第二節 練貫村と三本木村(黒磯市)の山林争論(幕府直轄間の争)

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 両村とも元那須家領であり、前記のように寛永十九年(一六四二)七月幕府領となり、明治維新に至った隣接の村である。問題の起りは三本木村の百姓宇右衛門が、自分の所有地であるといって税負担(山役永納)をしていた山林の木を伐り、これを売却したのを、練貫村では、不当であるといって宇右衛門及び三本木村に談じこんだが、埓が明かず、これが裁決を幕府に訴え出たもののようである。
 問題に関しての詳しいいきさつは、これに関する文書がまだ発見されず不明であるが、近郷村々の代表仲裁人(扱人)によって示談が成立している。
 
 為取替申内済証文事
一 去十一月中練貫村惣代 名主六郎左衛門より三本木村役人并百姓宇右衛門へ相掛り
 木立成場橋掛山と唱候場所宇右衛門売木致候ニ付奉出訴御差紙頂戴相附双方御召出之上訴訟方江論所絵図面被 仰付尚又三本木村へ懸絵図被 仰付追々御吟味中之所極月近相成帰村被 仰渡一同帰村仕候処
扱人立入双方得と承候処相互申争候段 御上様□□ニ相掛候茂恐入候儀ニ付双方江異見差加候処何分ニも悲分ニ不相成候ハハ済事も可致旨ニ付扱之趣意として宇右衛門方より金拾弐両弐分扱人貫請練貫村代趣意方扱人ヲ以買請右金相渡論所山の儀は宇右衛門先規より持来之山ニ付山役永上納仕候間是迄之通り違乱無之尚又文化地捍絵図面も有之候儀ニ付村境は絵図面之通り相心得可申候且双方申争続合之儀は扱人貫請得と熟談内済仕候上は向後毛頭違乱無之候依之訴答扱人一同連印之済口証文為取替申処如件

        天保六未年正月
                                 練貫村役人惣代
                                  名主 六郎左衛門印
                             訴訟方  組頭 差添人 徳三郎印
                             相手方 三本木村
                                    宇右衛門印
                             同    名主 藤左衛門印
                             同    組頭 文右衛門印
                             扱人  大原間村
                                  組頭 治兵衛印
                             同   寺方村
                                  養田主税亮印
                             同   片府田村
                                  名主 取締役 輔左衛門印
(富池岩瀬家文書)

 これで見ると問題は天保五年(一八三四)十一月、三本木村百姓宇右衛門が橋掛山といった山林の木材を売却したのに対し、練貫村総代六郎左衛門がこれを不当なりとして、三本木村役人並びに宇右衛門に掛け合ったが埓明かず、ついに出訴、幕府評定所より呼出しを受け(差出頂戴)出府、双方へそれぞれ論所絵図面の差出しを命じた。そのうち暮れ間近となったため帰村、そこへ仲裁人が立入り示談(済事)をすすめた結果、宇右衛門は金拾弐両弐分を出し、これを仲裁人が預かり、その金で仲裁人が練貫村より買い受けたことにし、また場所は宇右衛門が所有していた山林であるということにして、絵図面を作製し村境を明確にすることによって話合いがつき、ここに示談成立となったものである。
 なお仲裁人は大原間村、片府田村(共に幕府直轄領)代表者、寺方村は大田原領ではあるが仲裁人は近郷の神社(五十余社)の仕守をしていた中立的立場にあった神官である。
 この争論がこのような解決をみるに至ったのは、領主は共に幕府であり、そこには領地を争う要は全くなく、ただ村々間の問題として扱えばよかったことによるもので、前者とはその性格が異なっているところにある。ただし、この解決条件に宇右衛門の所有地と認めた土地の木を、宇右衛門が金を支払って買い受けた形になっているのはいささかおかしい。これは両村境界不明地であったために起ったもの故、このような形にして解決したものであろう。もし領主違いの村々の問題であったなら、このような解決など到底ありえなかったであろう。