第一節 上石上村城鍬舞の宿争い

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 神社祭礼時の座席の争いや、寄付帳、神社の掛札などについての首位争い、そしてここに記すような特殊行事の宿争い等々、このようなことが当時にあっては家格を誇示する対象ともなって、いろいろな問題を起している事例がある。
 これは上石上村の人達が陰暦の七月十五日大田原城中で藩主及び家臣達の前で演ぜられる時の仕度をする宿及び終って笠ぬぎをする場合の城鍬舞の宿の争いである。
 城鍬舞の由来については二つの説があり、一般的に言われていることは、天文十四年(一五四五)大田原資清が、居城を町島の水口から前室の龍体城に移した際、その完成を祝って、この時の労役に服した領内(石上村、上大貫村、下大貫村、関谷村)の百姓達に酒食を饗した際、興にのった上石上村の藤兵衛はじめ居合わせた百姓達が、酔にまかせて、或者はお膳をさかさにかぶり、或者は草木を髪にさして踊り、有りあわせた鍬で囃し立てるなど身ぶり手ぶりも面白く、即興的に踊ったのがこの舞のはじまりで、その後お城の年中行事として毎年城中で舞うようになってからは次第に獅子舞の手も加わり、長く現在まで伝わったのであるとする説であり、
 また一説には、大和国白河神社に奉仕していた楽人、韓橋(からはし)隼人なる者が、諸国流浪の末この地にきて、石上村に身を寄せていた折、たまたま諸国に悪疫が流行し、この悪病退散のためには「布留部の祈祷」が最も効験があることを村人に説ききかせ、農民達と一緒に神前で典楽し、その後延喜十四年(九一四)諸国に大雨のあった際にも、古老の秘蔵していた記録をもとにして往時の祈祷のことを調査してこの典楽を再興し、この時からこの舞を「白河の舞」と言って長く伝えていたが、慶長二年(一五九七)大田原晴清が大田原城を修復した際(慶長二年、あるいは上杉景勝の会津挙兵の慶長五年に城中で踊ったとの説は誤りあろうとの説もある。)上石上村の農民が興にのって踊ったのが始まりである。(石上城苦和序、奏楽石上大神白河ノ舞、城鍬舞由来、天保十二年(一八四一)城鍬稽古宿に付願書)
 どちらが正しいかについては軽々しく論ずることはできないが、大田原城完成の際に、上石上村の藤兵衛などが中心となり、大貫村、関谷村の人達も一緒になって踊った。とみる方が何か自然であるように受取れるのである。(現在大貫(塩原町大貫)にもこの城鍬舞が伝わっていると聞いている。)であるからこそ、その後も長く藤兵衛の家がこの行事を司る中心的な家柄として、諸準備(稽古あるいは笠揃)から笠抜(解散のお祝)まで、すべて藤兵衛の家を司と定めて三百年近くも何等不都合が無かったのではなかろうかと思うのである。
 それが江戸時代末期にあらわれるいろいろな争論と同じように、特権階級への反抗意識が次第に強くなり、ついには次の文書にみられるような非協力的態度としての宿争いの形となってあらわれたものではないだろうか。
 乍恐以書付奉願上候
御定例城鍬之儀村方当番之節は例年七月朔日村方之者一統私方ニ相集り役割稽古諸道具之細工等一切宿仕十三日笠揃迄仕十五日御上様江差上候節者組頭一道私儀茂罷出首尾能御定例相済候上十六日私方より相初メ村方先例通り相済候上笠抜私宅ニ而仕其節私より為造酒と一樽并握り飯先例通差出し振舞し来り罷在申候 村方より茂一樽持参いたし樽開キ一同ニ仕申候 村内組頭を初メ若居者一統帰宅之節は諸道具私宅江預ケ置帰宅仕候儀先例より仕来候儀ニ御座候 然ル処当年之儀茂先例之通り朔日より三日迄稽古仕罷在候処四日ニ至り今日より組頭宅ニ而稽古致候間其旨相心得候様以状使断御座候ニ付親類江相談仕候処仕来り之儀案之外之事ニ候稽古休居候而者 御定例江恐入奉存猶又私先例を相止メ様可致趣ニ付 御代官様江窺奉申上候処先例之通可致趣組頭一同被仰付帰宅仕候処未タ事柄不相訳儀ニ候間不相成趣申候ニ付又々上大貫村 御出役様江奉申上候処先例之通ニ御差図御座候得共何連ニ御座候共私方先例を相止メ不申候而は不相成趣を申村内一統相談も無之先例を相止メ候段心配仕親類共江相談仕候処宇右衛門宅江九日朝村内法善寺様御越ニ而御咄御座候は私儀御城江茂不罷出御家中江茂不罷出候ハハ役元江咄し可申入旨被仰候ニ付私儀先祖より申伝御座候は永正年中之頃相初メ候節先祖頭取ニ而茂仕候哉組頭一同御城内江茂罷出一切笠抜迄宿仕来り候儀証故之様申伝ニ御座候而代々仕来りを此度相止候儀迷撼至極仕候趣申上候処御帰寺被遊候而十一日ニ相成又々法善寺様より被仰候者組頭御役を以被申候儀ニ候得者以来を不為致候間手持より当稽古之儀乍ら我等掛合ニ相任セ是迄之通り先例之儀を仕来り通り事済可致様被仰候ニ付早速承知仕候様申上候ニ付十一日役元ニ而稽古仕十二日私方ニ相集り諸道古(具)張替等笠揃之儀は先例十三日晩ニ御座候得共間合兼候ニ付十四日夜笠揃是迄御定例之通十五日ニ差上十六日笠抜先例之通之様奉存候処村内若居者弁治、甚五郎両人来申候は笠抜先例之通り可致之処組頭衆中ニ滞候儀出来候ニ付不相済内は笠抜相成不申候事柄相済候ハハ早速可致趣申来り候ニ付右御掛り合様江承り候処村並ニいたし以来先例を相止メル様被仰付候ニ付案外之儀先日御取扱之儀を当年稽古斗り仕候筈ニ御座候既ニ十二日諸道具張替并笠揃私方ニ而仕候義御取扱之証故と奉存 御代官様并上大貫 御出役様迄先例之通り内済候儀相達候之処奉恐入候趣申候得共彼是相訳り兼罷在候処十七日御出役甚右衛門様に御召ニ而私并親類徳右エ門一同罷出候処被仰付候は掛り合并私御糺御座候得共相訳り兼候ニ付組親類之者異見差加ヘ相済候様被仰付候得共親類申上候は先例を相止メ村並之儀申聞候様無御座候段申上候ニ付私并組合同道ニ而十八日甚右衛門様御一同罷出候様被仰付候得共愚案不弁舌之私挙而被申候儀難渋至極奉存候 最初役元より相触候儀は当年より役場ニ而稽古いたし候様被 仰付候間今日より役元ニ而城鍬稽古可仕旨村内江無相談茂相触候ニ付稽古之儀茂笛吹等教候もの役者不揃ニ付自然と稽古茂相休罷在申候先例を相止メ村並ニ無御座候而は私宅ニ而笠抜不相成趣ニ御座候得共何卒格別之以 御慈悲先例之通稽古初メより笠抜迄私方ニ而仕候様被 仰付被下置候様偏ニ奉願上候以上

                               上石上村
                                  願人 藤兵衛
      天保十三寅年(一八四二)                五人組総代
           七月                        金之助
                                  親類 徳右衛門
                                  同  弥右衛門
                                  同  宇右衛門  同
                                  同  吉兵衛
      御役所様
(上石上薄井恒男氏文書)

 
 この文書の内容は次の通りである。即ち御定例の城鍬舞は毎年役割を定め、稽古諸道具を作りそのほか十三日の笠揃まですべて私の所に集まって準備を整え、十五日上様に御覧に入れる際には、組頭も同道、私自身も罷り出て無事に済ませた上、翌十六日は私の家から始まって村内での演技を済ませた上一切の行事が終わり笠抜をしました。その際私のところから御造酒(おみき)一樽と握り飯を出し、また村内からも酒一樽を出して皆で喜び合ってきたものです。そして若者達が帰宅の際は諸道具一切を私の家に預けたのが先例であります。それなのに今年も朔日から三日までは私の所で稽古をしていたところ、四日になって今日からは組頭宅で稽古をするからその旨心得てもらいたいと、使いをもって私のところへ申し越してきましたので、親類へ相談したところ、それは意外のことである、稽古をやめては御定例にもそむき、恐れ多いことなので、御代官様にお伺いしましたところ、「先例のとおりにしなさい。」とのことでありましたので帰宅しましたが、依然として話し合いがつかず、さらに上大貫村に出張の藩役人様に申し上げましたところやはり「先例どをりにするように」との御差図で御座いました。この旨を村の人達にも話しましたが矢張り話し合いは進みません。親類の者達とも相談しておりましたところへ、法善寺様(上石上法善寺の住職)が来て、「あなたがお城へも行かず、藩の重役方のところへも行かないというならば、私が話をつけてあげよう。」との言葉でありましたが、私は、「これは先祖からの申し伝へでもあり、また古く永正年中(一五〇四~一五二一)からこの行事が行われていたことは、組頭達も承知している筈であり、城中の行事から笠抜(一番しまいに道具をしまってお祝をする行事)まで私宅を宿として行ってきた証拠もあり、このことは村のひとは誰一人知らぬ者もないのに、今度からこれを止めなければならないことは大変迷惑至極のことであります。」と申しましたところ法善寺様は一応帰られましたが、十一日にまたお出でになり、「前の話しは組頭からのものをそのまま伝えたまでのことなので、この後はあなた方の方で先例どおりにされたらよいでしょう。」とのことでした。そこで私達は十一日、十二日と稽古をし、十三日になってもまだ話し合いがつかず、十四日の笠揃、十五日には御定例の舞を差上げ、十六日には前々からのとおり村内の行事も済ませ、笠抜をしようとしましたところ、若者弁治、甚五郎の両人が私方へ来て、「笠抜は先例どおりにしたいが、組頭に差し障りができたから、それが済んでからにしたい。」との申し入れでありました。
 そこで私は掛りの者にこのことを話しましたところ、「先例は止めてもよいではないか。」と言われて驚いている始末です。道具の諸準備も笠揃いも私のところでやっており、御代官様も、上大貫村出役様も「先例通り致すべし。」とのお言葉でありますのに、一体どのようにすれば宜しいのでしょうか。十七日には御出役の甚右衛門様に呼び出されましたので、私共親類一同が参りまして今迄のことをくわしく申上げましたところ、十八日に「組合の者と私と同道で罷り出るように、」申し渡されました。元来私は口下手で自分の思うことを十分に申上げることもできず困ってしまいました。
 最初に役元から申されましたのは、「今年からは役場で稽古をするようにしてはどうか。」とのことでありますが、こんなことでは、稽古も笛吹等も教えるものもなく、また役者も揃わず、稽古もなまけ勝になってしまいます。どうか今迄どうりにするよう仰せ付けいただきたく御願をします。との意味である。
 要は藤兵衛一門は天文十四年(一五四五)以来大田原城恒例の行事として藩主から与えられていた特権をあくまで維持しようとするのに対し、村人達の中には、城の構築の際に藤兵衛が主役つとめたといっても、それは代々村に伝えられたものであるから、村全体のもので藤兵衛だけが特権者として、特別な扱いを受けるべきものではない。との感情が表面化しての争となったように思うのである。
 この争いがその後どのような結末になったかについての記録は見当らないが、慶応元年(一八六五)城鍬舞諸事控帳によると平和裡に解決したと思われるので参考迄に次に記すこととする。
  慶応元乙丑年(一八六五)七月吉日
  城鍬諸入用控帳  上石上村役元
  (入用品及び代金控 略)
  踊子名前控
  一 笛吹キ      忠左エ門 弥左エ門 万弥 豊三郎
  一 団扇(うちわ)取      市三郎
  一 大鼓打      勘二郎 岸之助
  一 鐘附キ      長大郎 初太郎 稲吉 友之丞 辰三郎 岩治 滝三郎 助二郎
  一 先引       金三郎 子之吉 伝四郎 豊治
  一 役人代      喜六
    但し安兵衛湯殿山江参り候ニ付相頼申候
    役人       惣左エ門 安兵衛
  一 夫人(人夫である)七人
             外 作蔵
 この他に笛吹き雇として五名、鐘付き雇として三名が記録されている。この記録をみてもわかるように当時はすべて男が鐘付きをやったものであり、現在とは違い大人ではなかったかと思われる節もある。(大正三年烏ケ森での興業の際の鐘付きは、男六名、女六名、いづれも子供であった。)
 次に大田原城中での城鍬舞の様子も参考のためにしるしておく。
   七月十五日
 一 御盆棚為拝礼三席徒士例年之通罷出御帳江記退出之事
   但御少略中登城之儀勝手次第と被仰出候間不罷出面々も有之四ツ時過候ヘハ御帳引事
 一 荷葉門内箱番所より足軽壱人差出其外坂下御門外升形ニ立番触口足軽罷出候旧例之事
 一 坂下勝鑓手桶例之通差出御玄関前江も勝手桶差出右ニテ御前越引候事
 一 大手御門江番人壱人口立足軽城鍬中下男より差出候
 一 二ノ丸御門為人留仕度足軽右同断
   但扇引置候様申し付候
 一 御玄関縁より麻上下着用御徒士目付壱人例之通罷出候事
 一 御玄関前戸為馳候事
一 城鍬獅子御蔵前より相詰候段郡奉行町奉行申聞有之候間御用番江申達夫より当役先立ニ而御家老中老引続御用人御玄関例席江罷出候

 一 御寄合に罷出候御役々見物致候も其外御賭役祐筆御前裁奉行末々迄列席ニ而罷出候事
 一 御取次当番例之通見物致候処御用番被仰聞候間相達候事
 一 御玄関当番丙年より両席番相成候事
 一 手明之下男共迄見物致候様御用番御差図ニ付御賭役江相達候事
 一 城鍬獅子相済之事 (以下略)
 以上は城中記録の中から城鍬舞に関係する一部を摘出したものであるが、大田原城中でも七月十五日お盆の時の一つの行事として長く伝わったものであり、それであるからこそその型などには幾分の変化があったとはいい、長く保存されてきたものと思う。
 昭和三十二年栃木県の無形文化財の指定を受けてからは村人はこれが保存に努めるとともに毎年十月十七日の温泉神社の祭例には、必ずこれを奉納することが恒例となっているばかりでなく、近年大田原藩主の菩提寺である光真寺で毎年二月二十四日に墓前祭と称してこの舞を奉納するようになった。