争いの起こったのは佐久山方の主張する境界――榎より提通り、それより南の方佐久山宿へ、さらに大神村の境塚へ見通し、西方は佐久山地内でそこには佐久山宿の者が以前開墾し、洪水のため川欠地となった田畑跡地のある場所――その場所を滝野沢村の組頭幸左衛門が畑を切り開き、また同村要右衛門は岡和久村の出作地であると主張して、佐久山宿長瀞の地を切り開いて畑を作り、さらに甚兵衛の伜十郎兵衛は佐久山宿の田畑川欠跡地を入会秣場であるといって秣を刈っているが、これは間違いであると主張している。
これに対して滝野沢村方では、以上の場所は先年(元禄年間)の争論(前記第四節で記す)の際に定められた滝野沢村地内の場所で、その際に作製した絵図面もあり、地境は佐久山方の主張する場所よりは西の方で、幸左衛門及び要右衛門の切り開いた場所は、その際滝野沢村の地内と決められた場所である。また佐久山方の主張する田畑川欠跡地と言っている所は、前々から入会秣場であった所であり、その際の議定証文もある。と主張、争いとなったものである。
このような滝野沢村方の主張に対し、佐久山方では、滝野沢村のいろいろな主張は、滝野沢村と近接十二か村の間の取り決めであり、佐久山宿としては一切預り知らないことであると言って、文化十二年(一八一五)五月これを幕府評定所に訴え出た。
訴えを受けた評定所は、同年八月十三日、両村の者に出頭を命じ、曲渕甲斐守係りで取り調べが行われたが、両者は話合いの上次のような確認書を交換して示談が成立した。
差上申済口証文之事
野州那須郡佐久山宿惣代年寄斧平外壱人と同州同郡滝野沢村名主甚兵衛外四人相手取地所出入去亥五月中曲渕甲斐守様江御訴訟奉申上同八月十三日 御評定所江可罷出旨之御裏 御判頂載相附御差図当日双方罷出相手方よりも返答書を以答上御吟味中ニ御座候処再応御日延奉願上掛合之上熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候
一 右出入双方得と掛合候処訴訟方ニ而は榎より堤通夫より南之方佐久山宿江大神村之境塚江見通、西方は佐久山地内ニ而川原地之義ハ不残田畑川欠跡ニ候処相手幸左衛門義佐久山宿字下河原江畑切開滝野沢村要右衛門は岡和久村出作之由申之佐久山宿字長瀞江畑地切開相手甚兵衛忰十郎兵衛義は同宿中嶋河原田畑川欠地を入会秣場之由申談立入秣苅取候義之旨申立相手方ニ而ハ先年拾弐ケ村出入之節絵図面も有之佐久山宿江之地境ハ訴訟方申上候場所より西ノ方ニ相当幸左衛門、要右衛門切開候畑地は相手方地所ニ而訴訟方へ字中嶋河原田畑川欠地と申立候場所は先前々より之入会秣場ニ相違那く既ニ議定同取替等も有之候由申立相争候得者訴訟方見通境と申立候ハ申伝迄之義相手方より申立候絵図面之義ハ拾弐ケ村限之義ニ而佐久山宿と証拠ニハ難相成依之今般立会地所相改訴答地境之義ハ別紙為取替絵図面之通相守候筈且相手方ニ而申立候議定証文有之候入会秣場者滝野沢村地内〓通ニ候を致亡却甚兵衛忰十郎兵衛義中嶋河原江入会秣苅切亦は幸左衛門義下河原江畑地切開候次第ハ一同心得違之旨訴訟方江及挨拶要右衛門切開候畑ハ今般取極候地境ニ而ハ相手方地内ニ相成右出入無申分熟談内済仕偏ニ御威光と難有仕合奉存候、然ル上ハ右一件ニ付双方より重而御煩筋毛頭無御座候為後証達印済口証文差上申処如件
福原内匠知行所
野州那須郡佐久山宿
惣代
年寄 斧平
字松原
名主 佐兵衛
右両人願付代
佐久山宿年寄
訴訟人 源右衛門印
久留嶋勝太郎知行所
同州同郡 滝野沢村
名主 甚兵衛願付代兼
組頭 幸左衛門印
倉橋惣十郎知行所
同州同郡 岡和久村
名主 武兵衛
酒井吉十郎知行所
同州同郡 同村
名主 茂兵衛
右両人願付代兼
桑山十郎右衛門知行所
同州同郡 同村
要助印
御評定所
(滝岡、大島家文書)
すなわち滝野沢方の言っている入会秣場とは、滝野沢地内〓(ママ)通り場所であること、幸左衛門が滝野沢地内だと言って切り開いた所は考え違いであったこと、但し要右衛門の切り開いた所は滝野沢地内としてこれを認めること、このように両者の話し合いが成立、示談となったもので、これが文化十四年(一八一七)のことである。この時には関係村の外、沼村、小種島村、岡和久村、大神村も近接の関係村として立ち会っている。