第三節 宇田川村と荻野目村の境界争論

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 これは前記の四か村と荻野目村争論に付随して、宇田川村と荻野目村間に起った争いである。荻野目村と四か村との問題は、法廷での争いとはならず示談が成立して円満な解決をみたのであったが、この方は宇都宮の裁判所で争われることになった。原告宇田川村訴願の趣旨は前とほとんど同様である。
 
    明治五年荻野目村境界論訴状
 
  乍恐以書付奉訴訟候
        第六大区拾壱小区
               那須郡宇田川村
                   原告
                    惣代 阿久津幸造
                    伍長 藤田利平
      第七大区三ノ小区
             那須郡荻野目村
                  被告 手塚兵右衛門
                  〃  手塚浅右衛門
                  〃  千本喜右衛門
 右訴訟人阿久津幸造奉申上候今般地券取調ニ付境界相改メ取調可奉書上旨被仰付村内之義ハ那須遠江守領分之砌り延宝二年同領十二ケ村一同秣場出来訴答立会之絵図面被仰付双方被召出厳重御利解之上那須領之分ハ大田原領野へ入会不相成旨被申渡其節絵図面御墨筋ヲ以領分境聢と御定被成下置然ル処尚又延宝四年御検地之上私共村方外四ケ村入会秣場ニ被仰付別紙絵図面へ御書添ニ相成沼村小種島村三色手村荻野目村宇田川村右五ケ村ニ而年来入会仕来候処今般地券御取調ニ付相手荻野目村へ談事及候処別紙絵図面境界御墨引ヲ相背キ彼是申紛シ何分談事難行届ニ付無拠村惣代伍長方へ厳重申参り証書等有之候ハハ披見致度旨申候処右証拠等無御座候得共五ケ村入会来長峰六間土手よりかけすどやト申処へ見通し之由荻野目村ニ而ハ申之左候而ハ私村方御高請荒畑并屋敷跡迄元大田原領へ被掠取候様相成〓と差支候ニ付無余儀両区正副戸長立会之上両村境界相改メ等ト双方共遂示談可申旨被申付然ル処荻野目村ニ而ハ村内外四ケ村入会中ニ同村飛地有之ヲ以疑惑致彼是不取留之義而巳申募終ニ示談不行届乍併別紙絵図面之通り境界之義ハ墨筋ヲ以御裏書之上御下ケ相成居候義ニ候ヘハ別而六ケ敷義有之間敷義ヲ只々己之慾心ニ迷ひ両村境界として従前より小堀并ニ右中へ塚築建有之候て申争候謂無之義ヲ彼是申紛シ居候間以御慈悲ヲ右被告荻野目村手塚兵衛門外弐人御召出し被成下置御理解被仰付候様偏奉願上候以上

         明治五申年十一月十九日
                                 右村惣代 阿久津幸造
                                   伍長 藤田利平
         司法権少判事 南部甕男殿
         前条訴訟申上候ニ付奥印仕候也
                                右区戸長 印南丈作
(宇田川文書)

 訴願を受けた宇都宮裁判所は原告被告に対し、明治五年(一八七二)十一月十九日次のような呼出し状をよこした。
 
  如斯訴出候間被告返答書持参来ル廿四日第九時双方召連可罷出もの也
                               宇都宮裁判所
                                   原告人 阿久津幸造
        壬申十一月十九日                   差添人 藤田利平
                                   被告人 手塚兵右衛門
                                     〃  手塚浅右衛門
                                   〃  千本喜右衛門
                                   右村役人
(宇田川文書)

 
 呼出しを受けた原告は当日次のような代理人変更の届け出をし、被告荻野目村代理人は原告訴願の趣旨に対し次のような返答書を差し出した。
 
   乍恐以書付奉申上候
第六大区十一小区那須郡宇田川村阿久津幸造、親類伍長藤田利平奉申上候 今般同郡荻野目村手塚兵右衛門外弐人へ相掛り候一件今日御召出ニ付可罷出之処右幸造義持病之病気相発シ歩行難相成依テ私義代人ニ罷出候処相違無御座候然ル上ハ御尋之簾々逸々御答可申上候 且取切申上候事柄当人ニ於テ異儀無御座候此段以書付御届奉申上候以上

        明治五申年十一月廿四日
                                  右   藤田利平
     宇都宮御裁判所                      差添人 田村直三郎
  荻野目村返答書
   乍恐以書付御返答奉申上候
第六大区十一小区宇田川村惣代阿久津幸造御訴訟申上候ニ付返答書持参可被出旨奉畏候 宇田川村此度奉願候文通甚タ難心得義ニ御座候私共村方小村ニ而訴訟等之義ハ以之外迷惑之義素より先方ニ而私共村方田畑林等御墨筋之外ニ有之分ハ宇田川村地ニ付林ハ伐払秣場ニ致候共両村ニ而永納ハ致両村持ニ差出ニ可致田畑ハ往古之反別丈ケ荻野目村飛地ニ取其儘差置其余ハ宇田川村ヘ差出可申杯と申掛ケ右ハ飛地ニハ無御座畑続ニ相成居往古ヨリ村高反別之場所故私ニ増減可相成地ニ無御座別而御墨引之義ハ領境御墨引ニも無之入会秣場内野外野御墨引迄奉存候其証御墨引ニも外ニ続而当村田畑多分有之村高反別ニ御座候然ルヲ可掠取申掛ケ故無拠戸長立会ヲ以改候得共右田地林増減仕候義ニ而ハ高反別上納迄相違仕候義ニ付私ニ示談難相成戸長中より申聞有之高反別ニ不拘様示談可致旨被申付何レニ而も可致心得ニ御座候得共先方ニ而ハ当村反別之内破リ秣場ニ致候共差出ニ致候とも不致候而ハ示談不相成向故無拠示談不行届罷在候 先方理ヲ付御訴訟奉申上候義ニ付私共村方ニ而ハ往古より持来候田地林持高之通所持仕居御上納罷有候得ハ別ニ申様無之義と存候 右之御墨引外何方ノ地元ニ御座候哉御見分ニ相成候得ハ相分リ候義旧領境等之義ハ私共村方ニ而御構可申筋無御座都而私共村方ヲ慾心ニ迷ヒ申募り杯と埓も無キ申分ニ御座候 只々至極示談相好田畑林御水帳之通り所持致居是迄之通相成居候得ハ別ニ申分無御座候篤と御糺被成下置所持之田畑林被掠取不申様仕度奉願上候 初発より何方ニ而申掛ケ何方ニ而可掠取争候哉御立会相談候正副戸長中委細御承知之義故御取糺被成下置速ニ帰村相成農業相成候様偏ニ奉願上候 此段以書付御返答奉申上候以上

        明治五申年十一月廿四日
                               右被告人 手塚浅右衛門
                                     千本喜右衛門
    宇都宮御裁判所
        南部司法権少判事殿
   前書之通返答書差上候間奥書印形仕候也
                               右戸長
                                  山口利三郎
 
 荻野目村返答の内容は次の通りである。すなわち宇田川村惣代阿久津幸造の訴えに対し、返答書を差し出せというので御返答申し上げます。宇田川村のこの度の願い事は甚だ心得難く、私共の村は小村のこと故訴訟事など以ての外、甚だ以て迷惑至極、先方では私共村の田畑や林まで境筋(御墨引)の外にあるところは、宇田川村のものだから、林を伐り払い、そこを草刈場(秣場)にしても、税(永納)は両村持ちで差し出し、田畑はずっと昔の荻野目村分反別だけが荻野目村の飛地に残し、後は全部宇田川村へ差し出せといっているが、そこは飛地ではなく荻野目村の畑続きの場所であり、昔からそこは荻野目村で税負担をしてきた土地で、勝手に増減すべきところではない。なお境筋は領分境にもなく、そこは内野、外野の境筋に過ぎません。その証拠には、境筋外の所にも荻野目村の田畑があり、この所は税も納めている。それを私共が掠め取ったなどと申し立てていますが、戸長立会で改めてみたが、その部分を除いては税負担地の反別が違ってしまいますので、先方のいうとおりうっかり示談にすることはできません。戸長からは税負担の土地に関係ないように示談にしなさいと言われましたが、先方が私共の村の反別を秣場から除くか、あるいはそのまま自分達のものであることを認めてもらわない限りは示談にすることは絶対にできません。先方がいろいろと理屈をつけて、私共が昔から持ってきた田地、山林、税を負担してきた土地を今更かれこれ申しますが、それは墨引(境目)の外のどこなのか、実地に取調べていただけばわかることであります。そして旧領境目(大田原領と旗本領境)についても私共が「云々」すべき事柄ではないのに、私共が欲心に迷ったなどと言い掛りをつけるなどはもっての外であります。私共はただおだやかな解決を望んでおり、従前通り田畑、山林など土地台帳(御水帳)のとおり所有することができればそれ以外は何の申し分もありません。どうか充分御調べの上私共が先方の土地を掠め取ったなどと申しませんよう、どちらが言い掛りをつけ、どちらが掠め取ったものであるかは、立会の正、副戸長がよく承知しておりますので、十分お取り調べ下さって速やかに村に帰って農業ができるようお願いをします。右書付をもって御返答申しあげます。このような返答書を戸長山口利三郎奥書捺印の上裁判所に提出した。
 この争いはその後一か年半続き、明治七年(一八七四)五月八木沢村国井謹平が扱人となってようやく示談が成立した。示談の内容は次の通りである。
  内事済口証書
   為取替申一札之事
宇田川村と荻野目村境界不分明ニ而地券証絵図面難認無余儀宇都宮御裁判所南部甕男殿へ宇田川村原告致候処則荻野目村御呼出し相成双方深和談可致旨被申聞帰村致村境并ニ旧証秣入会御墨引ヲ素而して被告之地内有之候田反別と旧御墨引之間芝地九反六畝ハ双方秣入会夫より西且御墨引と生荒畑反別之間ニ元かりしき山と相唱此度宇田川道上ト相改候場所ハ旧御領主へ木立反別ニ書上税地ニ相成候旨被告申之原告ニ而ハ先年御裁許絵図面ニハ有来田畑其儘差置新開新林不可致旨木立反別ニ書上候簾旧証ヲ反古ニ付再訴可致旨及断候処扱人立入聢と勘弁致候処被告地元ニハ候得共全新反別之義発明致山反別壱町弐反歩之所地境ヲ立尤木品伐取立木之義ハ地元勝手次第下草落葉等ハ原告宇田川村と地元入会可致旨被告申之且宇田川村ニ而も木立相成迄差置候廉茂勘弁以上之右八反歩税地へ下草落葉入会相成候且ハ右税として年々金弐銭ツツ地元へ差出し可申旨示談行届双方聊無申分村境之義も相方熟談して地券絵図面書上之通致確定候上ハ譬如何様之義出来候共右地所ニ付相互ニ民情ヲ尽し毛頭違論為無之為取替申証書如件

                               第三大区六小区
        明治七戌年五月                     宇田川村
                                    原告 藤田利平
                                    〃  阿久津茂一郎
                                    〃  田村直三郎
                                    〃  菅谷定平
                               第三大区七小区
                                    荻野目村
                                    被告 千本喜右衛門
                                    〃  手塚浅右衛門
                                    〃  手塚伝吉
                                    〃  手塚兵右衛門
                               第三大区六小区
                                    八木沢村
                                    取扱人国井謹平
 
 この示談内容は宇田川村と荻野目村の村境不分明のため地券交付に支障があり、宇田川村ではこれが解決方を宇都宮裁判所に訴え出た。裁判所は被告荻野目村代表者を呼び出し、両者は和談をするように申し聞かされ帰村し、旧証拠の境記しをもとにして、境記しの間の芝地九反六畝は双方の入会秣場とすること、それから西の元「かりしき山」といい、今度宇田川道上と改めた場所は、荻野目村が木立の場所として旧領主(大田原藩主)への税の負担をしていた所であると主張し、宇田川村ではもとの絵図面に新しく開発や木立場所はつくらないことに定められている所であるから、荻野目村の主張は容れることはできないと主張し、両者の意見は全く対立して再び訴訟を起しかねない有様であったので扱人が仲に入ってよく話し合い、山反別壱町弐反歩の部分の立木は荻野目村で勝手に伐採し、下草、落葉については両村の入会とすること、なお宇田川村では立木になるまで、そのまま放置しておいたことは大変な落度であるから、右の八反歩の下草、落葉採取料として年々金貮銭宛を荻野目村に支払うことを条件として示談が成立した。また村境の件については双方でよく相談した結果絵図面を書き改めて確定し、以後どのような理由があっても右の地所については一切異論は申し述べないことを約束して結末とした。
 ふり返ってみると、この問題の発端は、延宝(一六七三~一六八一)の頃には土地に対する関心の度もあまり高くはない、しかも荻野目村領主大田原氏が、延宝期の裁決事情をあまり重視しないでその土地に税を課していたのか、あるいは延宝期の裁決を知っていてなお故意に課税をしたのか、また一方宇田川村でもこの争いの前は、この土地を荻野目村で開墾して、畑にしたり、山林もほとんどそのまま放置しておいたが、明治になってからは従来とは違った土地の価値観が生れ、初めて事の重大さに気付き、争論となったものではなかろうかと思う。
 以上のほか、この地域内では数々の秣場争論があり、明治政府は広大な那須野ケ原の開墾を国家事業として企図したこともあったが、なかなか思うに任せず、ことに財政的困難はこれを民有地化による開墾方式に改めなければならなくなった。
 このことを知った明治政府の顕官達は、自己の私有地化を図る好機として、関係町村の所有権放棄を働きかけ、一般部落民に対しては経済的価値は低くしかも多額の税負担を要することを説き歩いた。
 各部落の一般の農民達は、わずかな戸数で広大な秣場の必要は認めず、土地の経済的価値と税負担の困難さとを考えついにその所有権を放棄してしまったのである。政府は直ちにこれを官有地化すると、ほとんど時を同じうして要路の人達はこの土地を開墾を条件とする官有地の払い下げに成功し、広大な私有地を保持するようになったのである。しかも彼らは開墾の期間は極めて長く、その間は無税を条件としている。これが鍬下年限で、中には五十年鍬下年限のものさえあった有様である。
 那須野ケ原の開墾には明治政府の元勲者達の恩恵も幾多感ずるものではあるが何々開墾といわれる土地のほとんどは、かつてはこの人達の私有地の開墾を中心にして行われたものであるということができる。