宇田川村は元は那須家の領地であったが、貞享四年(一六八七)十月十四日那須家の後嗣問題から改易となってからは幕府の直轄領となり、後元禄年間(一六八八~一七〇四)には久世氏及び松野氏二旗本の知行所となったところである。従って名主は領主別に一名宛と総名主の三名がいたわけである。
しかし温泉神社は同一のものであり、不動堂も同じものを崇敬していたためこれを再建する時の寄付金の件で問題が起ったわけである。
この上、下二つの村の総名主が七郎右衛門であったが、七郎右衛門家はその後家運が稍衰え、総名主としての役目を果しかねるという理由で、その役を辞し、その後は後任をきめず一応茂右衛門がその仕事を兼務するような形で四十年近くも勤めたが、後三佐右衛門が正式の総名主となった。
宇田川村は下組(旗本久世氏の所領)と上組(旗本松野氏の所領)とに分れており、茂右衛門は下組の名主であった。家は裕福で、村人達にも金を貸し付けていたり、不動金の三拾両も用立てていた。「今不動堂を再建するためにこの金を村人達から取り立てては、借用人が困るであろうから、不動堂の再建の議はしばらく見合わせてはどうか。」といって稍反対の意向を示していたが、役人が茂右衛門と話し合った結果では、必ずしも反対するものではないことが明らかになってこの問題も一応解決はした。
その結果、金の醵出の件について村中のものが相談をし、不動堂覚乗院から十両の醵出を願い、その不足の分は村人の寄付によることにしたのである。その際茂右衛門が勧化帳の初筆は自分でなければ寄付をしないと申し出たのである。村人達は、このようなことは古来からの習慣に従うべき問題で、今初筆のことを云々すべきではないであろうとの意見であったが、茂右衛門は奉加金(寄付金)の掛札(神社などに寄付の金額を書いて掛ける札)は自分が正席でなくては承知出来ないの一点張りであったので、部落の人達もいよいよ困ってしまい、遂に不動堂の再建も一か年延期しなければならない始末となった。
そこで覚乗院では自分一人の手で寄付を募り不動堂を再建すべく村人に相談したところ、茂右衛門からまたまた横槍が入り、「覚乗院は成就院の支配下にあるお堂であるから、「不動別当」と書くことは、片府田村の宝寿院(成就院の本寺)から差し止められている筈であるといって反対したのである。そこで村人達は片府田村の宝寿院に行き、このことをお尋ねしたところ、宝寿院では、「そのようなことは一言も言った覚えはない。」との返事であったので、再度茂右衛門と話し合ったが、埓があかず、それで是非地頭様(領主)の御威光で裁いて戴きたい。」と次のように願い出たわけである。
文政七年不動堂再建之談判席争ニ付願書
乍恐以書付奉願上候
一御知行所野州那須郡宇田川村覚乗院奉申上候ハ本尊不動堂年来再建立仕度心掛居候処去亥年中惣村一統相談之上先役支配名主忠治并合給名主幸蔵建立取究大工職人より絵図面為致候処名主茂右衛門申候ハ不動金村方ヘ貸付金三拾両元利取立ニ相成候而ハ借用人一同難渋之趣茂右衛門申候ニ付任其意指置申候 右不動金利分滞ニ付去卯年中御地頭所様ヘ奉願上候而茂右衛門御召出し御糺し候 右一条落着仕候ニ付去未三月四日三組名主儀兵衛、茂右衛門、合給名主銀蔵拙寺宅ニ於テ不動堂再建之趣右三人申談事候処建立可然由申ニ付拙寺方より三ケ年ニ金拾両可指出由申然ル上ハ惣村檀中奉加等夫々ニ頼入候処右三組名主申候ハ何連村内小前百姓相談之上貴寺方ヘ挨拶可仕と被申罷帰候 同八日当村成就院ニ於テ惣村役人小前一統来会仕不動堂建立之趣相談之処一同熟談之上取究仕依之支配名主儀兵衛方ヨリ拙寺ヘ申来り候て建立願之通惣村不残致熟談候右ニ付三月十日惣村役人小前男女共ニ不動堂ニ於テ御神酒振舞致候処其節村役人申候ハ大望之建立ニ候得ハ村方ニ而慥成世話人相立可然由申ニ付村三組之内拾五人相頼 同十五日致振舞其上帳面八冊世話人方ヘ相渡申候 茂右衛門申候ハ勧化帳之義ハ茂右衛門初筆ニ無之而ハ不相成由申ニ付拙寺申候ハ初筆先判彼是争而ハ建立の妨ニも可相成と存候ニ付勧化帳印形之義ハ惣村役人一判新規印形取調初筆先判争無之様仕度存候処又々茂右衛門申候ハ建立奉加金掛札之義ハ茂右衛門正席ニ無之候而ハ不相成由申ニ付是迄建立ニも不相成甚タ当惑罷在候処当申三月中申出ニて建立壱ケ年も相延右茂右衛門故障ニ付建立相止候も歎ケ敷存候ニ付村方役人世話人不相構拙寺壱人ニ而近村ヘ不動護摩永代講相勧金子出来次第当時有来ヘ不動堂屋根皆根次等いたし置可申と村役人ヘ相談之処茂右衛門申候ハ覚乗院義先年菩提所成就院支配ニ有之候其上不動別当ト申事札守り等ヘ書記候事ハ不相成由下組組頭与兵衛 丹作両人之者ヘ申ニ付惣村役人関普請出席合給名主銀蔵宅ニ而拙寺并支配名主儀兵衛同道ニ而茂右衛門方ヘ掛合申候処茂右衛門申候ハ成就院本寺片府田村宝寿院右之段被申越候と茂右衛門申ニ付拙寺宝寿院方ヘ掛合候処宝寿院挨拶ニハ拙寺ニ而左様之義申候義決而無之旨返答ニ御座候ハ茂右衛門何連故障之筋と存候故組頭丹治拙寺同道ニ而及掛合候処右躰始末ニ有之候ヘハ無拠今般小川村ヘ御地頭様御出役様有之候ヘハ以書付奉願上候元来拙寺不動堂之義ハ延享三丙寅年先住妙法院代再建立仕候其節下組支配名主七郎右衛門、大工権兵衛両人者棟札ニも記置候処茂右衛門何連之筋ニ而初筆先判争致候哉相分リ不申候 先住宥仙代文化三丙寅年不動堂前打喝当村百姓弥兵衛母近村致奉加納置候節之掛札も下組支配名主先役忠治初筆ニ有之茂右衛門二筆ニ有之候、又先住玉隆代二童子新仏致建立其節不動開帳仕近村勧化致候帳面ニも下組支配名主忠治組頭治左衛門同勘蔵右三人之印形ニ而奉加仕候慥成帳面等も有之是迄御地頭所様ヘ拙寺方ニ而奉願上候筋有之候而も下組役人方ニ而致添翰済来候ヘハ何卒御地頭様御威光ヲ以名主茂右衛門御糺し之上下組支配名主ニ而万事致世話候様拙寺願之通何卒不動堂修覆仕候様被仰付被下候ハハ偏ニ難有仕合奉存候以上
当御知行所
野州那須郡宇田川村
文政七申年(一八二四) 当山修験
五月 日 覚乗院
御地頭所様
御役人中様
(宇田川文書)
文政八年不動堂再建之見込ニ而席争別当覚乗院願書
乍恐以書付奉願上候
一御知行所宇田川村下組名主、年寄、組頭、惣百姓一同奉申上候、元来当村之義ハ福原那須遠江守様御領地之節延宝五巳年之御検地御繩請ニ御座候 御水帳之上書ニ其時之村役人名前書記有之候 下組名主長右衛門初筆茂右衛門次筆ニ御座候 下組ハ先年より組頭弐人年寄壱人、中組ハ組頭も無御座名主壱人年寄壱人都合六人表紙ニ為地案内と書記有之候猶又不動尊鎮守温泉明神成就右三ケ所共ニ下組支配仕来候処宝永三戌年当御地頭所様ヘ御引渡ニ相成其時分長右衛門弟七郎右衛門名主役仕其子供孫兵衛其子七郎右衛門迄三代名主役相勤候処七郎右衛門義身上困窮仕名主難相勤退役仕其節跡役相勤候者無御座中組名主茂右衛門ヘ御頂ケ無仰付四拾年来名主茂右衛門支配受罷居候処寛永六寅年組訳ケ奉願上候処御聞済之上組頭持被仰付諸御用向御年貢取立罷居リ其後三左衛門方ヘ先規之通本役名主被仰付右七郎右衛門取扱候諸帳面不残所持罷在候尤只今之不動堂ハ延享三寅年御建立ニ御座候先名主七郎右衛門万事世話致名前書記有之候 此度再建立仕度旨覚乗院三四ケ年以前ヨリ相願候得共両組名主席中争無拠去申四月中村茂兵衛殿御出役ニ付願書差上候処御聞済ニ相成七月中中村茂兵衛殿より書面ヲ以被仰聞候て不動尊之義ハ下配支配之事ニ候得共儀兵衛ハ本人茂右衛門ハ加印之事ニ候得ハ次筆可然旨尤寄進掛ケ札之義ハ金高上座初筆可仕段無仰越候 別当役人共ニ承知仕右之趣茂右衛門方ヘ両三度掛合候処茂右衛門挨拶ニハ御下知之趣何分承知仕と答置去暮中江戸出府仕如何相願候哉茂右衛門義道逆取斗存候
一今般覚乗院奉申上候ハ前書村役人申立候通先年建立之砌先名主七郎右衛門万事世話仕名前棟札書記有之候左候得ハ中組名主茂右衛門上座可為致謂無御座候中村茂兵衛殿被仰越候通下組支配之義ニ御座候勧化帳ハ勿論入仏遷座之節儀兵衛方ヘ上座被仰付候様奉願上候左茂難相成御儀ニ御座候ハハ寺社御奉行所ヘ御差出被成下ル様此段偏ニ奉願上候以上
御知行所
那須郡宇田川村
願人別当 覚乗院
文政八酉年(一八二五) 百姓代 金七
四月 組頭 丹治
組頭 与平
年寄 忠治
名主 儀兵衛
御地頭所様御内
小林又左衛門様
(宇田川文書)
この問題が、その後どのような解決がなされたかについての文書は見当らない。ただこの問題のおこりを前の文書でみる限りでは、茂右衛門一人が悪者にみえ、何とも手に負えない横車を押している人物のように受取れるが、事実はもっと別な所にあったのではなかろうか。それは茂右衛門は宇田川村下組旗本久世氏の名主であり、一方総名主三左衛門は上組松野氏の領地の者であり、このように領主の異った部落間では何事につけても話し合いが旨く行かず、この時の首座(初筆)の争いもこんなことに原因があったのではなかろうか、しかしそのこととは別に自分の地位を他の者より少しでも優位におこうとしたことも事実であり、宇田川村の初筆の争いもいくつかの要因が重なり合って、このような問題へと発展したようにも考えられるのである。
この争いに領主が介入していると考えても領主は二人であり、一見おだやかに解決ができるようにも思われるが、宇田川村九百四十一石三斗一升四合の内松野氏の知行高が七百二十四石一斗六升一合七勺であるのに対し久世氏の知行高は二百十七石一斗五升二合三勺であった。宇田川村だけに限っては松野氏の知行高は、久世氏よりもはるかに多いので、或は簡単に問題は解決するようにも考えられるが、当時久世氏の勢力は松野氏をはるかに凌駕するものをもっており、一例をあげれば、倉骨村、三色手村、青木若目田村の一部、宇田川村の一部、桜井村、奥沢村、大和久村、刈切村、星久田村、川下村、赤瀬村、平林村、荻野目村、上奥沢村、小滝村、堀米村、乙連沢村、久保村等この地方だけでも三千石以上の所領を有する旗本で、こんな点にも問題を複雑にする要素が多分にあったように思うのである。
江戸幕府末期の頃一つの村内でいろいろな問題のおこっているのは、一つの村を何人かの領主が分割統治するために争のおこることも多かったようで、このために村人達もいろいろと苦心のあったことを古老達の物語りに聞かされることがある。
小種島村などは僅かに百五十九石弱の土地であるが、幕末の頃は、加賀美為之助、中根九郎兵衛、浅井信之進、本多政之助、加賀爪左衛門等五旗本の知行所であり、それがいづれも三十一石七斗三升四合宛の領地であった。従ってこの地には名主に相当する人が五人おり、その村の行政も大体に於て五つに分れていたと見るべきで、そのためにこの村の人達はいろいろと不自由があったばかりでなく、領主達の意見の対立は、やがて村の人達の意見の対立となることもあり、村の発展のためにも大きな障碍があったのではなかろうかと推察されるのである。