第一節 旗本領下奥沢村ほか七か村と大田原領荒井村、舟山村、明宿村との争論

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 これは大田原領荒井村の者が、新堀を堀り、従来からの天領新宿村、鹿畑村、旗本領倉骨村、上蛭田村、下蛭田村、蛭畑村、下奥沢村、佐良土村の農民が、水田の灌漑用水としていた真木川(巻川)の水を自分達の村に引き入れたために起った争論である。その史料としては次のものがある。
   差上申一札之事
一 下野国那須郡下奥沢、鹿畑、倉骨、新宿、上蛭田、下蛭田、蛭畑、佐良土八ケ村訴上候ハ沼野田和、木曽、寺方三ケ村出水船山村ニ而落合夫より用水堀筋有之往古より八ケ村用水ニ引来候所去ル子三月同郡荒井村より右堀筋江高六尺余之新堰築立新堀を堀、水引取候ニ付八ケ村用水不足仕候荒井村ハ戸野内村出水を岡沢堀より真木川越ニ箱樋を以引来用水不足無之候間新堰取払新堀埋候様為致度旨申上之候

一 同国同郡荒井村答上候ハ荒井村用水ハ前々船山堀より引来荒井、明宿、寺方、松原、吉際、竹之内、船山七ケ村之用水限候間去ル子暮荒井村ニ而堀修覆堀浚仕候を新堰新築と申立候 八ケ村ハ箒川蛇尾川中川を堰上殊ニ町井沢之出水を溜置用水十分ニ引請候 扨又沼野田和、木曽、寺方三ケ村出水八ケ村江引来候段申上候得共沼野田和出水ハ夏之内ならては出水無之木曽村ハ出水少ク寺方村は水筋違候故右三ケ村出水ハ不足之用水にて殊ニ船山堀江不落合候得者旁以右用水路訴訟方ニ而引取候儀無之候荒井村用水ハ前々より岡沢水引来候得共真木川満水之節箱樋押流定水ニ而無之候故船山堀用水引取不申候而ハ田地及亡所候旨申立之候右出入立合絵図面ニ而御決難被遊ニ付御代官堀江清次郎様、大塚彦六様両御手代被遣場所御改之上去ル子年船山村地内四百七拾間余之古堀を浚三百三拾間余堀廻候旨荒井村十分難立右掘廻し之分新堀ニ相決候故埋潰并論候上之堰高分量に御拵被遊去ル丑年六月御裁許有之双方御請証文差上事済候所荒井村之もの共船山堀残水を同村内字阿連のより荒井中堰之井筋江落度と申義ニ付猶又双方及異論候ニ付御代官大草太郎左衛門様、泉本儀左衛門様両御手代被差遣再応場所御糺明之所訴訟方申上候沼野田和、木曽、寺方三ケ村之出水船山村ニ而落合夫より八ケ村用水引来旨申上之相手方ニ而ハ右井筋船山堀之儀は荒井、明宿、寺方、竹之内、松原、吉際、船山用水限候所近年出水少ク寺方、竹之内、松原、吉際、船山五ケ村田方三拾町歩余畑成出来候旨相手方雖申上之候右五ケ村田方之義ハ前々木綿畑用水ニ而養来候所四十ケ年以前上ケ口悪敷難引取ニ付畑ニ成致段無相違荒井村は右町歩之外ニ候之ハ木綿畑水之由縁茂無之且岡沢用水之儀真木川(巻川)越ニ箱樋を以引取故不常之用水と荒井村申上候得共水先丈夫ニ而古来より荒井村相続之用水路ニ無紛答候故ニ八ケ村は川々を堰上其外所々出水有之旨相手方申上ニ付場所御改之所箒川さひ川中川より之堰水難有之候 八ケ村之田方弐百町歩余之内弐拾町歩余之段下り江計引用勿論池之御前町井沢丹波沼西沢前之沢糸沢だこ沼二本松鷹巣沢等之出水有之候得共土地之高候或ハ領越之違ニ而水乗兼候田場有之旁々以船山堀之用水無之候而ハ八ケ村田地相続成兼候段訴訟方申趣無紛扨又明宿村堰より往遷(ママ)道迄八間之所中郷江通候本堀筋ニ無紛相手方申分難立且又訴訟方の者共之儀茂荒井村ハ前々より岡沢出水引来舟山堀より之用水路無之所新堀を掘水末岡沢堀へ流捨往古より水筋有之様ニ申成候ニ付荒井村江対新堀堰と心得候旨最初申上候得共八百間余之所不残新堀と訴上候段ハ訴訟方心得違答候 又此度荒井、舟山申上候は最初論候上之堰場ハ前々荒井舟山組合堰ニ而舟山之残水同村阿連のより荒井中堰より之井筋中程江堀筋有之故を以古来之通水落度旨申上候得共訴訟方より申上候ハ此上舟山村ニ而田作致候ニ付而は上之堰高何程堰上候共残水を舟山村内字きりの木田より舟山堀江落し候得は中郷江之順水有之候得共荒井中堰之井筋江落通而ハ段下り之地所故是又捨水ニ相成難儀之旨申上候ニ付遂吟味候所相手方申立候阿連のハ不残畑場にて字久保畑横際より長弐百四十間余之内四十間の堀形を以荒井江之堀筋と申上候得共弐百間余ハ悉畑寄ニて堀形一切無之上ハ去〻丑秋荒井村より浚度と申上候儀無謂舟山村きりの木田ハ田請之地所有之当時芝地之内五十間余之堀形有之上ハ前々水落候儀無紛其上論堰之儀も荒井舟山組合堰と申証拠決而無之旁以阿連のより舟山之残水引取度と申上候段相手方申分難立答候 扨又荒井村中之堰并明宿村堰之儀者両村手洗水ニ而用水時ニ者不遣堰場之旨訴訟方申上候得共是又証拠一切無之ニ付申分難立候依之ニ仰渡候ハ船山堀訴訟方八ケ村之用水ニ無之并明宿堰より往還へ八間之所悪水吐ニ掘候地之儀且上之堰荒井舟山組合堰ニ而舟山村内字阿連のより荒井中堰より之井筋中程江残水落度と申事等相手方申分難立并荒井中之堰明宿堰之儀者両村手洗水之由訴訟方雖申上候是又申分難相立ニ付上之堰高高分量之儀者舟山村内堀筋ハ水乗候程を考舟山村勝手ニ堰上残水之儀ハ他村ハ不洩不残字きりの木田芝間之内五十間余之古堀を掘足し舟山堀中堰之上へ落し且舟山村内右堀筋当時畑寄之所壱畝歩余も右掘足堀之敷地ニ相成り而訴訟方八ケ村并荒井村都合九ケ村より地代永壱貫文舟山村江相渡し勿論舟山村之儀者悪水吐之儀ニ付右掘足堀敷地之年貢ハ以来舟山村納之尤荒井村ハ中之堰より古来之通用水引取堰高之儀ハ此度再地改御手代中御改之節双方立合打置候土手杭際へ同並ニ石ニ而地杭打添堰枕木之儀茂石ニ而仕立右地杭頭より堰枕木石上場迄壱尺弐寸三分低ニ荒井村より仕立之明宿村堰之義も是又右改之節打置候土手地杭江石ニ而地杭打添枕木茂石ニ而仕立地杭頭より堰枕木石上場迄壱尺九寸六分低ニ明宿村より仕立勿論上中明宿三ケ所之堰共双方村々立合無異論仕立之并舟山村内きりの木田より中堰上之堀筋浚候人夫入用等は双方并舟山村より出夫水通り不差支様掘立以来双方致和融及異論間敷旨ニ仰渡候趣双方并舟山明宿一同逸〻奉承知聊以違背不仕被仰渡之趣急度相守可申候若此上ニ茂相背及出入候ハハ何分之御科ニも可被仰付候

  為後証双方并舟山明宿弐ケ村共一同連判差上申所仍如件
 
        延享四卯年(一七四七)四月廿五日
                            木村雲八御代官所
                                野州那須郡鹿畑村
                                    名主 以左衛門
 
                            久世金五郎知行
                                  同郡下奥沢村
                                    名主次郎右衛門代
                                     百姓 六右衛門
                            同人知行
                                  同郡佐良土村
                                    名主 次郎左衛門
                            松野孫左衛門知行
                                  同郡新宿村
                                    名主 久右衛門
                            倉橋三左衛門知行
                                  同郡上蛭田村
                                    名主 喜惣右衛門
                            浅井吉次郎知行
                                  同郡下蛭田村
                                    名主 元右衛門
                            花房平左衛門知行
                                  同郡蛭畑村
                                    名主 忠蔵
 
                            大田原出雲守領分
                                  同郡荒井村
                                  相手方
                                    名主 権兵衛
                                    〃  勝兵衛
                            同人領分
                                  同郡舟山村
                                    名主 六兵衛
                                    組頭 弥左衛門
                            同人領分
                                  同郡明宿村
                                    名主 甚兵衛
                                    組頭 彦兵衛
 
       御評定所
(富池、印南覚四郎文書)

 
 この争いのまき川水源地は黒磯市沼野田和、木曽、大田原市富池で、富池舟山、荒井、中田原、上奥沢、奥沢、鹿畑、倉骨、上蛭田、下蛭田、蛭畑地内を流れ箒川に合流している。この河道沿線の天領、旗本領の村々はほとんどこの河水によって水田耕作を行なっており、従ってこの水利権確保は彼等にとっては生死に関する重要事でもあったのである。
 一方大田原領荒井村は戸野内村地内に湧出する岡沢堀の水を真木川(熊川)越に引き入れて村の西部地域に水田耕作を行なっていたもので、この真木川は前記まき川とはちがい、黒磯市百村地内から流出する山地の水が、黒磯市木綿畑新田、箕輪、波立、島方、下中野を経て、大田原市戸野内、富池境から荒井地内にでて蛇尾川に合流するもので、通常は水無川であるが、豪雨の時には氾濫して水害をおこしかつては利用価置のない川であった。
 荒井村では前記の岡沢堀だけでは、作付可能な水田はわずかなものなので、まき川の水の利用を考えたものか、あるいは前々からそれを利用していたものか、ここに問題のおこった原因があったようである。この争いの原告側は前記のように天領、旗本領の各村であり、被告側は大田原領の各村である点から、その背後には各領主達のあったことも考えられるのである。
 この争いは延享元年(一七四四)に始まり延享四年(一七四七)四月二十五日に一応解決している。この間、原告側は始めのうちは領主の代理人をもって被告側と交渉したが、埓が明かないとみて、これを幕府評定所に訴え出た。評定所では係役人を派遣して、実地に見分させたが、両者ともその主張を譲らず、ことに大田原藩の強硬態度から不測の問題も起りかねないことを察知して、両者に和解をすすめ、前記文書のような示談成立となったのである。
 この示談書の内容は次のとおりである。
下野国那須郡下奥沢、鹿畑、倉骨、新宿、上蛭田、下蛭田、蛭畑、佐良土八か村が訴えあげますことは、沼野田和、木曽、寺方三か村の出水が船山村で落ち合い、それからは用水堀筋があり、昔から八か村の用水堀にいたしていたもので、それを去る子年(延享元年)(一七四四)三月同郡荒井村では、この堀筋へ六尺余(約二メートル余)の新しい堰を作り、新堀を堀ってこの川の水を取り入れたため、八か村の用水は不足をしてしまった。荒井村は戸野内村から出水の岡堀用水を真木川越に箱樋で引水をしており、水不足はないはずであるから、新堰を取り除くようにして貰いたいものである。と、
 これに対し評定所から返答を求められた荒井村では次のように答えている。
 荒井村の用水は前々から船山堀からの水を使用しており、荒井、明宿、寺方、松原、吉際 竹之内船山の七か村の用水もこれによっている。去る子年(延享元年)荒井村で前々からの堀の修理をしたのに原告側では、新しい堰、新しい堀と言っている。八か村は箒川、蛇尾川、中川(那珂川)の水を堰きあげ、ことに町井沢(奥沢と上奥沢の間)の出水を溜めおいて十分であるのである。なお、沼野田和、木曽(木曽畑中)寺方三か村の出水を八か村へひいていると言っているが、この水は夏の間はなく、木曽村の出水は極少々であり、寺方村は水筋が違うから右の三か村の出水は水田の作付には不足で、船山村へは落ち合っていなく、原告側がひき入れることなど、あり得ないことである。荒井村の用水は前々から岡沢水を引いてきているが真木川の洪水の節は、押し流されて定水とはなっていない。従って船山堀の水を使用しなくては潰田地(田地亡所)になってしまいます。
 と、申し立てた。
 そこで評定所では、絵図面だけではどちらが正しいかを決しかねたので、幕府代官所から堀江清次郎、大塚彦六の二人の代理人を遣わして場所改めをした結果、子の年(延享元年)に「船山村地内四百七十間余の古堀は堀さらいをし、三百三十間余を堀り廻らしたことは、荒井村の言い分は正しいとは考へられず、この分は新堀と認められるので埋めつぶすこととし、税負担田地に必要なだけの堰を作り引水をするように。」と、丑の年(延享二年)に裁決があり、双方とも請書を出してこの事件は落着した。
 ところが荒井村のものが、船山堀の残り水を同村字阿連(あれ)のから、荒井中堰の川筋へ落したいとの申し入れから、またまた双方の争いとなり評定所の手を煩わすような事件となった。
 代官所は大草太郎左衛門、泉本儀左衛門両手代をつかわして再び場所を取り調べたところ、原告側は沼野田和、木曽、寺方三ケ村の出水が船山村で落ち合い、それから八か村の用水として引いてきたと主張し、相手方は右の堀筋の水は荒井、明宿、寺方、竹之内、松原、吉際、船山用水であり、それが近年は出水が少なくなり、寺方、竹之内、松原、吉際、船山五か村の田三拾町歩余が畑となる始末であるといっているが、右五か村の田は前々から木綿畑中用水を用いてきたのに四拾年程前に水揚げ場所が悪くなり、そのため畑になったものである。しかも荒井村はそのほかのもので、これは木綿畑中の水に関係はなく、岡沢堀の水を真木川に箱樋で引いていたが、これは不定の用水と荒井村ではいっているがここは湧水十分の場所であり、昔から続けて使用していることに間違いはなく、そのため八ケ村は堰上げそのほか所々出水のある旨を相手方はいっているので場所をよく調べたところ、箒川、蛇尾川、中川より堰上げ場所が全くありません。八か村の田弐百町歩余のうち弐拾町歩余少なめに引用、また池之御前、町井沢、丹波沼、西沢前之沢、糸沢、だこ沼、二本松、鷹巣沢等の出水がありますが、そこからは八か村地内は土地が高く、または他領越のため水を引き入れることはできぬ田所であり、船山堀用水がなくては八か村の田を作り続けることできず、原告側のいうところに間違いなく、また明宿村への水筋は明宿堰からの水に相違なく、だから相手方の言い分は通らない。
なお荒井村は前々から岡沢出水を使用していたもので、船山堀を引き入れた用水路の古堀跡などなく、新堀を堀ってその捨て水を岡沢堀へ流し捨てにした昔からの水筋があるというにの対し、原告側は八百余間の堀跡全部が新堀だといっているのは原告側の心得違いであると答えた。またこの度荒井村、舟山村の申し上げているのは、ここは前々から荒井との組合堰で舟山の残り水を同村の阿連のから荒井の中堰へ引いた堀筋があり、そのため古来から通り水を落としたいと申し上げたが、原告側は舟山村で田を作るために堰上げ引水したものは同村きりの木田から残水を再び舟山堀へ落し、荒井村へ引き入れるのは捨て水にはならぬと主張、そこでよく取り調べたところ、相手方のいう阿連のは全部畑地、字久保畑横際より弐百四拾間余りのうち四拾間の堀形をもって荒井への堀筋だといっているが、弐百間余りは全部畑地で堀形は一切なく、去る丑年(延享二年)荒井村から堀浚をしたいといったことは理由のないことである。また舟山村きりの木田は田として税を納めた(田請)地所があり、当時芝地であったところにはたしかに堀形があり、前々には水を落していたことに相違がない。その上、荒井と舟山の組合堰などの証拠なぞ決してなく、さらには阿連のから舟山の残水を引き取りたい等の相手の言い分は立ちがたいと答えた。一方原告側で荒井村中の堰並びに明宿村堰についてはこれは両村の手洗水で水田用水に使ってはいないと主張しているが、これについては何らの証拠もなくこの申し分は立ちがたい。との言い分である。
これによって仰せ渡したのは舟山堀は訴訟方八か村の用水ではなく、また明宿堰から往還(奥州街道)へ八間の所悪水吐に堀った土地とその上の堰は、荒井、舟山組合堰で舟山村阿連のから荒井中堰よりの川筋へ残水を落としたいとの言い分は立てがたく、また荒井中の堰と明宿堰の水は両村の手洗水であるとの原告側の言い分も成り立たぬ故、税負担田地(高高分)に必要な水は舟山村内の堀筋水より引き入れ方を考え舟山村で自由に堰上げ、残水は他村へは出さず舟山村きりの木田芝地のうち五十間余の古堀を堀り足し舟山堀中堰へ落し、その上、舟山村内右堀筋畑寄りの所、壱畝歩余を堀り足し、堀の敷地として訴訟方八か村と荒井村の九か村から地代永壱貫文を舟山村へ渡すように、また舟山村ではこれは悪水を吐くこと故この堀敷地の年貢は以後は舟山村で納めなさい。また荒井村は中の堰から昔の通り用水を引き入れ、堰の高さはこん度場所改めの際双方立会で打って置いた土手杭のそばへ石で地杭を打ち、また堰枕木も石で仕立て、高さは枕木石上まで一尺二寸三分とし、荒井村にこれを作ること、明宿村堰も同様にし、高さは一尺九寸六分として明宿村で作ること、なお明宿上、下三か所堰とも双方立会の上、承知で作ること、舟山村きりの木田から中堰上堀浚い人夫及び費用は双方及び舟山村から人夫を出し、流れに差し支えないようにすること、以上の条件で今後は仲よくし、かれこれと争いを起こしてはならないと申し付けられ、双方並びに舟山、明宿一同早速承知し、今後、この申渡しを必ず相守ります。もし、この後、これに背いた場合はどのような科(とが)を申し付けられてもよろしい。後日の証拠のため双方並びに舟山、明宿二か村共一同連判を差し上げます。 以上の通りです。

 
 問題は以上の結末によって一応解決した。しかしこの問題を実地について検討してみると、原告八か村側の言い分が大体正しいことがわかる。第一に被告側はこの河川出水地は寺方村にはないといっているが、それは明らかに間違っている。即ち前記のように富池岩瀬家屋敷は元寺方村、その屋敷地内からの出水は明らかにその河川に合流している。彼等が水筋違いというのはやはり寺方村池の御前出水のことで、これをこのように言いくるめたものに過ぎない。また八ケ村用水は箒川、蛇尾川、中川の水を堰上げて使用していたとの主張もおかしい。蛭畑、佐良土地内では箒川、蛇尾川合流の水を使っていたと思われるが、他の村々ではそれによったことなど全くない。まして中川(那珂川)の水を使用するなぞ当時としては不可能に近い事で、なお役人の実地見分の結果から見ても、荒井村は昔から舟山堀の水を引き入れて使用していたとの主張も偽りごととしか考えられない。さらに舟山村「きりの木田」といっている土地は、当時は畑地で、この問題後きりの木田と称したものらしく、この辺にも疑いがある。
 しかるに判決に近いこの示談書の内容は、原告側の主張に対してあいまいに近い条件となっており、一方荒井側に対してはその言い分の正しくないことを判然とさせていない。ではどうしてこのような結末となったものだろうか。
 この荒井村は大田原氏が明応三年(一四九四)武蔵国よりこの地に来たり、最初に居館を構えた土地(荒井堀の内)で大田原氏にとって最も縁の深いところ、明治四年(一八七一)廃藩置県の際も領主大田原一清はここへ来て領民達と最後の別れを惜しんでいる。この荒井村の元部落は現在宿場状になっているところより西の方で、水田用水は岡沢(戸野内地内出水)の水を真木川(熊川)越しに引いて使用していたもの(これも原告側主張通り)、ところがこの真木川はたびたびの洪水を起こし、付近の田畑、時には家までも押し流す大害を与えており、ことに荒井村は最大の被害地であった。そのため部落も現在の場所へ移ったもので、その時期は未だ明確にはなし得ないが、大体、戦国末期より享保期にかけての期間らしい。この村の慶長期の村高は百四拾九石二斗八升(大閤検地帳写し――伊藤安雄氏蔵)であるのに、享保五年(一七二〇)にはわずか二拾八石壱斗九升(阿久津文書)となっており、これは洪水のため田畑が押し流されてしまったためであり、この時期に村の中心位置は現在の場所に変わったものではなかろうか。しかし現在も旧墓地や古い堂宇(観音堂)等は西部地区にある。
 このようにここはたびたびの洪水とそれに伴う真木川河川敷の拡大は岡沢用水の引用を困難にしたため、新たに舟山堀からの引水を計ったものであろう。
 一方八か村側は現在でもこの河水による水田耕作地がたくさんあり、江戸時代は全くこの河水による水田耕作がほとんどであったのであろう。そしてその河筋地内は常に水不足に悩まされ、ことに上奥沢、奥沢は深刻で灌漑期には村内にこれに関する争いが絶えなかった。元那須領であったこの地域は貞享四年(一六八七)十月以後、それぞれ天領または旗本領となり、一方大田原領であった荒井村、そして舟山、明宿の三ケ村間の争いとなり、その背後には各領主の争いが介在していたもののようである。
 幕府は前記のような八か村側の訴えを受けると、代官所から手代を出張させ実地見分を行なった結果、原告側の主張に理のあることを認め、彼等に勝訴の判決を下す形勢となった。これを知った大田原藩では、前記のように先祖ゆかりの地であることと、ともすれば幕府直轄地あるいは旗本領であることを笠に着た原告側農民達の態度に常々快よく思わなかった感情も加わり、最後の判決の下される実地見分の日、藩では出張役人を警衛することを名として、十五人の藩士達が抜身の槍を持って現場に馳せ付け、見分役人達を威嚇したと伝えられている(印南覚四郎氏ほか古老数人談)。このため幕府役人達も事の穏やかでないことを察し、前記示談解決となったものであろう。なお前記真木川(熊川)は明治期、大正期にも氾濫して荒井地内をおびやかしており、それを守るために今も長大な堤防が築かれている。