見届候筈対談ニ而候得共御領主御役場ヘ差出置候ニ付急速御下ケ不相成杯ト申紛し再三日延之上為見届不申全私共ヲ相欺キ境界之義前同様不法申聞免角御領主御役場ヲ後立ニ致横威ヲ以入会秣場ヲ可掠取巧ニ相違無之全御用茅場御取立相成候義ニ候ハハ新規之義ニ付入会村々故障有無御糺可有之左心得ハ其節難儀差支可申立処無其儀段全相手之者共自己私欲ニ〓り秣場押領可致心底ニ而仕成候義ニ相違無之候ニ付尚取詰掛合中当月九日宇田川村百姓佐吉義秣苅取として右入会場ヘ作馬引連罷越候処相手大和久村之者共多人数ニ而差押候趣承り候ニ付早速罷越始末承り候処当三月中当御領より御用茅場ニ被申付候場所ヘ立入候ニ付勘弁不相成併御用茅場ヘ立入重々不相済と詫一札差出候ハハ格別左も無之候而ハ人馬共引渡難旨申之彼是挽擺至何様掛合候而も相手之者共義後日之証拠ニ可相成程之書類不差出候而人馬共引渡難相成旨申聞候右ハ同人地頭所より相手方御領主様ヘ御引合相成候由ニ候得共秣場之義前文之通往古より従来入会来候場所境界申犯し多分ニ被掠取候而ハ私共村々相続方ニ〓り必至難渋仕候間無是悲今般御訴訟奉申上候何卒以 御慈悲ヲ相手之者共被召出前書不法之始末逸々御吟味被成下置秣場入会之義前々仕来之通り境界相守り以来右躰不法之所業不致秣苅取方差支無之村々無難相続相成候様被 仰付被下置度奉願上候以上
山内源七郎代官所
野州那須郡
片府田村
同代官所
松野孫八郎知行所
同州 同郡
新宿村
松野孫八郎知行所
久世下野守知行所
宇田川村
久世下野守知行所
慶応三卯年 同州 同郡
七月 倉骨村
奥沢村
右五ケ村小前村役人惣代
右片府田村
訴訟人
名主清左衛門
右宇田川村
孫八郎知行所
訴訟人
名主滝右衛門
御奉行所様
訴願を受けた幕府奉行所は原被告に対し次のような通知を出した。
如斯目安差上候間致返答書来月十六日評定所ヘ罷出可対決若於不参可為曲事者也
卯八月二日
駿河(御判)
御用方無加印 市蔵
御用方無加印 豊後
御用方無加印 大和
伊勢(御判)
御用方無加印 下総
相模(御判)
外国御用方無加印 甲斐
土佐(御判)
采女(御判)
(藤田隆氏蔵宇田川文書)
訴願の内容は次の通りである。
争論該当地(上平野)は私共五か村(片府田村、新宿村、宇田川村、倉骨村、奥沢村)並びに鹿畑村、大和久村、赤瀬村八か村の入会の地で、貞享年中(一六八四~一六八八)出入りがあり、その節境界を定めてから何らの問題もなく今日に至っていたのに、卯春(慶応三年春)鹿畑村で問題があり、八か村立会で問題を解決し、同五月には大和久、赤瀬両村は入会地内に大田原藩の御用茅場及び阿久津長十郎(大田原家家臣)の御林があり、ここは入会外であるとの申し分である。しかしこの土地は昔からの入会地であり、その証拠に両村と入会地の境には松が植付けられていて境界がはっきりしている。もし疑があるならば双方で従来から所持している証拠の書類全部を見せ合って解決をしよう。と申し入れ、自分の方では一切を相手に見せ、相手方にも見せてくれるよう要求したが、相手方は現在領主役所へ差し出してあり今手許には無く、すぐには間に合わないなどと言い紛らしている。
相手方は領主(大田原)役所を後楯に秣場を横領しようと考えていることに相違なく、しかも七月九日には宇田川村の百姓佐吉がこの所に立ち入ったとして、馬と一緒に取り押え、掛け合ったところ、御用茅場へ立ち入ったのは申し訳がないという詫証文を出せば許してやるが、さもなければ返すことはできないとの言い分であり、その後相手方は藩役人からも当領主方の役人へ同様の手紙をよこしている。しかしこの地は昔からの入会地で、これを掠め取られては、村々はたちゆかない始末ともなるので、どうか相手の者共を召し出し御取り調べの上、従前通りわれわれがそこへ立ち入ることができるようにして貰いたい。とのことである。
この訴状でもわかるように当該地は前記六ケ村がまだ那須領であった貞享年中(元年)(一六八四)に争論があり、その後鹿畑村との争論で境界は確定していた場所であり、それを大和久、赤瀬両村民が一部は藩の御用茅場地でありそこは入会地でないとの言い分からの争いである。しかしこの言い分は後記の諸文書から見て大和久、赤瀬方が不当な言い掛かりをつけたもので、五ケ村方が正しいとに見るのが至当のようである。
このような訴願を受けた幕府評定所は八月二日(慶応三年)奉行並びに係役人連名をもって、「原被告共に九月十六日評定所に出頭対決せよ、不参の場合はその者の間違いである。」との通知を出している。
なお前記鹿畑村と五ケ村出入示談書は次の通りであり、この度の争論に鹿畑村が加わっていないのはこれらの関係からであると思う。
慶応三年九月鹿畑村最寄入会場出入取扱内事済方証文
為取替和談一札之事
従往古秣場八ケ村入会之内宇田川村外四ケ村より鹿畑村地元秣苅取方滞り候義ハ貞享度違論之節為取替候義ハ悪水堀東之方迄入会ニ相成折候義五ケ村之者ハ申之鹿畑村ニ而ハ奥沢村地内新悪水堀ヲ相用候由申之悪水堀区ニ而難決掛合中扱人立入示談行届候て鹿畑村地元西之原塚より悪水場ヘ見通し同堀ヲ入会境ニ取極東之方ハ畑反別多入会反別少々ニ付依而内野ニ相成候間一切立入不申筈且宇田川村外四ケ村より赤瀬、大和久両村ヘ相手取当時 御評定所御吟味中ニ候間御呼出し御糺等之節ハ前書取極村方より可申上筈訴答境界之義ハ一切不存候間若し御糺等有之節ハ右之段申上候筈為取替双方并扱人一同連印一札依而如件
為取替和談一札之事
従往古秣場八ケ村入会之内宇田川村外四ケ村より鹿畑村地元秣苅取方滞り候義ハ貞享度違論之節為取替候義ハ悪水堀東之方迄入会ニ相成折候義五ケ村之者ハ申之鹿畑村ニ而ハ奥沢村地内新悪水堀ヲ相用候由申之悪水堀区ニ而難決掛合中扱人立入示談行届候て鹿畑村地元西之原塚より悪水場ヘ見通し同堀ヲ入会境ニ取極東之方ハ畑反別多入会反別少々ニ付依而内野ニ相成候間一切立入不申筈且宇田川村外四ケ村より赤瀬、大和久両村ヘ相手取当時 御評定所御吟味中ニ候間御呼出し御糺等之節ハ前書取極村方より可申上筈訴答境界之義ハ一切不存候間若し御糺等有之節ハ右之段申上候筈為取替双方并扱人一同連印一札依而如件
宇田川村
慶応三卯九月 日 茂右衛門 三左衛門 滝左衛門
片府田村
清左衛門 助左衛門
役人物(ママ)代組頭
藤左衛門
新宿村
源左衛門 喜一右衛門
奥沢村
善之助 孫右衛門
倉骨村
太郎右衛門
鹿畑村
新右衛門 治右衛門
村惣代
吉右衛門
東小屋村
喜左衛門
唐杉村
信五兵衛
八木沢村
平左衛門
大神村
新右衛門
(宇田川文書)
幕府評定所から呼び出しを受けた原被告は慶応三年(一八六七)九月十六日評定所(都築駿河守役所)に出頭対決することとなった。
以来明治二年(一八六九)二月二十九日に至る間の諸事情は次の原告側の「右秣場出入御吟味中日記」(筆者不明)によってうかがい知ることができる。
右秣場出入御吟味中日記
一 慶応三卯年九月七日出立同十一日江戸ヘ着
一 九月十二日名主清左衛門より御代官山内源七郎様御役所着御届
一 同日名主孫右衛門久世下野守様御役所ヘ着御届
一 同日名主三左衛門松野孫八郎様御役所滝左衛門病気ニ付代として出府之趣御届
一 九月十五日都築駿河守様御役所ヘ出頭訴訟人清左衛門 三左衛門 孫右衛門 相手方良之助 和三郎 差添人四郎右衛門 訴訟方宿神田山木町代地甲州屋忠治郎 相手方宿馬喰町弐町内伊勢屋嘉兵衛
一 九月十六日御評定所ヘ訴答被召出候
相手良之助答上候ハ境界並松ハ先規松林売木致其節悪木ニ付残候松木之趣答上候
右論地古記書類等相互ニ見届させ候筈訴訟方書類ヲ見届相手方書類見セ不申甚不届之始末其上書類御尋之御利解有之候処古記書類ハ一切無之旨答候今般新規絵図ニ而答上候事
一 九月十八日御呼出し之処御流連ニ相成候
一 同十九日御呼出し双方古証拠御糺ニ付貞享元年済口書絵図御披見ニ入候右写取可差上旨ニ付来ル廿二日迄御日延ヲ願上候
一 九月廿二日御評定所ヘ証拠絵図持参訴出候処絵図面秣場色論所共同色ニ仕立直し可申様被仰付同月廿四日迄御日延ヲ願上候
一 九月廿四日一廉(ママ)絵図面 壱枚一証拠写 壱冊 右之通り差上候
一 同日 三左衛門病気ニ付一ト先帰村ヲ願上候
一 同廿五日三左衛門御地頭ヘ帰村之御届ヲ上ル
一 十一月五日清左衛門ヘ御尋証拠ニ相成ル簾ハ何之簾成哉清左衛門申上候貞享元年奥沢村、鹿畑村と及出入候砌証文ニ奥沢村地先ニ有之候稲荷相成之義一切伐取被申間敷と御座候今般之論所ニ御座候と申上候御掛様貞享度済口証文御熟読之上内野外野ハ何連ヲ申と御尋ニ付答上候ハ奥沢鹿畑境塚より村最寄之方ハ内野之定メ外野ハ境塚より入会秣野之方外野之定ニ御座候と訴上候 相手方ヘ御尋之筋奥沢鹿畑両村境之義ハ良之助承知有之哉と御尋有之候処良之助申上方無之晢(ママ)之間平伏居候処御掛り様より良之助ハ懸隔村之義ニ付不案内ナラン和三郎外役人存居可申と御尋和三郎市左衛門一言も不申上居候処良之助絵図面之通被相違趣答候其方地先ハ何連之場所ニ候哉と御尋有之私共両村地先ハ宇田川村より黒羽道下ニ御座候是ハ上平野と申而至テ広野ニ御座候間八ケ村百姓秣場ハ此所ニ御座候訴訟方申立候場所論所ハ東野平久保と申而往古より年々茅百七拾駄ツツ苅納来リ候場所ニ而入会秣場ニハ無之領主より茅納御手形等も数年来之分所持仕候又荒畑反別帳モ差上可申と申上ル処奉行ニ於テハ証拠限り之事故何成共証拠ニ可相成品ハ持〓(ママ)可致と御沙汰ニ候訴訟方訴上候ハ安永度宇田川村と片府田村引合済口証文ニ字上平野と申字付并ニ八ケ村之内宇田川村外七ケ村地先有之事村々調印御座候間猶又赤瀬、大和久両村限り入会秣場ニ御検地請畑有之ニ非ズ宇田川村外七ケ村ハ何連之村々も御検地受田畑入受居候事書載ニ相成居申候と訴候処御見読之上落字有之左之通「秣場と申立候得共入会秣場之義ハ字上平野」落書書込差出可申と其上得と御見読之上吟味致遣スと御下知有之相手方ヘ絵図面御下ケニ而七ケ村地先絵図書訳可差上と御下知ニ而御退出相成候ニ付私共相下り来八日迄御日延願書差出ス
乍恐以書付奉願上候
野州片府田村一件ニ付訴訟方清左衛門奉申上候証拠物落書有之御下ケ被成下置写直し之義来ル八日迄御日延并相手方七ケ村地先絵図被仰付候得共是又同八日延御猶予之程偏ニ奉願上候以上
訴訟人
卯十一月五日 名主清左衛門
相手方
名主良之助
同
村代和三郎
一 十一月十日奥沢村孫右衛門病気ニ付代りと而倉骨村組頭駒之助出府仕段御届申上候
一 十一月廿二日相手方ニ而地先絵図去ル九日差上置此絵図ニて相手方ヘ委ク御吟味ニ付相手方申立候ハ上平野と申ハ黒羽道下通り此場所ニ而至而広野村々地先ニテ御検地受荒畑有之秣入会場ニ御座候と申立ル御留役様より安永度証拠面七ケ村地先宇田川村外片府田村、新宿村、倉骨村、鹿畑村、奥沢村最寄之方野ハ如何之訳ニ成り居候哉相手方ヘ御尋有之答候ハ是ハ村々外野入会ニ而上平野と申場所ニ無之上平野前件申上候処ニ候と答候 御留役様より訴訟方御尋筋ハ上平野ハ相手方申立候通りカト御尋ニ付左ニ無之是ハ倉骨村、鹿畑村境宇田川村より黒羽ヘ通行道、狩野道十文字夫より宇田川村より倉骨村ヘ通行道北通りハ倉骨村地先ニ而字阿まくぼ道添ニ字阿ま久保と申字御検地受荒畑多分有之又上之台ニ上り字てしこ峰と申て荒畑多く有之候間何連之村々ニ而も上平野と申畑字所山字壱ケ所も無御座候前書ハ倉骨村地ニ限りと申立候処字阿ま久保字てしご峰両字畑反別帳所持仕差上候処写ニ而本水帳国許より取寄可申と御沙汰之処又良之助右清左衛門申立如何と御座候処良之助申立候ハ是迄七ケ村之地先と相心得候和三郎外役人如何と御尋ニ相成一言も不申立居候処良之助申候ハ此度之論所ニ無之何連ニ而も宜敷候と申ニ付争無之ニ於ハ水帳取寄ニ不及と御座候事 御留役様より大和久村赤瀬村地先ハ何連之場と御尋、良之助申候ハ黒羽道上ニ而宇田川村より下奥沢ヘ通り道下ニ而是ハ赤瀬村地先ニ候と答又大和久村ハ赤瀬村ヘ分郷村ニ付両村地先一ケ所ニ御座候 御留役様より相手方ヘ御尋、安永度証拠ニ宇田川村外七ケ村ハ地元有之筈又奥沢村地先より鹿畑村地先ヲ飛上平野ヘ奥沢村地先有之ハ甚不都合良之助心得違と御沙汰、良之助申上候ハ乍去村之内野外野と有之候ニ付村々最寄之方ハ外野と存居候と申上候処和三郎存寄差添え者共如何之心得哉と御尋有之候得共一言モ不申上候 御留役様より貞享度鹿畑村奥沢村と赤瀬村と両村出入済口ハ鹿畑村ハ西ケ原峰見上ケ境、赤瀬村之方ハ狩ノ道際より東之方ハ峰際挽ニ而双方村并六ケ村共都合八ケ村秣入会尤両村地先取究証文ニ候得共狩之道ハ何連より何連の方ヘ道行道と御糺、良之助答候ハ伊王野より今市ヘ米道新塚夫より稲荷森東之脇ヘ相掛り是ヲ狩野道と唱来候と答候
訴訟方ヘ御尋相手申立候通相違無之哉 答候ハ狩野道通行ハ片腐田村之方ハ冨士山東脇ヲ通り夫より相手両村林際ヲ通り夫より奥沢村地内初ケ塚ヘ抜通り尤林際中頃ニ而道薄ク相成罷候得共是ヲ狩野道と唱来候又烏山、佐良土村辺より通行之狩野道と申別ニ有之と申上候 御留役様より右狩野道ハ証拠ニ相立書物有バ可差出と被仰候ニ付左様ニ御座候古絵図面ヘ顕し有之と申上候
御留役様より其絵図ハ裁許か村々調印かと御糺ニ付裁許調印ニハ無之村々扣絵図ニ相成居自己新規ニ認メ候品ニ無之と申上候 相手方ニ而ハ証拠物ハ如何と御尋 相手方申上候ハ証拠之品無之又御掛り様より狩野道と申字付ノ畑成又ハ所付成無之かと御尋相手申立ニハ何ニ而も無御座候と申上候
訴訟方ヘ後日証拠物有之節ハ狩野道申口不都合ニ相成候ニ付心得違無之様可致旨再応御諭ニ心得共聊心得違之義不申上候間御堅察奉願上候と申上候事 御留役様より奉行所ニ於テハ得と熟読之上吟味可致候得共狩野道壱筋之御吟味ニ相成候間双方心得違無之様可致と被仰御退出相成候
乍恐以書付奉願上候
野州片府田村一件訴訟方名主清左衛門奉申上候右一件御吟味中之処貞享度鹿畑村と赤瀬村境界取極候趣書面相手方より奉差上右ヲ以先般御利解被仰聞承知仕候得共一躰出訴以前村方ニ而掛合之節右様之書類有之趣一切申聞無之今般ニ至り差上候義ニ付得と熟覧勘考之上奉請御吟味候様仕度奉存候何卒以御慈悲相手方より差出候貞享度書面拝見被仰付被下置度奉願上候以上
野州片府田村
卯十一月廿四日 名主清左衛門
御奉行所様
一 十一月廿六日訴訟方ヘ御吟味筋 相手より差出候証拠物披見被致度趣奥沢村鹿畑村と赤瀬村境界勘考可申立と有之候ニ付可訴上と御沙汰ニ付申上候ハ相手両村林際通行狩野道境ニ而入会と存候古記絵図面所持仕居尤村々絵図面ニ相成居鹿畑之外ハ村々所持仕居候と訴候処絵図面可差上と被仰付差上候処右三ケ村境界筋可申立御下知ニ付 奥沢村、鹿畑村より申上候ハ林際ノ狩野道迄奥沢村地元と申之赤瀬村ニ而ハ峰下細道迄地元と申之と訴候処等籌策ハ如何ニと御沙汰ニ而双方峰境双方熟談ニ相成候又訴上候ハ出訴以来国許ニ而相手方野絵図有之趣申聞有之ニ付披見致度旨掛合候処相手大内蔵申候ハ領主役場ヘ差上置願下ケ披見為致候筈ニ而追々日延申来り候ニ而七月十日新宿村ヘ集会右良之助申候ハ領主役場評決ならでハ下ケ不相成趣申聞披見為致不申猶又片府田村地元字阿ま久保之念仏塚ヲ相手方ニ於赤瀬村境塚ニ而文化三寅年右塚附直シ之砌片府田村役人立会調印絵図所持有之趣七月廿八日鹿畑村新右衛門宅ヘ集会ニ而大内蔵和三郎申候間御吟味被成下置候て相手者共より可差上候間御堅察之上御吟味奉願上候と申上候処直様相手良之助聞取之通り清左衛門申立口ノ絵図面如何と御沙汰ニ付良之助申立候ハ領主役場より遠〻願下ケ宿元ニ有之趣申立候処証拠ニ可致と申訳ニハ無之候得共明廿七日可差上と御沙汰有之良之助申立候ハ寛文度御検地受荒畑有之尤宇田川村太郎左衛門外名受畑有之字下平と申而貞享度証文共預り置候相成上ニ而右絵図差上之請書印可致と伊勢嘉兵衛下代ヘ申聞有之御訴所より帳御下ケ相成腰掛ニ而請印仕訴訟引取ニ相成候事
一 十二月廿四日月迫ニ相成一同暮帰村被仰付同廿五日出立ニ而帰国 来辰ノ正月廿九日迄ニ立戻帰村被申付候
一 慶応四辰年二月二日御代官山内源七郎様ヘ出府御届ヲ申上候事
一 同三月十五日御掛り皆ニ而原弥治郎様御掛り御吟味中之処御時節柄ニ相成候ニ付追而御沙汰迄一同一ト先帰村被仰付候
一 同三月廿一日真岡御役所ヘ帰村御届申上候
一 同年七月十八日知県事御役所ヘ御届ケヲ申上候 右秣場一件先般追而御沙汰迄一ト先帰村被仰付罷有候処今般民政御裁判所より御呼出しニ付宇田川村組頭六左衛門五ケ村惣代と相成新宿村名主源左衛門差添とナリ出府仕候
(宇田川文書)
この日記によると評定所から呼出しを受けた原、被告は三人ずつの代表者を江戸表に送り、九月十六日評定所に出頭、係り役人の吟味を受けた。
最初に原告側の主張する境界松並木について、被告側(良之助)はあれは前に松の木を売った残りの悪木で境木ではないとの答、次に両方から証拠書類の提出を命ぜられると、原告側は提出したが被告側は古い記録は一切ないので新しく作ったものを提出した。
九月十九日呼出しは、二十二日に延期、九月二十二日再度二十四日まで延期、同日絵図面の写しを提出、十一月五日呼出し吟味、原告側提出の書類について証拠となる点を糺された。
原告側では貞享元年(一六八四)奥沢村と鹿畑村争論の際の論所とそれには判然と奥沢村地先稲荷(現存)の境界が記入されてあること、また内外と区分されその境目も判然と記入されてあることを申し述べた。次に被告側への尋ねに対し代表者良之助等は奥沢、鹿畑の境界については答えられず、ついに絵図面通りといった。また地先についての訊問には、宇田川村から黒羽道下で、その部分は広い場所、ここが八ケ村の入会地であると答えた。
次いで被告側は争論の場所は東野久保といって昔から茅百七十駄づつ刈り取り領主に納めており、その納入手形もあり、また荒地反別帳もあり決して入会地でないことを申し立てた。これに対し原告側は安永年間(一七七二~一七八二)宇田川村と片府田村争論示談書にも上平野と明記されてあり、また入会秣場内を開墾し検地受けをしているのは大和久、赤瀬両村ばかりではなく、他の村村も同様でそれは書類に明記されてあると反論、一応この日の吟味は終わっている。
次いで十一月二十二日吟味が行なわれた。この日は上平野の場所確認の糺し訊問があった。これに対し被告側はあくまで宇田川、黒羽道(現大和久坂切通し、奥沢への通り)の南の部分であると主張し、原告側は奥沢地内稲荷社のある付近地までであると主張し両者が対立した。
まず係から被告側に安永年間(一七七二~一七八一)八ケ村示談書に奥沢村最寄りの野とあるはどういう意味かとの問いに対し、それは外野のことで上平野ではないとの返答、これに対し原告側は強く否定し、黒羽道と狩野道との十文字があり、北側は倉骨村地先となっており、その部分に阿まくぼ、てしこ峰という場所があり、検地受けの荒畑があること、上平野という字はどこにもないと答え、これについて被告側は被告側への訊問にも答えられず、ついにどちらでも結構ですと折れてしまった。
次いで係から被告側に向って、大和久、赤瀬両村の地先はどこかとの尋問に対して、黒羽道上で宇田川から下奥沢へ通ずる道下、これが赤瀬村の地先であると答えた、御留役からはさらに安永度(一七七二~一七八一)の証拠により、宇田川村ほか七か村の地先があるはずである。それを奥沢村地先から鹿畑村地先を越え、また奥沢村地先があるのは不都合ではないか、良之助(被告代表)心得違いをするなと叱りつけられた。これに対して良之助は、私共の村では内野、外野と呼んでおりその場所は外野と呼んでいる所であると答えたので、係役人が外の者にただしたところ、このことについては誰も一言も答えられなかった。
次に貞享年間(一六八四~一六八八)鹿畑村、奥沢村と赤瀬村出入り示談書に「鹿畑村ハ西ケ原峰見上ゲ境、赤瀬村之方ハ狩ノ道際より東之方は峰際挽ニ而双方村并六ケ村共都合八ケ村入会」とあるが、その狩ノ道はどこからどこへの道かと糺されたのに対し、被告代表良之助は「伊王野より今市へ米道新塚夫より稲荷森東之脇相掛り、是を狩野道と唱来り候」と答えているが、被告側の主張は極めてあいまいのものであることが暴露されている。
十一月二十六日また吟味が行はわれた。この際も双方から持参した絵図面の提出を命ぜられ、原告側はすぐに提出したが、被告側は藩庁へ差し出しており、領主役所の許可がなくては提出はむづかしいと言って逃れ、遂に提出しなかった。十二月二十四日年の暮れ近くなったので、正月二十九日再出頭を命ぜられて帰国した。
慶応四年(一八六八)命ぜられて出頭したが評定所で、時節柄追って沙汰をすると申し渡され一同帰国した。
(慶応四年九月明治と改元される。)
慶応四辰年三月御公儀様大政御改革
右出入之義訴答共帰村被申付候
差上申御請書之事
野州片府田村一件之者共奉申上候 私共出入御吟味中之処追而御沙汰迄一ト先帰村被仰付承知奉畏候然ル上ハ此上御沙汰次第早々可罷出候依之御文書差上申処如件
野州那須郡
片府田村
慶応四辰年 訴訟人 名主 清左衛門
三月十五日 同国同郡
大和久赤瀬村
相手 名主良之助
御奉行所様
(宇田川文書)
当時将軍慶喜は大政を奉還、江戸幕府はすでに政権の座になく、従ってこのような裁判どころではなかった。やがてこの地も戊辰戦役の地となり会津征討軍は続々北上し、それと共に従来の下野国内幕府直轄地は日光県に改められ、知県事の支配下に入った。当時日光県知藩事は鍋島道太郎である。なおそれまで下野国内幕府直轄地は真岡代官所において支配していた。明治三年(一八七〇)旗本領も日光県に編入されている。
慶応四年(一八七一)五月真岡代官所廃止となり、前記のように下野国内の江戸幕府直轄地は日光県となり、知県事の支配下に入ったため、代官所を通じての訴願はすべて日光県で行なうようになった。そのため前記原告達は改めて次のような訴願をして引続き吟味が行なわれた。
乍恐以書付奉願上候
野州片府田村一件訴訟方惣代宇田川村組頭六左衛門奉申上候ハ右一件先達而中御吟味中之処当三月中一ト先帰村被仰付尤先々惣代ニ罷出候片府田村名主清左衛門当時病気ニ而罷出兼候間私義代り右惣代とシテ出府仕候尤御尋筋之義ハ無御差支様可仕候間何以御慈悲ヲ御聞済奉願上候以上
鍋島道太郎支配所
野州那須郡片府田村
鍋島道太郎支配所
松野孫三郎知行所
新宿村
慶応四辰年 松野孫三郎知行所
七月 久世下野守知行所
宇田川村
久世下野守知行所
倉骨村 奥沢村
右五ケ村惣代宇田川村
組頭 六左衛門
新宿村
名主
差添人 源左衛門
御訴訟所
一 同九月四日御呼出し御掛り様より新規書類前々より書上方被仰付絵図面共同七日差上候
一 同八日双方御呼出し御吟味中相手良之助申上候ハ相談事致度趣申上候相手方ニ而右之趣ニ而御役所より引取候
一 同十日掛合之上ニ而御役所様江御請書差上候而双方引取申候事
明治新政府に対する訴願は慶応四年(一八七一)七月、同九月四日呼び出し、新しく書類を取り揃え提出するよう命ぜられ、九月七日提出、九月八日再度呼び出し吟味、その途中被告側代表良之助より、この件につき相手方と談合いたしたしとのことなので同十日談合することとし、その旨役所へ請書を出して退出した。
帰村した原、被告はその後たびたび談合したが、双方の主張食い違い、ついに示談不成立、再び法廷にて争うこととなった。
乍恐以書付奉願上候
野州片府田村一件訴訟方宇田川村組頭六左衛門奉申上候 右一件御吟味中之処御利解之趣ヲ以示談掛合中昨十日迄奉願上置種々掛合候得共何分双方心得方格別齟齬致居迚茂示談不行届則破談御訴奉申上候義ニ而有之依之此程中も奉願上候通り国許ニ於テ奥州白川より多分之軍夫御解当相成村方老若共男ノ分不残罷出相勤居右才料且ハ今般御支配替ニ而右御役所ヨリ十ケ年来之諸物成其外品々取調被申付村役人共大御用繁々折柄稲刈入麦蒔付時節ニ差向甚差支難義至極罷在候間何卒以御慈悲ヲ御用村用相勤達中来月晦日迄一ト先帰村奉願上度且又先月廿七日大田原様 黒羽様御勢と脱走之勢之由ニ而片府田村 宇田川村 新宿村地内ニ而戦争相成隣村佐良土村被焼払候次第ニ而私共村々老若男女トモ近隣山林等ヘ逃込漸々相遁候仕合ニ而田畑作物一図ニ被踏荒尚此上何様可成行之趣以飛脚申越候間何卒右難渋之次第御聞済被下置帰村被仰付候様偏ニ奉願上候以上
右宇田川村
(年月日不記) 組頭 六左衛門
会計官
御訴訟所
一 同年十二月十二日五ケ村惣代宇田川村六左衛門又々出府ス着御訴仕候 前書戦争有之候時分帰村被仰付又々日限ニ付出府仕候事
一 同年十二月十六日関塚三四郎様御吟味相成六左衛門書類差出可申旨ニ付貞享度済口証文差出候其節之絵図面可差出旨被仰付此絵図面ニテ案内可致旨被仰付右前々より境並木狩野道稲荷森境塚案内仕候 相手良之助此絵図面ニテ可致旨 良之助金丸道ヲ狩野道と申候 並木際道一切無御座候と申上候六左衛門奉申上候 良之助義ハ偽ニ御座候狩野道ノ義ハ全境松岸ニ御座候と申上私義ハ志しゅう義申上候而も偽りなどと申候 又ハ御上様御吟味ニ而も有之者何卒御上様以御慈悲ヲ場所御見分被下置度申上候猶又稲荷森之義ハ峰より五六間上平野ニ御座候夫より三拾間程西之方迄稲荷森地元ニ御座候 右私義奉申上候義ハ全相違無御座候何卒御上様以御慈悲御見分奉願上候申上候
一 同年十二月廿二日右御吟味中之処赤瀬大和久両村御領主様ヘ御用茅相調来候上右苅取場所村方地内ニ無之候而ハ不相成旨御利解被仰聞奉恐入候得共全今般論所内ニ而右両村御用茅苅取候義前々一切無御座候 八ケ村入会野ニ相違無御座候 且奥沢村稲荷森之義相手方ニ而ハ縦五六間之口出し細木有之趣候得共全峰上右峰より三拾五六間程入込大木数多有之候ニ相違無御座候猶又狩ノ道ノ義相手方ニ而ハ道筋無之趣申立候得共全並木松通り歴然と道形有之候ニ相違無御座候 乍恐実地御見分被成下置候ハハ明白之義と奉存候此段奉申上候以上
辰十二月二十三日 右訴訟人
六左衛門
会計官
御役所
(宇田川文書)
一 同月余日無之ニ付一同暮帰村被仰付候
一 明治二巳年正月右五ケ村惣代片府田村清左衛出府着御訴申上候
一 同二月二十四日訴答ニ呼出し御尋筋最寄山森際松木元朱引之道ヲ狩野道と申立候哉被仰聞候通り相違無御座候相手市左衛門ヘ御尋筋ハ峰下細道ヲ狩野道と申立候哉相違無御座候と申上候双方朱引黒引願書返答書絵図面ヲ認メ互ニ勝手之事致天朝ヲモ不恐入と種々御利解御座候
(宇田川文書)
右文書はまず示談不成立につき再度訴之上げること、しかし国許においては会津征討軍に対し軍夫勤め、十ケ年来の諸税(諸物成)その他の取調申付、さらに稲刈入れと麦蒔付等のため難儀しているので来月(十一月)晦日まで帰村を許してもらいたい。なお先月(九月)二十七日会津脱走兵と大田原、黒羽藩兵とが片府田、宇田川、新宿地内で戦い、隣村佐良土村は焼討ちされ、私共村の者共は付近山林へ逃げ込み、作物は踏み荒らされたことを飛脚の知らせでわかったので是非願いを許してもらいたいというものである。
なお脱走兵と大田原、黒羽藩兵の戦いとあるは、明治元年(一八六八)九月二十七日(慶応四年九月八日より明治と改元)片府田戦(戊辰戦と大田原に詳記)のことである。なお文書には年月日が記されていないが文面からみて十月であるように思うのである。
明治元年十二月十二日再度出府届け出、十二月十六日関塚三四郎係りで吟味を受け、原告代表宇田川村六左衛門は貞享年間の示談証文(奥沢村、鹿畑村争論)と絵図面により説明せよといわれ種々説明、さらに相手方良之助に説明を命じたるところ、良之助は金丸道を狩野道といい境並木は一切ないと説明、これに対し六左衛門はそれは偽りで狩野道添にはちゃんと松の木が植えてあると反ばく、そして現地見分方を願った。なお稲荷森境内についても両者の主張に食い違いがある。
右論争中赤瀬、大和久両村では領主(大田原)へ茅の準備方約束したが村内にそれを刈り取る場所がなくては困るので、是非刈らしてもらいたいとの申し入れだが、それを断わった。稲荷森についても原告側主張どおり大木があるから、是非実地見分を願いたいとのものである。
同年十二月末年の暮れになったので一同は帰国、翌明治二年(一八六九)正月出府、二月二十四日呼出し吟味、しかし両者は依然として自己主張を曲げない、そのため係役人よりお前達は各々勝手なことをいっているが怪しからんと一喝され、次のような一札を入れて引き下がった。
差上申一札之事
一 私共出入地所之義御決難被遊御見分御吟味として其御節より御役人衆被召出候間於場所ニ我意ヲ不立御吟味受都而御差図違背仕間敷候事
一 地所御吟味中申分ヲ立当御官ヘ差越願出候者有之候而も決而御取上ケ無御座候事
一 御吟味ハ証拠限り道理次第ニ而相分依怙贔眉ハ無之事ニ候間手ヲ廻し頼ケ間敷義賄賂全等差出候而ハ却而御仕置被仰付候間急度相慎可申候 御役人中被召連候小もの中杯も聊ノ品送り候而も同様御仕置ニ相成候事ニ付勿論小もの中より無心ケ間敷義申掛候ハハ早々申達当官所ヘ可申上候事
一 御旅宿之義申合兼而極置御到着之節御差支無之様可仕候事
一 場所御吟味中農業不怠地改之場所へ無益之もの不差出尤不用人足不差出都而村入用多分不相掛ケ様可致事
右被仰渡之趣遂一承知奉畏候若相背候ハハ御科可被仰付候依之御請証文差上申処如件
右片府田村名主
訴訟人 清左衛門
明二巳年 差添人 長右衛門
二月廿九日 大和久村 赤瀬村惣代
百姓代 市左衛門
村役人惣代
定吉
会計官
御訴訟所
一 同年三月十四日右一件論所御見分ニ相成候趣ニ而帰村之次第日光御役所ヘ御届ケ申上候事
一 同月論所御見分御下向之趣宇田川村藤田民治宅ヲ御旅宿と相定諸事用意相整ヘ相待候得共追々御日延終ニ御見分御見合セニ相成候事
(宇田川文書)
このようにして帰村した彼等はその後も話し合いを続け、明治六年(一八七三)村境を確定し次のように証文取替をした。
明治六年村境確定証書
為取替申証文之事
一 今般御一新之受際ニ至り地券取調ニ付耕地絵図面被仰付双方立会相改候境界之義ハ宇田川村愛宕森東之塚宇田川村片府田村赤瀬村右三ケ村境塚ニ相定夫より二番之塚へ亥ノ三分ニ当り廿七間同所より三番之塚へ亥ノ五分ニ当り廿間夫より四番之塚迄之間畑西見上ケ塚ニ相定申候同所より五番之塚へ寅一分ニ当り拾四間欠中塚是より鹿子舞頭境松へ見通し夫より赤瀬村死馬捨場之境塚へ見通し同所より小平坂下境塚迄双方共御繩受田地境界相定同所塚ヨリ大和久村小平山出張角塚迄之間見上ケ境ニ相定同所塚より亥ノ三分二当七間見出し夫より境松へ丑ノ六分当り三拾壱間半右境松より苅切村薬師堂東境塚より寅ノ弐分ニ当拾間見出し元境へ見通し同所より苅切村前之方飯森山追之間見上境ニ相定申候夫より境松へ申ノ五分ニ当廿八間右松より未ノ八分ニ当り境塚へ三拾九間半右塚より未ノ八分ニ当り三拾間同所塚より鹿嶋川へ未ノ八分ニ当り拾間是より鹿嶋川境相定申候上川毛村前之方ハ塚境ニ相定申候事前書之通り双方立会納得仕村境相定申候上ハ相互ニ向後違乱申間敷候但し村境之義ハ拾ケ年毎ニ双方立会相改可申候為後証双方連印為取替証文仍而如件
明治六年癸酉八月十一日
赤瀬村 五月女金七、五月女金蔵
大和久村 桜岡久馬、桜岡四郎平、桜岡多平
刈切村 桜岡笹一郎、槐兼治、桜岡直蔵
上川毛村 桜岡高蔵、桜岡儀平
宇田川村 藤田利平治、阿久津茂一郎、菅谷定平、田村直三郎、室井滝一郎、増渕儀平、阿久津幸造、伊藤伝三郎、阿久津清四郎、伊藤新五郎、増渕倉太、藤田豊治、伊藤又治
この間、政府役人が出張実地見分したか否かは不明である。明治十年(一八七七)には八ケ村から各責任者が選ばれ、次のように所有権が確定した。
明治十年字上平野秣場反別調
那須郡八ケ村組合
奥沢村
六百九十番 字稲荷原
一秣場 六町八反六畝弐歩
六百八十九番 字稲荷原
一秣場 九町五反拾弐歩
六百九十四番 字稲荷原
一秣場 七町五反四畝拾九歩
六百七十五番 字前原
一秣場 四町七反七畝六歩
六百八十四番 字稲荷原
一秣場 壱町弐反四畝拾四歩
六百八十三番 字前原
一秣場 壱町壱反九畝拾九歩
六百八十壱番 字前原
一秣場 六町九反三畝廿壱歩
六百七十九番 字前原
一秣場 七町弐反五歩
合反別四拾五町弐反六畝八歩
外ニ
六百八十七番 字稲荷森
一官有平林 四町七反七畝廿八歩
六百八十八番 字稲荷森
一官有社地 八畝拾八歩
六百八十六番 大田原宿
一荒地畑 八反弐畝七歩 八木沢三郎
六百八十五番
一官有地 壱反五畝廿歩
一官有地 弐反五畝拾五歩
六百八十番
一官有地 六畝三歩
鹿畑村
六番 字西鹿畑
一秣場 六反壱畝拾七歩
四番 字一本松
一秣場 拾七町九反九畝七歩
三番 字一本松
一秣場 拾弐町弐反七畝廿九歩
壱番 字一本松
一秣場 七反七畝七歩
合反別 三拾壱町六反五畝廿六歩
外ニ
二番 字一本松
一獣蓄(畜)埋場 壱反弐畝廿七歩
五番 字一本松
一官有芝地 三畝拾七歩
倉骨村
口三百八十八番
字狐平
一秣場三町六畝九歩
イ三百八十八番
字狐平
一秣場三拾四町三反五畝拾五歩
三百八十六番
字アマ久保
一秣場弐町壱畝六歩
合反別三拾七町五反三畝歩
新宿村
六百六十四番
一秣場拾四町五反五畝六歩
片府田村
千三百三番
字アマ久保
一秣場廿七町三反廿六歩
外
吉成岩五郎
千二百九十九番
字山崎
一荒畑壱反三畝廿弐歩
千三百番 高野喜四郎
字山崎
一荒畑三反四畝八歩
千二百九十八番 阿久津熊次郎
字富士山
一荒畑壱反拾弐歩
一番 新宿村
字下赤瀬
一秣場六反八畝廿四歩
三番
字下赤瀬
一秣場三町三反六畝八歩
十壱番
字下赤瀬
一秣場弐町八反五畝廿八歩
十三番
字東原
一秣場拾弐町四反八畝四歩
十五番
字東原
一秣場四町五反五畝拾四歩
百十二番
字鹿畑道上
一秣場九町八反四畝廿八歩
合反別三拾四町弐反五畝八歩
外ニ
十四番 五月女金七
一芝地四畝廿五歩
二番 五月女金七
字下赤瀬
一畑九畝廿五歩
大和久村
十四番
字奥沢道下
一秣場壱町壱反壱畝九歩
十三番
字奥沢道下
一秣場五反五畝廿九歩
十五番
字上ノ台
一秣場八町弐反拾歩
合反別九町八反七畝拾八歩
惣計反別百九拾八町四反四畝弐分
但し秣場之分
外ニ
反別六町三反三畝七歩
官有山林其他民有畑、荒地、芝地等ニテ入会秣場ニ無之分
一今般地租御改正ニ付各村担当人立会字上平野従往古入会地所丈量シ毎年全図地別帳照合シ反別取調候処無御座候 最黒筋ヲ以地元ヲ区分シ有之上ハ何レノ村全図ニ記載ノ地ト雖モ此図面之通相互ニ秣可為入会 但荒畑芝地等図中ニ記載之分其持主限り進退可被致候 向後秣場反別之地ヘ新開、新林ハ勿論立萱等一切不仕境界確守シ聊背反致間敷候 為後鑑一同連印致置候也
明治八年亥八月 日
片府田村
高野喜四郎 大久保幸平 鈴木忠治
新宿村
伊藤米造 伊藤宇八 渋井儀重
倉骨村
郡司勘四郎 桜岡熊吉
宇田川村
増渕儀平 菅谷定平 阿久津茂一郎 田村直三郎 阿久津幸造
奥沢村
大河原喜一郎 磯与惣平 小山田直三郎 増渕文治 小山田長十郎
鹿畑村
永山勘一郎 吉成幸三郎
大和久村赤瀬村
桜岡直蔵 増渕源一郎 桜岡笹一郎 桜岡久馬
右絵図担任
宇田川村
藤田利平
片府田村
大久保清一郎
倉骨村
郡司七十二
鹿畑村
福田随平
(宇田川文書)
この争論に関する文献は原告側のものであり、被告側の文献は未だ見当たらない。これによって見ると原告側の主張が大体において正しいようである。被告側は藩勢力を背景とし、前の争論裁決の際調製された絵図面記載事項の事実についてもかれこれ言い張っていたようである。
問題は江戸幕末より明治初年にわたって争われ、ついに前記の結末となっているが、もしこれが幕府政治下のみであったなら、また異なった結果となったかもしれない。それは戊辰戦時大田原藩は積極的に薩長方に協力し、明治新政府から極めて好意的であったのにくらべ、被告側は天領や旗本領民であり、明治政府からは必ずしも好感をもって迎えられたとは言い難い点もあり、このような両者の立場が裁判に全然影響しなかったとは言い得ないように思うのである。