この四か村は元那須家領で、寛永十九年(一六四二)七月二十五日那須資重が病弱のため参勤交代を怠った落度を問われ、壱万五千石の領地改易となり、領地はすべて幕府の直轄地となったが、後幕府は資重の父資景の徳川氏への忠勤を憐れんで、当時隠居の身であった資景に隠居料として五千石を下賜した。この際湯宮村その他は再び那須領となったが、その後貞享四年(一六八七)十月十四日後嗣問題からまたまた改易となり、その後は幕府直轄領として明治維新に至った村々である。
この地の争論は四か村が未だ那須領であった寛永八年(一六三一)、万治三年(一六六〇)及び天領期の安政二年(一八五五)に起っており、相手方は大田原領引沼村(蟇沼村)である。なお寛文十二年(一六七二)には宇都宮領門前村、上村、中村、湯本村(以上塩原町)との間でもほとんど同一地内で争いを起こしている。
寛永八年(一六三一)及び万治三年(一六六〇)争論に関する史料には次のものがある。
下野国福村長右衛門御代官所百村、湯宮村と同国大田原備前守知行所関谷、引沼と中通山論付而御評定所度々穿鑿之裁許之事 右中通山通候道筋之橋二ケ所従百村湯宮村懸来候 其上那須美濃守領分之時三十年以前未歳中通山論有之付而大関土佐守、芦野民部、岡本宮内、上田善次郎、徳生庵取扱那須美濃守方江遣之候証文有之也、又中通山之内従湯宮村伐木取候小屋懸之跡三十七ケ所双方より出候絵図有之候 如此湯宮村之百姓慥成証文証拠出之上者関谷、引沼之百姓非儀申出候為過怠籠舎申付候 依之論所之山堺ニ評定之面々加印判絵図双方江相渡就為後鑑仍如件
万治三庚年三月廿二日
源左衛門印
蔵人 印
長門 印
備前 印
伊勢 印
阿波 印
河内 印
美濃 印
豊後 印
伊豆 印
但し右之通絵図面御裏書ニ相成居候文字
万延元年申ノ九月吉日 久左衛門控
諸済口御証文写(黒磯町穴沢高根沢久一文書)
これによると寛永八年(一六三一)の争論は、那須美濃守(資重)領分百村、湯宮村と、大田原備前守(晴清)領分関谷村、引沼村との間の、中山通り山林境界についての争いである。百村、湯宮村では関谷、引沼両村を相手取り訴訟を起こした。この際は黒羽藩主大関土佐守(高増)、芦野民部、岡本宮内、上田善次郎、徳生庵等、那須、大田原の一族達が扱人となって一応解決した。
しかし万治三年(一六六〇)再び争いが起こり、この際には寛永八年期争論の折の証拠書類によって百村、湯宮村の主張が通り、関谷、引沼両村農民の中の騒ぎを起こした者共は籠舎(牢屋)につながれるに至った。
安政二年(一八五五)再び同所で境界争論が起った。事件は安政二年(一八五五)十月木綿畑村民が境界近接地の樹木を伐採し、それに刻印を打ったことに対し、十二月それを見つけた蟇沼村民がこれは蟇沼村所有地内の樹木であるといって、木綿畑村に対し掛け合ったことに始まる。しかし木綿畑村ではこれはわが方の村有地内のものであると主帳したため、蟇沼村ではこれを藩役所へ訴え出た、藩では役人を現地に派遣し実地調査をした。問題は翌安政三年、さらに四年になっても解決しない、そこで四か村側では安政四年(一八五七)八月、これを幕府に訴え出たのである。
乍恐以書付御訴訟奉申上候
大竹左馬太郎当分御預り所
野州那須郡
湯宮村
百村
木綿畑村
鴫内村
右四ケ村総代
右湯宮村
名主 角次
訴訟人
百村
名主 又右衛門
不法出入
大田原飛騨守様御領分
同州塩谷郡 引沼村
組頭
相手 弥右衛門
〃 重五郎
百姓
〃 吉兵衛
〃 丑松
〃 助七
〃 平蔵
右訴訟人角次、又右衛門奉申上候私共四ケ村入会中通山東ハ大さひ、西は小さひ川両川落合村境之儀右落合と下ハ川境、上は小さひ川となべ有川境ニ候処万治年中関谷村引沼村ニ而境筋中犯し大さひ川境之分難題申懸ケ候ニ付其筋及出入御吟味之上同三子年中御裁許被仰渡関谷、引沼両村非議申立候ニ付御過怠籠舎被仰付論所山境之儀大さひ、小さひ両川落合より上ハ小さひ川通、なべ有川筋右落合より下ハ川中英(央)西ハ引沼村地内東ハ私共四ケ村入会山永上納之場ニ被仰付則御裏書御絵図双方江頂戴被仰付其以来無違失大切ニ相聞来且右落合より下ハ平地有之秣苅取木立之場所ハ成木次第先年より度々私共四ケ村ニ而伐木いたし苗木植付仕年来聊無差支進退仕来既ニ当春中迄無差障伐木渡世罷在候処相手之もの共儀如何相心得候哉当六月中右山地迄引沼村高受本地飛地ニ相成居候間私共村之伐木ハ勿論為立入候儀難相成旨以之外案外不当之申聞驚入右ハ前文之通従来私共四ケ村入会進退之場所ニ而川筋変瀬、飛地等可有之謂無御座眼前是迄年来数度私共方ニ而伐木仕来更ニ故障無之処此節ニ至リ俄ニ右体之儀申候段甚以難心得境筋之儀ハ那須、塩谷両郡境ニ而万治年度御絵図面ニ而顕然致居尤出水之時節聊之瀬違等ハ有之候得共右ハ川原地迄之儀ニ而木立山地の場所迄変瀬可相成謂無御座既ニ御絵図面ニもさひ川より引沼村、湯宮村江之間数も御書裁有之引沼村ニも御絵図面所持有之儀ニ付其段精々及懸合候処右川筋打越相方村方高札場有之立木之場所一図引沼村地内ニ候様理不尽之儀□□申聞剰伐木諸道具等迄取上ケ候抔弥増我意不法申募リ右ハ全私共四ケ村入会 御料所地内立入分可掠取□を以不法難題申懸ケ候儀ニ可有之私共四ケ村入会従来山永上納進退之場所ニ拘り必至と難渋至極仕候間無慈悲(是非)今般御訴訟奉申上候、何卒以御慈悲相手之もの共被召出前書之始末逸ニ御吟味被成下置村境之儀万治度御裁許御絵図面之通さひ川中央境被仰付以来無謂難不申懸候様被仰付被下置度偏ニ奉願上候以上
大竹左馬太郎当分預り所
野州那須郡
湯宮村
百村
木綿畑村
鴫内村
安政四巳年 右四ケ村総代
八月 右湯宮村
名主 角次
百村
名主 又右衛門
御奉行所様
右の訴えを受けた幕府では評定所役人連署の次の通達を相手方引沼村及び原告側に出している。
如斯目安差上候間致返答来月十三日評定所江罷出可対決若於不参ハ可為曲事者也
巳八月七日 因幡
御用方無加印 摂津
御用方無加印 筑後
御用方無加印 左衛門
加賀
播磨
甲斐
対馬
豊前
中務
右京
(以上黒磯町木綿畑本田、室井久一文書)
幕府評定所より返答書持参の上安政四年(一八五七)九月十三日出頭方を命ぜられた蟇沼村では、原告側に対し次の挨拶状を出している。
差出申一札之事
一 今般貴殿方より我等共江相掛り不法出入申立石谷因幡守様江被成御出訴来月十三日御差日之御尊判頂戴上相附表裏共墨附汚無御座拝見承知奉畏慥ニ受取且拙者共儀右御差日四日以前返答書共弐通持参差添人一同出府御掛り 御奉行所様江着御訴可申上旨被仰渡之趣御達被成是又承知仕候 依之為後日拝見受取一札差置申処如件
大田原飛騨守領分
野州塩谷郡引沼村
安政四巳年 組頭 弥右衛門
八月廿二日 差添人 吉郎右衛門
組頭 重五郎
差添人 久右衛門
百姓 吉兵衛
差添人 三右衛門
百姓 丑松事 源右衛門
差添人 宇右衛門
百姓 助七
差添人 仁左衛門
百姓 平蔵事 勘兵衛
差添人 熊蔵
湯宮村
名主 角治殿
百村
名主 又右衛門殿
(黒磯町穴沢高根沢久一文書)
次に被告大田原領蟇沼村方に関することについて、故人見伝蔵氏は次の如く記している。
蟇沼林係争事件
大田原領の西郷なる蟇沼、杉戸(折戸)、高林外三ケ村は、幕領木綿畑、湯宮、鴫内、百村と隣接し、蛇尾川の旧流域である河原の中央を以境界と定まってゐた。安政二年(一八五五)十月、木綿畑村民は村有山林の樹木を伐採して、売却するに当り、規定の境界を越えて、蟇沼村外五ケ村所有の松杉若干本に盗伐(売却)の刻印を附けた。十二月に至り蟇沼村民等之を発見しその不法を詰った処、木綿畑村方は村有地なりと主張して肯かなかったので、蟇沼方は之を藩庁に訴へ出た。三年正月十七日、郡奉行岡森麻之助、代官江連銀蔵、勘定役相山団司(後羊三)等は現場に出張して、木綿畑村関谷道境より、蛇尾古河原並に新河原より、蟇沼、湯宮村境に出で、大小蛇尾川の合流する湯さんす岩附近を検分し、杉戸(折戸)横林を経て、高林村組頭良之助宅に到着した。此日木綿畑村民等は各自鉄炮、斧、鋸等を携へて、途中に集合して一行を威嚇したが、郡奉行は我領民を戒めて無事なるを得た。その後我領民は、木綿畑方に対して、再三交渉を重ねたが、相手方は依然村民(有)地なりと主張して肯かず、遂に江戸に出で幕府に訴願した。幕府は八月我藩に返答書の提出を命じたので、藩は岡麻之助、代官渡辺彦左衛門をして答弁書並に係争土地図三枚、領内明細図、下野国絵図外元禄十一年阿部対馬守に提出せし領内絵図写二葉と地台帳等を携へ九月四日発足し、十日之を御勘定所に提出した。安政六年(一八五九)五月十五日江戸藩邸では、論所改役梅津九十郎より今回係争地検分の為、飯原祐右衛門、中村晋平出張の内報を得、十六日用人程島貢は挨拶のため、飯原を本郷大根畑の邸に訪うた処、近日公用を以て信州方面に出張し、八月下旬、帰府後に貴領検分に赴くとのことであった。
八月二十日飯原等信州より帰府し、九月四日両人江戸を出発して大田原に来り、九月十二日係争地を検分した。
同七年八月に至り、江戸奉行所より、原、被両造双方出頭すべき旨を達せられたので、我藩は関谷村名主又右衛門附添、蟇沼村組頭弥右衛門、折戸村善蔵等を出府せしめた。九月十日御留役石原准之助の係で審理が行はれ、原、被一人づつ椽先に進み出で、去年幕府見分の係争地絵図面につき申立をなさしめた結果は、木綿畑方申立の八宝沢前旧川除跡並寺方用水等は採用されず、又四ケ村入会につき、去年、実地検分の際、特に提出を命ぜし書類を差出さず、別種の書類を提出せしは不行届なり。又該係争地が果して木綿畑外五ケ村の入会地ならば村民等は平素自由に立入りて樹木を伐採すれば現在の如く樹木の繁茂すべき筈なし、畢竟蟇沼四ケ村に於て、年来之を仕守せしを以てかく生育せしものに外ならず、又該地は木綿畑(外)四ケ村の入会地なりと主張すれども、曽て往来せる道路なきは、日常出入せしものではない。
以上の理由により原告の申立相立たすと申渡され、更に奉行所は被告に対し実意を以て相手方と和談すべきやう説諭せられた。原告湯宮村方は直に早飛脚を立て村役人を呼び上げ熟談するため、十九日の日延を申込んだ。
万延元年(一八六〇)八月、山口丹波守直信より、関谷村又右衛門に対し、至急出頭すべしとの差紙到来した。
藩は十六日蟇沼村弥右衛門、杉戸(折戸)村善蔵に証処書類を携へ、又右衛門と倶に出府せしめた。又右衛門に入用金七両、善蔵に三両を交附した。翌二年六月に至り、原、被両造(双方)熟議の結果内済することとなった。ここに於て五ケ年に亘って相争った境界争も、ここに円満に解決した。和解条件次の如し
一、蟇沼村境杭より西方十二間三尺の地点は湯宮村方にて自由たる事
一、大工岩より下方は蟻塚に取附ける
依て境界図を作製して証書の取替はしをした。
九月藩は蟇沼川原に生育する松樹の本数調査の為郡奉行程島貢、御目付落合喜右衛門、代官北条与惣右衛門、勘定役相山羊三等を出張せしめ、双方との取得分を決定し、之を内済図面に記入して幕府に提出した。
十月五日藩は今回係争事件の功労を録し、郡奉行江連幸三郎、同程島貢、同岡麻之助、代官渡辺惣左衛門以下十人に対し、永年格別に丹精を尽して利連の和談を遂げ、満足の趣を以て銘々加増目録を与へ賞賜した。又蟇沼村弥右衛門、関谷村又右衛門は尽力大儀の旨を以て永代蟇沼村林の中二万五千坪を賜い、また往来役を免ぜられた。蟇沼村弥右衛門、重五郎、吉兵衛、三右衛門、源太郎等は訴訟中数々江戸に出で、或は諸事出精せし廉を以て永々組頭格を命じ、村高のうち年貢一石づつ免除を仰付けられた。
八月二十日飯原等信州より帰府し、九月四日両人江戸を出発して大田原に来り、九月十二日係争地を検分した。
同七年八月に至り、江戸奉行所より、原、被両造双方出頭すべき旨を達せられたので、我藩は関谷村名主又右衛門附添、蟇沼村組頭弥右衛門、折戸村善蔵等を出府せしめた。九月十日御留役石原准之助の係で審理が行はれ、原、被一人づつ椽先に進み出で、去年幕府見分の係争地絵図面につき申立をなさしめた結果は、木綿畑方申立の八宝沢前旧川除跡並寺方用水等は採用されず、又四ケ村入会につき、去年、実地検分の際、特に提出を命ぜし書類を差出さず、別種の書類を提出せしは不行届なり。又該係争地が果して木綿畑外五ケ村の入会地ならば村民等は平素自由に立入りて樹木を伐採すれば現在の如く樹木の繁茂すべき筈なし、畢竟蟇沼四ケ村に於て、年来之を仕守せしを以てかく生育せしものに外ならず、又該地は木綿畑(外)四ケ村の入会地なりと主張すれども、曽て往来せる道路なきは、日常出入せしものではない。
以上の理由により原告の申立相立たすと申渡され、更に奉行所は被告に対し実意を以て相手方と和談すべきやう説諭せられた。原告湯宮村方は直に早飛脚を立て村役人を呼び上げ熟談するため、十九日の日延を申込んだ。
万延元年(一八六〇)八月、山口丹波守直信より、関谷村又右衛門に対し、至急出頭すべしとの差紙到来した。
藩は十六日蟇沼村弥右衛門、杉戸(折戸)村善蔵に証処書類を携へ、又右衛門と倶に出府せしめた。又右衛門に入用金七両、善蔵に三両を交附した。翌二年六月に至り、原、被両造(双方)熟議の結果内済することとなった。ここに於て五ケ年に亘って相争った境界争も、ここに円満に解決した。和解条件次の如し
一、蟇沼村境杭より西方十二間三尺の地点は湯宮村方にて自由たる事
一、大工岩より下方は蟻塚に取附ける
依て境界図を作製して証書の取替はしをした。
九月藩は蟇沼川原に生育する松樹の本数調査の為郡奉行程島貢、御目付落合喜右衛門、代官北条与惣右衛門、勘定役相山羊三等を出張せしめ、双方との取得分を決定し、之を内済図面に記入して幕府に提出した。
十月五日藩は今回係争事件の功労を録し、郡奉行江連幸三郎、同程島貢、同岡麻之助、代官渡辺惣左衛門以下十人に対し、永年格別に丹精を尽して利連の和談を遂げ、満足の趣を以て銘々加増目録を与へ賞賜した。又蟇沼村弥右衛門、関谷村又右衛門は尽力大儀の旨を以て永代蟇沼村林の中二万五千坪を賜い、また往来役を免ぜられた。蟇沼村弥右衛門、重五郎、吉兵衛、三右衛門、源太郎等は訴訟中数々江戸に出で、或は諸事出精せし廉を以て永々組頭格を命じ、村高のうち年貢一石づつ免除を仰付けられた。
(人見伝蔵大田原史稿)
以上原文のまま記した。但しこの稿の出典はいずれであるのか未だに不明である。なお文中括弧の部分は岩瀬氏が訂正補筆したものである。
まずこの稿文を読んでみると数か所の誤りと、大田原方をいささか正論化したと思われる部分があることに気づく。
誤りの第一は安政二年(一八五五)に問題勃発、直ちに裁判沙汰となったとした点である。裁判沙汰となったのは安政四年(一八五七)八月で、以後万延二年(一八六一)まで四年にわたった裁判沙汰である。
第二は始めの部分に原告を蟇沼村としているが、原告は木綿畑村ほか三ケ村の天領側で、その訴状に対し蟇沼村よりの返答書提出を奉行所から命ぜられたものである。
第三は蟇沼村側勝訴(利運)となしているが、事実は天領側の主張が認められている。即ち蟇沼村境杭より西方十二間三尺の地点は湯宮村方で自由たる事として示談書(内済書)が作られていること。
なお争いの起った場所の状況については、原告側文書にはかなり詳しく記してあるのに、大田原側のものにはほとんど記されてなく、しかも原告側では過去(寛永、万治期)の争論の際の絵図面に詳しく記されている証拠を提出しているのに、大田原側は過去の記録はほとんど無視して触れず、現在はこうだと主張するのみで、理はどうみても原告側にありと見なすべきであるように思う。
この争論はもちろん既述の那須西原、八木沢村と大田原町、石上村との秣場争論、大和久、赤瀬村と宇田川村との秣場争論、宇田川村ほか三ケ村と荻野目村秣場争論、奥沢村はか七ケ村と荒井村の水源地争論と同様、大田原側は過去の証拠物を無視し、藩が背景にあって領村の不法を強引に押し進めたとしか思えない節がある。
以上の争論の相手方はすべて幕府直轄領村と旗本領で、その支配者達は他に住し、村における仕事は農民中から選ばれた人々が行なっており、問題が起こればいちいち領主のもとに馳せつけて指図を受けねばならなかった。幕府直轄領の場合は文化、文政期約二十年間八木沢村に代官出張陣屋が置かれたほかは、すべて真岡代官所に伺候してその指示を受けなければならず、また旗本達はすべて江戸に本邸を構えていた。
これに比べ大田原の場合は直ちに藩より役人が出張、あらゆる面から領村の応援をしていたもので、この山林境界争論の場合でも一切の書類準備、さらに村代表者の旅費、さらに幕府係役人に対する挨拶まで藩において行なっている。
幕府直轄領村や旗本領村の場合には、書類の作製などすべてを自分の手で行なわなければならず、また藩では時には武力行使にも及ぶ威嚇行動さえとっていたことは、裁判が必ずしも公正に行なわれたとはいいがたい点も考えられる。
この山林境界争論についても、幕府役人は一応非は大田原側にあることは承知していたものであろうが、荒井村と八ケ村水源地争論の場合と同様、明らかに裁断を下さず、一応大田原側の顔を立てる形で示談をすすめ、ここに示談成立となったものである。
なおこの地域における寛永期、万治期争論の際の状況の一部を証するものに次の文献がある。ここは四か村と蟇沼村との争論のほか、宇都宮領村(塩原町、門前、上、中、湯本の村々)との境界争論(寛文十二年、一六七二)があり、その際の文書である。
下野国那須領湯宮村、鴫内村、木綿畑村、百村と同国宇都宮領門前村、上村、中村、湯本村山論之事
万治三年湯宮村、鴫内村、木綿畑村、百村と関谷村、引沼村山論之節那須領四ケ村依為理運絵図之面境目評定所出座之面々加印判令裏書下置之山境分明之処今度門前村、上村、中村、湯本村之者境ヒ越猥入候事不届也 然共右山中従此方掛ケ候小屋有之由宇都宮領之者申之付而為見分中山茂兵衛、御手洗伝左衛門御検使被 仰付候右両人双方百姓召寄於江戸先遂穿鑿之処小屋之跡は有之候得共小屋無之候 其上先年被下置之絵図之面境目分明有之処私之了簡を以非分之儀申出迷惑之由宇都宮領之者書付差出之候然者不及見分各相談之上為過怠頭取門前甚兵衛籠舎申付之候
為後鑑如此証文双方江遣之就 但先絵図裏書共写之宇都宮領門前村江相添渡置之条向後山境守之永不可違失者也
為後鑑如此証文双方江遣之就 但先絵図裏書共写之宇都宮領門前村江相添渡置之条向後山境守之永不可違失者也
寛文十二壬子年七月四日
又兵衛印
内蔵
猪右衛門
出雲
大隅
長門
伊賀
山城
内膳
但馬
大和
美濃
(黒磯町穴沢高根沢久一文書)