ここに記す争論は、同じ大田原領内である寺方村と鍛治内村との争いで、どちらも現在の大田原市富池地内である。
寺方村は江戸時代前期には既に前田、橋本、大道内、藪内、道宗内、滝原の六か村に分かれていた所であり、他方はかつては不宿といわれた部落がその後分村して松原、鍛治内、竹之内、吉際の四つの村となり(年代不明)江戸時代初期に鍛治村と竹之内村とが合併して竹之内村となった所である。
合併した寺方村は戸数は三十余戸、村高は四百八十一石三斗六升という大村であり、一方鍛治内村は戸数五戸、村高は竹之内村と合併後でも僅かに五十六石九斗八升八合であるから、合併前の鍛治内村はおそらく三十石前後の小村ではなかったろうか、このような大村と小村、しかも隣り合った村と村とのあいだにもこのような争いが起っているのである。
争いの内容はどのようなものであったかは不明であるが、争論水源地の池之御前は両村の境目にあり、湧泉の地域は水面が広く、池状をしていたためこのように名付けられたものであるといわれている。また湧き水は横側から樋でひいた部分と、底の方から噴き出したものとがあり、底部からの噴き出し水は、そうとう深い所からの噴泉地下水であるとみえ、後記のように近郷大渇水の際にも、この泉だけは湧出しており、近郷の人々の飲用水をこの泉に求めたといわれている。
ここにある水神宮の祭礼には、吉際村七人、竹之内村四人、松原村十一人、舟山村十三人、荒井村七人、寺方村一人の参加がみえ(安政七年(一八六〇)水神宮祭礼帳、岩瀬家文書)これらの村々の内鍛治内村は五軒のうち四軒はこの湧き水を飲用水として日常使用しまた水源地にもっとも近い村である。
以上の点からみて、これは前記争論のように用水権の争いではなく、水源地そのものの所有権の争いであったのではなかろうか。
鍛治内村から訴えを受けた藩では、郡奉行阿久津査右衛門、代官内山与次右衛門を現地に派遣して、実地に見分をさせた結果、鍛治内村の言い分は認められず、寺方村勝訴の次のような裁決が下された。
絵図面之池論所之儀遂見分候処鍛治内村申所之寺方池ト申者池と茂難申其上水神之論所之池正面と相見候殊先年渇水之時分致雨乞候節論所之池中江社勧請仕祭り候由双方申分無相違候得ハ論所之池寺方村水神之池之外無之候条寺方村理運御座候間重而違乱有之間敷者也
元文三戊午年(一七三八)
阿 査右衛門印
内 与次右衛門印
寺方村 組頭
百姓
(富池、岩瀬家文書)
(文中□の部分は虫喰脱字のため、岩瀬清氏が補筆したものである)。