第六節 宇田川村、上沼村、小種嶋村、三色手村の四か村と荻の目村との争論

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 これは旗本領宇田川村、上沼村、小種嶋村、三色手村の四か村と大田原藩領荻野目村との秣場を中心とした境界争論である。
 この地の争論は前記第一節の大田原宿と天領、旗本領十二か村との争論時(延宝年間、一六七三~一六八一)に溯り、当時の裁決図面にもこの地域が記されている。その後明治維新になるまでどのように推移したかは全然不明であるが、維新の際土地所有権確認のための取調べにあたり、荻野目村から前記四ケ村に立会を求められ、明治五年(一八七二)十月二十一日現場に臨んだところ、従来五ケ村入会秣場地域内の一部を荻野目村では、ここは新屋敷といい、村ではその部分については税負担もしてきているからと主張し、これに対し四ケ村方ではそこは延宝年間裁決の際入会地と確認され、絵図面にもはっきりと記されてあるものであるとの主張、折衝の結果従来荻野目村で税負担をしていた分はこれを荻野目村の所有と認め、立木は入会五ケ村所有ということで一応示談が成立した。
 ところがよく調べてみたところ、延宝年度の証文には双方の畑合計壱町歩、内宇田川村三反五畝余、上沼村弐反五畝余とあるのに、荻野目村では明治四年(一八七一)の書上帳にこの地域内荒畑九反五畝歩余、並びに畑その他八反歩、都合壱町七反七畝歩余と記して場所の案内をした。そこで四ケ村方ではそれはおかしい、延宝年度の証文に壱町歩とあるのと相違している。しかも荻野目村で畑荒地という場所の畑形さえはっきりしていない。旧検地帳をもって引き合わせてみようと掛け合ったところ、荻野目村ではそれは旧領主(大田原)に差し出してあり、今すぐ戻してもらえないとのこと。そこで二十七日まで待とうと申し入れ、当日現場へ関係者が参集した。協議にあたっては、荻野目村が持参したものは旧検地帳(享保前)ではなく、寛保(享保→元文→寛保)期のものである。そこでそれをなじったところ、今更旧検地帳を引合にする必要はない。荒畑の部分はもちろんのこと、立木も残らず荻野目村のものであり、以後一切立ち入ってもらっては困る。といい、また古証文等は一切ない、しかし新屋敷地は荻野目村のものであると強硬に言い切って、あとはどのように四ケ村が交渉しても相手にならない。そこで四ケ村はこれが裁決を明治政府に訴願したものである。
 
 明治五年長峰東原秣場出入訴状
  乍恐以書付御訴訟奉申上候
         御管下那須郡
          第六大区十一小区
              宇田川村 上沼村 小種島村 三色手村
  秣場出入     右四ケ村惣代
            上沼村惣代
            訴訟人大野亀十
            小種島惣代
              郡司源七
         御管下同郡
          第七大区三小区
            荻野目村
            惣代 千本喜右衛門
          相手
            伍長 手塚兵右衛門
            〃  手塚浅右衛門
  右訴訟人上沼村大野亀十外壱人奉申上候
私共四ケ村秣場之義相手荻野目村共都合五ケ村入会字長峰東原と唱延宝二年及出入訴答立会絵図被仰付則境界御墨引御裏書御証文ニ而境界聢と御定被下置候以来無差支入会来候場所然ル処今般原野御取調ニ而荻の目村より右場所取調候ニ付立会呉候様申来候ニ付去月廿一日組合村ニ一同立会境界相改候処荻野目村最寄之一方多分ニ囲ヒ込候ニ付始末相尋候処同村挨拶ニハ右秣場之内同村新屋敷地有之趣申之ニ付延宝度絵図面写ヲ以掛合候処右新屋敷之義ハ入会場ニハ無之同村内野ニ有之趣決心仕右秣場之内御高請之畑有之分ハ同村ニ而所持仕其外木立之分ハ如前之入会ニ差出候様示談行届候尤延宝度御証文ニ双方之畑合壱町歩進退可致旨被仰付御座候ニ付取調候処宇田川村之畑三反五畝歩余上沼村之畑弐反五畝歩余ニ御座候得共荻野目村之義ハ昨未年御改ニ付荒畑九反五畝歩余并畑外八反歩都合壱町七反七畝歩余書上候扣帳ヲ以場所案内有之候ニ付右様新規取調ニ而畑反別多分ニ相成候而ハ延宝度双方之畑合壱町と被仰付候御証文ニ相違仕殊ニ畑形聢と相分り兼候ニ付旧御検地帳ヲ以引合呉候様掛合候処古帳之義ハ旧領主ヘ差上置候得共急速御下ケニ難相成趣ニ付同月廿四日より廿七日迄之間差扣呉候様申し候ニ付但其意置同日ニ至り右秣場ヘ集会之上相手之者共寛保度御検地帳持来致候得共如何之心底ニ有之候哉前書之対談違変仕右取出し之義ハ荻野目村新屋敷ニ相違無之候ニ付旧検地帳引合取調ニ不及荒畑之外木立之分茂不残荻野目村持分ニ付四ケ村之者共難為立入趣申之以之外之義ニ付精々及掛合候得共立出之分一図荻野目村之由申之候若相手之者申通右立出し之分荻野目村持地ニ御座候て絵図面御墨引之節右地面差除キ境筋可相立義と奉存候尤荒畑之義ハ御証文之通り双方ニ御座候得共秣場之内立出し之分一図荻野目村持分杯と難渋申掛難心得義ニ付尚精々及掛合候得共更々不取敢是迄荻野目村持地ニ相違無之趣申之ニ付左候ハハ秣場之内同村新屋敷と申証拠有之候ハハ見届之上決心致度旨掛合候処古証杯ハ一切無之候得共新屋敷地ニ相違無之杯と我儘申募り絵図面御墨引御証文ヲ破り入会之場ヲ可掠取巧ニ相違無之候全以私共村々之義ハ元来薄地ニ而馬草助ケヲ以御同地相続仕候処右様秣場被相狭候而ハ秣不足ニ相成追々難渋至極仕候間無是悲今般御訴訟奉申上候何卒格別之以御慈悲ヲ相手之者ども被召出御吟味之上延宝度絵図面御証文之通り境界相守立木伐取従前之通り秣苅取方無差支村々無難相続相成候様被為仰付被下置候ハハ難渋之村々相助り偏ニ御慈悲難有仕合奉存候以上

                                右四ケ村惣代
      明治五壬申年                       上沼村
        十一月                      大野亀十
                              右小種島村
                                 郡司源七
 
     宇都宮県
        御役所
(宇田川文書)

 
 当時土地問題に関する訴願は戸長の手を経て行なわれた。前に記したように江戸幕府直轄地は明治元年日光県となり、明治三年には旗本領もまた日光県所属となった。明治四年廃藩置県後は旧領名をそのまま県名とし、明治五年(一八七二)には現県内を南部は栃木県、北部を宇都宮県といった。明治六年(一八七三)十二月両県は統合されて栃木県となった。即ち旧下野国は栃木県となったのである。
 県の下に郡を置き、さらにそれを大区、小区に分け、それぞれの区長、副区長があり、それを戸長、副戸長といった。なおこの大小区制はここでは明治五年(一八七二)宇都宮県当時実施され、明治七年(一八七四)区域整理で明治五年当時とは異なった区名となっている。明治五年当時は旧大田原町、金田村地区は大体第七大区、親園村、佐久山町は第六大区であり、明治七年以後三大区となっている。
 右四か村からの訴状を受けた第六大区十一区戸長印南丈作、副戸長八木沢新六は、第七大区三小区正副戸長宛次のような書状を送った。
別紙之通当区内四ケ村より其御区内荻野目村ヘ相掛秣場旧三御奉行御裏書絵図面之通入会致度奥印願上候下書ヲ以及御談事候相手荻野目村ヘ御下ケ御裁許絵図面御見届ケ之上内事相成候様致度及御掛合候御報迄差扣罷在候此段御承知可被成候也

   壬申(明治五年)十一月四日 第六大区十一区
                               印南丈作
                               八木沢新太
        第七大区三小区
            正副戸長御中
(宇田川文書)

 
 即ち四か村と荻野目村入会秣場については、前々(延宝年間)三奉行裏書絵図面通りに入会したいから、相手荻野目村へ同様下げ渡されてある絵図面を見届け、内済にしたいのでよろしく頼むとの報である。
 戸長より連絡を受けた荻野目村では正副戸長宛次のような返答書を出した。
 荻野目村返答書
  御尋ニ付左ニ申上候
此度第六大区十一小区宇田川村上沼村小種島村三色手村 右四ケ村より私共村方ヘ相掛り秣場出入之義ニ付出願ニも可及段正副戸長御役迄申出ニ候旨ニ而御引合ニ相成候趣御尋ニ預り奉畏候 右論地之義当村字新屋敷と唱候場所ニ而木立ニ相成居林反別ニ相載り永納仕来之地ニ御座候然ルヲ相手村方ニ而ハ入会之場所故差出配当可致杯難解義申掛候故右地所村方手切ヲ以増減進退相成義ニも無之旧領主ニ而林地反別ニ従来より加ヘ居永納地ニ有之既ニ当御県ヘも反別并永納調書上ケニも記載相成居候私共村方ニ而相手ニ相成訴答仕候筋ハ無之右ニ而も申分無之候ヘハ当村ヘ御構無之旧大田原県ヘ御引合相成候共御県ヘ出願相成候共右地所私ニ致候義ニ無之ニ付小村之私共迷惑不相成様先方正副戸長御役中ヘ御返書被成下度奉願上候此段御尋ニ付奉申上候以上

                                      荻野目村
        壬申(明治五年)十一月九日                  伍長 手塚兵右衛門
                                       〃  千本喜右衛門
                                      苅切村
                                       惣代 桜岡笹一郎
         正副戸長御中
 
 返答要旨は争いの場所、新屋敷と唱える所は木立になっており、林反別として税を納めて(永納)きたところ、それを四か村の者達はここは五か村入会地などと言い掛かりをつけ、分け前に預かろうとしている。甚だ怪しからん話、右の場所はわれわれが勝手に増減したものでなく、旧領主(大田原)が林反別として税を徴していた土地、私共の方で相手になる筋合いは一切ないから、私共へは構わず、旧大田原県へ尋ねるとも、宇都宮県へ願い出るとも御随意にしてもらいたい。この旨先方の正副戸長役へ返答してもらいたいとの極めて強硬な態度である。
 このような荻野目村方の強硬態度を知った第七大区三小区正副戸長は第六大区十一区正副戸長宛次のような書状を送った。
其御区内四ケ村より当区荻野目村ヘ相掛り候入会地之義ニ付申出有之趣ヲ以下書御添御引合被下承知致候依而相尋候処別紙之通り御座候処加封御廻申候篤御再考之上可相成ニ出訴不相成様致度候間御説諭之程御頼申候御模様ニヨリ当方ヘ利解可致宜敷御取斗可被下候此段御事申候也

                               第七大区三小区
      壬申十一月九日                   副戸長 渡辺六郎平
                                戸長  山口利三郎
         第七大区十一区
            正副戸長御中
(宇田川文書)

 
 即ちあなたの区内四か村と当区内荻野目村との入会争論の議に付き、そちらの書状を荻野目村方へ見せ事情を尋ねたところ、荻野目村の返答は別紙の通りであるから、さらに御考え直しの上、裁判沙汰にしないよう、四か村の者達を説諭してもらいたいとの返答書である。
 このように両者の主張は相容れないままで経過した。その間、両方の正副戸長は裁判沙汰にしないで折衝を重ね、四か年半後の明治十年(一八七七)七月やっと次のように示談が成立した。
 
   為取替申証書之事
一 従往古五ケ村入会秣場字長峰東之原相滞り候義は宇田川村上沼村小種島村三色手村原告致訴上候は延宝二年秣場違論之節絵図面御墨引ニ而境界確与御定被下置其以来無差支入会致来候処荻野目村最寄之方右入会中江荒畑多分有之其外畑作地八反歩余旧領主ニテ地押之節林反別ニ高載候ニ付入会不相成旨被申断候得共延宝度絵図面御裏書ニ双方畑合壱町歩余ト有之候得は荻野目村ニ限り荒畑多分可有之謂無之猶又畑外八反歩は新規反別之義ニ付前々之通り入会ニ差出置候様致度旨申立候

一 荻野目村答上候は右論所之義字新屋敷ト相唱候場所ニ而旧領主へ永納仕来之地尚県へも永納致居候義ニ付私ニ増減難相成候間旧大田原県へ引合候トモ御庁へ出願相成候共私ニ増減難相成旨答上候

 右、出入ニ付両正副戸長御中ヨリ双方示談可致旨被申聞罷在候処今般双方納得仕示談行届候趣旨は原告ニ而は荒地畑検地反別ヲ除クノ外不残入会ニ差出呉ル様及掛合候得共旧領主分繩入ニ相成候義ニ付地所之義は荻野目村転地ニ相定立等立木は入会村々へ差出候様可致旨申し被告ニ而は旧領主ニ而不調之通地所増減不相成義ニ候ハバ立木之義は入会村々へ差出可申ニ付勝手ニ切払地所之義は荻野目村転地ニ致度旨申し候
右之通り双方納得候ニ付別紙絵図面之通り取極無出入埓明互ニ申分無御座候依て双方連印為取替証書一札如件

   明治十年七月 日
(宇田川文書)

 
 示談の結果は大体荻野目村の主張が認められ、新屋敷なる地は荻野目村に属することとなり、ただそこの立木だけは五か村で分配することとなった。
 この争論における両者の主張はいずれが是か非かはにわかに断じ難いが、延宝年度の裁許文面と絵図面から見れば四か村方の主張がもっともと思われる。しかし、その後その地域に対する四か村方の関心はうすく、そのため荻野目村方ではここを開発、これを大田原藩に届け、藩ではそれに対し税を課していたもののようである。明治維新となり農民の土地所有権確立がさかんになると、急に土地に対する関心が強まり、今まで無関心であった土地に対して権利の主張が行なわれたために起こった争論であるように思う。